母はいつも周りになじられていた。賢造さんはその後ろに隠れるように暮らしていた

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【前後編の前編/後編を読む】病弱な妻を愛しているけれど「もしいなくなったら」を考えてしまう。別の女性と10年関係を続け、“10年後”の約束にすがる53歳夫

 ものごとには「タイミング」というものがあるのかもしれない。出会いや結婚なども、あとから思えば「あのタイミングで会えたからよかったんだ」ということは少なくない。そう考えると、逆にすべてを「悪いタイミング」で決断してしまう人生もありそうだ。

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「なるほどね。僕はそうだったのかもしれません」

 吉永賢造さん(53歳・仮名=以下同)は少し微笑を浮かべながらそう言った。

母はいつも周りになじられていた。賢造さんはその後ろに隠れるように暮らしていた

「人生、いくつからでもやり直しはきくものでしょうか。今さらやり直したいというのも傲慢な気がしますが」

 彼が知人を介して送ってきたメールには、そんな文言があった。こういう文章を他人に送るのには、よほどのことがあったのだろうと感じて早速会ってみた。

母は我慢の人だった

 中肉中背、どこから見てもまじめなサラリーマンである。こめかみの白髪が少し目立つが、それがかえって彼を聡明に見せている。

 地方の農家に生まれた賢造さんは、両親と父方の祖父母、祖父の弟夫婦、父の兄という大人7人に囲まれて育った。ひとりっ子だったことを、母はいつも周りになじられていたという。家の中は常にどよんとした空気が流れており、暗い雰囲気だった。誰かと誰かが言い争っていることもあった。彼はいつも母の後ろに隠れるようにしながら暮らしていた。

「父には隠し子がいました。僕が中学に上がる頃、それがわかって、祖父の弟夫婦が怒っていたことがあった。祖父母はどうやら知っていたみたいでした。僕とその女の子は同級生だった。母はショックだったと思うけど何も言わなかった。文句ひとつ、自分の意見ひとつ言わず、父とその家族のためにすべてを犠牲にしているように見えました。東京の大学に進学するとき、僕は母に『一緒に行こう』と誘いました。母がいなくても、家はどうにかなる。母を自由にしたかった。でも母は首を横に振りました」

 母は我慢の人だったように見えたと賢造さんは言う。その後、母は夫の両親はじめ、夫や親戚たちが次々と亡くなっていくのを見送った。そして命を見送りながら、どんどんたくましくなっていった。最後はひとり生き残り、今も実家で元気に暮らしている。

「人生はわからないものだと思いましたね。母は狙ってそういう人生を送ったわけではないんでしょうけど。生き残った者が勝ち組なのかもしれないけど、母の生涯を考えると、なにが楽しくて生きてきたのだろうとも感じました」

東京にはなじめなかったけれど

 それは彼自身の人生にも言えることだった。東京で学生時代を過ごしたが、心から楽しいと思えたことは記憶に残っていない。常に「根無し草的なアウェイ感」を覚えていた。東京の生活は賑やかな半面、どこかなじめない。だからといって故郷に帰りたくはない。「ここではないどこか」「心から落ち着ける場所」を常に求め続けていたように思うとつぶやいた。

「それでも仕事をしなければ食べていけないので、東京で就職しました。バブルは弾けていたけど、採用が極端に減る前だったので、ギリギリ滑り込んだ感じですね」

 そこそこ有名な企業に入社、その後、吸収合併の憂き目にあうも、それもなんとか切り抜けて居残ることができた。運だけで残れたと彼は笑う。

「今思えば、あのころはどういう人生を送りたいかなんて考えたこともなかった。就職できたのだから、このまま定年退職まで会社にいるのが当然だと思っていたし、ごく普通に生きていくんだろうと漠然と思っていたような気がします」

 ただ、仕事は楽しかった。がんばれば、それに見合った達成感や満足感というリターンがあった。会社にいてもいいという安心感もあった。仕事を介しての人間関係で、さまざまなことも学んだという。

