食卓に乗る一皿の「前と後ろ」を問う。人文地理学者・湯澤規子の食哲学
クックパッドのポッドキャスト番組「ぼくらはみんな食べている」。食や料理に熱い思いを持ち活躍するゲストを迎え、さまざまな話を語ります。クックパッド初代編集長の小竹貴子がパーソナリティを務めます。第78回目・79回目のゲストは、人文地理学者の湯澤規子さんです。
法政大学教授で人文地理学者の湯澤規子さんの研究テーマは、誰もが毎日繰り返す「食べること」の歴史です。食べた後の排泄まで含めた「循環」を問い続ける研究者が、台所で論文を書き、学生たちに「あなたの食は豊かですか」と問いかけ続ける理由とはなにか。クックパッドのポッドキャスト番組「ぼくらはみんな食べている」で語ってくれました。
台所で論文を書く研究者が「変わり者」と呼ばれる理由

大阪生まれの湯澤さんは自他ともに認める変わり者。「何屋さんですか」とよく聞かれるけど、うまく答えられないといいます。
子どもの頃の夢は「食堂で働く人」。3人姉妹で家事を分担する家庭に育ちました。絵入りのお菓子レシピ本を手に入れてからはレシピオタクになり、お小遣いを貯めてお菓子の百科事典を買っては読み物として繰り返し読むほど。親に内緒で失敗作をひとりで食べていたそうです。
料理の道を志して栄養士の勉強を始めましたが、「思ったより数学で、私が面白がってた台所の面白さとちょっと違う勉強がいっぱいあって」断念。代わりに選んだのが地理学です。フィールドワーク先を食べ物関係にすればいいと気づいてから、水を得た魚になったといいます。
大学から大学院時代にかけて、7〜8年間アルバイトをしていた先はとんかつ屋でした。なぜなら、高校時代に友人の家で食べたお店のとんかつが忘れられなかったから。家で食べるものとは全然違う、パリパリで熱い衣。「まかないで食べるにはとんかつ屋に入るしかない」と決め、働き始めます。
でも、厨房の中で見えてきたのは、お店の表口から見ていた世界とは全く違う社会でした。パン粉屋が搬入に来て、肉が下処理され、ゴミが出て、台車を押して裏路地を歩く。テーブルに運ばれる美しい一皿は、見えないたくさんの工程の上に成り立っていたのです。
「当時歴史の講義を担当していた先生に、勝手口から書く歴史っていうことを教えてもらって、まさにこれだと思ったのです」
食卓に乗る一皿の「前と後ろ」を問うこと。論文も著書も、ほぼすべて台所で書くのも、「台所の住民として、できることはそれぐらいかな」という感覚が根底にあるからです。
「食」より「胃袋」という言葉を選ぶ理由
湯澤さんは「胃袋」という言葉を好みます。
「食文化とか食資源とか、食って言った段階で、つるっと滑らかになっちゃうけど、もっとデコボコした生臭いものが、食べ物をめぐってはあると思うのです」
胃袋という言葉には、欲望の匂いと生々しさがあります。「食の最先端を担う学生たちが食べること自体には興味がなかった、その学生たちに生々しい世界を見せたくて」と湯澤さん。そのデコボコした感触の中にこそ、食の本当の姿が宿っていると考えるからです。

著書『胃袋の近代』(名古屋大学出版会)では、100年前の工場で働く女性たちの食の記録を掘り起こしました。「食の記録は残らない」と長く言われてきましたが、産業革命期に集団で食べるシステムが生まれたことで大量の資料が残されていたといいます。続く『7袋のポテトチップス』(晶文社)では出版後に読者から「自分の食の記憶も聞いてほしい」という手紙が殺到したほど。フィールドワークで集めた人々の食の記憶が戦後史として結実しました。また、『焼き芋とドーナツ』(KADOKAWA)では日本とアメリカの女性労働者の間食を比較し、同じ「甘いもの」でも社会的な意味がまるで異なることを示しています。
「甘いものはなくても生きられるよねっていうこと自体の社会的通念を覆したいっていうのはあって。生きることは思ったよりもいろんなものでできていて、食べるってことは栄養を取るだけじゃなくていろんな意味があるんです」
さらには、衣食住に「便(排泄)」を加えた視点で、江戸時代に排泄物を発酵させ肥料として農業に還す循環システムも研究してきました。食べた後がどこへ行くかを知らなければ、食べ続けることの本当の意味は見えてこない。「食べると出すを回してつなぐ」というテーマは、とんかつ屋の勝手口から始まり、人類の循環の歴史へと繋がっていたのです。
揺らいでいることこそが、豊かさだ

今年、大学の講義で270人の学生に問いかけました。「あなたの食は豊かですか」。返ってきた答えは、ほぼ全員が「豊か」と答えました。理由は「食べたいものを食べたい時にいつでも手に入るから」。
「食の豊かさを語る言語が、とても乏しいなって。ちっちゃいサイクルの中の固定した価値観の中で語られるっていうのが傾向として見えて」
価値観をほぐすために、湯澤さんは授業に「揺らぎ」を持ち込みます。
この考えのきっかけは、コロナでオンライン授業になった時のこと。教室では、学生がパンをむしゃむしゃ食べていたり、パンくずが落ちていたり、外の葉っぱをぼーっと眺めていたり……そういう雑然とした場の全てが授業を構成していたんだと気づきました。画一的な情報伝達だけなら教室はいらない。でも、あの揺らぎがあってこそ、学びの場は成り立っていた。そしてそれは、食の豊かさも同じだと湯澤さんはいいます。答えが1つに収斂していく画一さより、揺らいでいることの方がずっと豊かなのだと。
クックパッドのレシピには、その「揺らぎ」がよく見えるそうです。10人いれば10通りの親子丼がある。レシピ本には最適解が1つしか載りませんが、日常はもっと多様で、デコボコしています。
「揺らぐっていうことが、すごく私たち自身の生きる社会を体現しているような気がして。日常のお茶を飲む時の会話の中に、この世を説明する真実があるような気がして、それを探しては拾っては書いてるんです」
ご視聴はこちらから

🎵Spotify
https://hubs.li/Q02qmsmm0
🎵Amazon Music
https://hubs.li/Q02qmslg0
🎵Apple Podcast
http://hubs.li/Q02qmztw0
【ゲスト】

第78回・第79回(5月22日・29日配信) 湯澤規子さん
人文地理学者・法政大学人間環境学部教授。博士(文学)/1974年大阪府生まれ、千葉育ち。「生きる」をテーマに地理学、歴史学、経済学の視点から、当たり前の日常を問い直す旅をするフィールドワーカー。主な著書に『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、同書で生協総研賞第12回研究賞、第19回人文地理学会賞(学術図書部門)を受賞。『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書)『焼き芋とドーナツ―日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)、同書で第12回河合隼雄学芸賞を受賞。近刊の共著に『地球のまかないごはん―食・農・風景をめぐる往復書簡』(農文協)『イチからつくる蚊取り線香』(農文協)などがある。
【パーソナリティ】
クックパッド株式会社 小竹 貴子

料理愛好家・ 料理の楽しみ共創室 部長/創業期から参画し、初代編集長としてメディアづくりに携わる。現在は、料理家や生産者といった食のつくり手の声を届ける活動を行っている。「日経ウーマンオブザイヤー2010」受賞。プロの技術や食材の背景にある物語を、暮らしに馴染む言葉で伝えることをライフワークに、生活者の目線で食の楽しさを探求している。
X: @takakodeli
Instagram: @takakodeli

