「退職金は3,500万円でした」「おつかれさま。では半分いただきます」…定年退職の60歳夫、結婚34年の妻から突き付けられた「想定外の要求」
38年間会社に捧げ、ようやく迎えた定年退職。3,500万円の退職金通知を妻へ見せた翌朝、夫の前に置かれたのは1冊のノートでした。そこに書かれていたのは、退職金をきれいに2等分した計算式。結婚34年目、妻が突き付けた「想定外の要求」と、定年を機に激変した熟年夫婦のリアルな選択に迫ります。
退職の1ヵ月前に届いた通知と、差し出された「ノート」
「まさか、あのタイミングで言われるとは想像すらしていませんでした。頭が真っ白になるとは、まさにこのことです」
都内の大手インフラ企業を60歳で定年退職した、加藤和彦さん(仮名・60歳)は、当時の出来事を振り返ります。加藤さんは新卒入社以来38年間、実直に働き続けました。大学卒業後に結婚した妻の由香里さん(仮名・59歳)とは結婚34年目。2人の子どもはすでに独立し、数年前からは再び夫婦2人だけの生活を送っていました。
現役時代の加藤さんは、典型的な「仕事人間」。出張や残業が多く、家事や育児のほとんどを由香里さんに委ねていましたが、本人は「不自由のない暮らしをさせている」という自負があったといいます。
一般的に、退職金の正式な金額が判明する時期は会社によって異なります。多くの企業では、退職が正式に決まった後に退職金の計算を行い、退職日の1〜2ヵ月前から退職日頃に金額が書面などで通知されます。
加藤さんの会社でも、退職日の1ヵ月ほど前に正確な退職金額が通知されました。その額は「3,500万円」。加藤さんはその書面を、自宅のリビングで何気なく由香里さんに見せたといいます。
本当の「想定外」は、その翌朝の食卓で待ち受けていました。
朝食の片付けを終えた由香里さんが、加藤さんの前に1冊の大学ノートを置きました。そこには、前夜に見せた退職金「3,500万円」という数字と、それをきれいに2等分した「1,750万円」という計算式が書かれていたのです。
「おつかれさま。長い間、働いてくれたことには感謝しています」
「だから、この退職金の半分、1,750万円は私の口座に移してください」
「これからはお互い、干渉せずに生きていきましょう」
由香里さんの口調は極めて穏やかでしたが、その目は一切笑っていなかったと加藤さんは語ります。
「卒婚」の提案と、経済的自立の選択
由香里さんが求めたのは、即座の法的な「離婚」ではなく、戸籍上の婚姻関係を維持したままお互いの干渉を減らして生活する「卒婚」の要求でした。由香里さんは「これからはあなたの食事や洗濯は、基本的には自分でやってください。私も自分だけの時間を生きたいんです」と告げたといいます。
それから数週間が経ち、定年退職日を迎えました。会社の退職金規程に基づき、退職後1ヵ月以内に指定口座へ3,500万円が振り込まれました。加藤さんは由香里さんの意図を汲み、そのうちの1,750万円を由香里さんの口座へと送金しました。
加藤さんは、この提案に大きな衝撃を受けつつも、由香里さんの言葉の重さを反芻していました。
「大きな不満があったわけではない。ただ純粋に、子育てが終わり、夫の定年という節目を迎えたことで、これからは一人の大人として自立し、自分の人生を歩みたいと何度も言われました」
加藤さんが会社で必死に役職を上げてきたように、由香里さんもまた、人生の後半戦に向けたキャリアや生き方を真剣に考えていた――そう気づかされたそうです。
統計からみる「同居型卒婚」へのハードル
厚生労働省『令和7(2025)年人口動態統計月報年計(概数)』によると、全体の離婚件数は17万9,068組と前年より減少。しかし同居期間別に見ると、他のすべての期間で離婚が減少しているにもかかわらず、「30年以上」の夫婦に限っては増加しているという実態が浮き彫りになっています。
加藤さん夫婦(結婚34年目)が含まれる「30年〜35年未満」や「35年以上」の層では、定年退職や子育ての終了を機に、新たな人生の歩み方を選択する熟年夫婦が着実に増えているのです。
熟年離婚という選択肢が一般的になるなか、あえて法的な離婚には踏み切らず「同居型卒婚」を選択することは、経済的なリスクや煩雑な手続きを避けつつ、互いの自由を尊重し合うという、人生100年時代における現実的な落としどころといえるのかもしれません。
しかし、卒婚を円滑に進めるには明確なルール作りが必要です。民法760条では「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する」と婚姻費用の分担義務が定められています。戸籍上の夫婦である以上、別々に生活を送るとしても、経済的な基盤をどう分かち合うかが法律上の焦点となります。
互いの自立から始まった「新しい夫婦の日常」
卒婚生活が始まって数ヵ月が経過し、加藤さんの生活は現役時代から一変しました。
「家事は今も苦戦中です。要領が分からず、妻の大変さを痛感する日々でした」
加藤さんが家事に苦戦するのは無理もないことかもしれません。国立社会保障・人口問題研究所『第7回全国家庭動向調査』によると、妻が50〜59歳の世帯において、夫の1日の平均家事時間は平日でわずか39分、休日でも64分にとどまります。一方、同年代の妻は平日241分、休日276分もの時間を家事に費やしており、夫婦間で圧倒的な差が存在しています。
加藤さんのように現役時代を仕事に捧げ、家さを妻に任せきりだった男性にとって、退職後に突然自立して家事をこなすのは極めてハードルが高いと言わざるを得ません。
しかし、加藤さんの表情に暗さはなく、むしろどこか生き生きとした様子を見せます。自分でメニューを考えて料理を作ることや、自分のペースで時間を管理することに、新鮮なやりがいを感じ始めているといいます。由香里さんも自身の趣味や友人との時間を謳歌しており、同じ家の中にいながら、互いに適度な距離感を保って活動しています。
「今はお互いのスケジュールに干渉しません。それでも、夕食後にリビングでそれぞれ別の本を読みながら、たまに『今日こんなことがあってね』と雑談を交わす時間が心地よいのです。義務感で一緒にいたころよりも、今の関係の方がお互いを一人の人間として尊重できている実感があります」