「それまで何かに必死になるとか全力を注ぐということがなかったんですよ。5年目くらいだったかな、おまえに任せると言われた仕事で、ライバル会社と争った件があった。何日も徹夜するくらい必死になって、コンペの結果を待ちました。結局、大手の会社にその仕事を奪われたんですが、トイレで泣きました。その後、3日くらいやさぐれて飲んだくれて。上司がめいっぱいつきあってくれました」

 会社に貢献しようというきれいごとではなかった。自分が生き残るために、あるいは存在意義というプライドを賭けた仕事だった。それでも上司が黙ってそばにいて一緒に「飲んだくれて」くれたので、彼はすぐに立ち直ってまた仕事に邁進した。少し強くなった自分を感じてうれしかったという。

「母の面影を見た」女性

 30歳前後になると同期や学生時代の友人たちも、いっせいに結婚していったが、彼はあまりその気になれなかった。独身を貫くつもりもないが結婚するつもりもない。いつかは、といいながら、いつそのときが来るかはまったく読めなかった。

 ところが35歳のころ、5歳下の後輩である怜菜さんに恋をした。色の白い、線の細いタイプの女性だった。仕事ができる一方で、控えめで、常に何かを我慢しているように見えるのが気になってたまらなかった。彼はそこに、若いころの母の面影を見たのだろうか。自分が幸せにしたいとふと思った。人を幸せにするなんて傲慢なことなのに、なぜかそう感じたのだという。

「アプローチしてデートを重ねて結婚を申し込んでOKをもらって。たった1年で、流れるように決まりました。それも今思えば、どういう家庭を作ろうなどときちんとしたビジョンがあったわけじゃない。なんとなくこの人と一緒にいたい、幸せにしたい。そう思って、静かな情熱だけで突っ走ったような気がします」

 静かな情熱、というのが彼らしい。自分は決して「情熱的なタイプには見えない」だろうと彼は言う。確かに物静かで論理的に見えるし、実際、話していても情熱で突っ走るようには感じられない。だが「実はいつでもここではないどこか」を求めてきた人だ。きっかけさえあれば、ときには暴走する可能性も大いにあるのだろう。

「食べさせてもらうのは本意ではないのだけど…」

 ふたりは会社の借り上げ住宅に住み、新婚生活をスタートさせた。怜菜さんは退職、まずは家庭を整えることに専念したいと言った。社内では仕事のできる人と評判だったから、賢造さんは少し意外に思った。

「怜菜は、『あなたに食べさせてもらうのは本意ではないのだけど、正直言うと、私はバリバリ仕事をするより家庭で家族のために生きていきたいの』と結婚後に打ち明けました。結婚前には言えなかったと。ひとりよりふたりで稼いだほうが経済的には楽だけど、分業も悪くはない。家庭のことは任せてもいいかなと思いました」

 自分で言うように怜菜さんは、いわゆる「家庭的な女性」だった。家事万端抜かりなく、料理はとびきり上手だった。ピザの生地も餃子の皮も手作りで、しかもおいしかった。毎日定時で帰って、妻と夕食の卓を囲みたいところだったが、当時の彼はとても忙しく、残業が続いたり出張があったりと仕事に忙殺される時期も多くなっていた。

「怜菜には悪いことをしたと思うけど、同じ会社だったから理解はありました。あのころは週末も家にいないことがあったから、平均すると家で食事をするのは週に2回くらいだったかもしれません」

 それでも怜菜さんは文句を言わなかった。ワイシャツもハンカチも、いつもピシッとアイロンがかかっていた。

 そして1年後、怜菜さんの妊娠がわかった。

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 怜菜さんの妊娠によって、賢造さんの人生はようやく落ち着くように見えた。記事後編では、2人を待っていた思いがけない喪失を紹介している。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部