なぜ日本軍は“架空の勝利”を信じたのか?「バッドニュースが上がらない」組織の罪と罰

日本軍が大敗したミッドウェー海戦(写真:Underwood Archives/Universal Images Group /共同通信イメージズ)
国会で憲法改正論議が進んでいますが、少々拙速ではないでしょうか。太平洋戦争の敗戦後、現行憲法は日本人の手で十分な議論ができないまま制定されました。その改正には、まず日本人自身で“あの戦争”を総括する「新・東京裁判」が必要だというのが私の持論です。
連載の5回目は、前回に引き続き「情報」に関する題材として、太平洋戦争における日本軍の戦果誤認・誇大発表を検討したいと思います。私は、組織・制度・文化の複合的な日本人組織の病理によるものと考えています。この組織的欠陥が、現実から完全に乖離した「架空の戦争」を国民に提示し続けました。
そして、いまだにあの戦争を肯定する人々がいるのも、この「架空の戦争」を信じているからではないでしょうか。
憲法改正の前に--大本営発表が作った“架空の戦争”の実態
まず、誤認・誇大発表の代表例をいくつかご紹介しておきます。多くの読者もご存じでしょう。
<台湾沖航空戦(1944年10月)>
「空母11隻撃沈、戦艦2隻撃沈」などと大本営は発表しましたが、実際は巡洋艦2隻大破のみ。撃沈艦はゼロ(のちに大本営はさらに誇大な戦果発表を行う)。
<ミッドウェー海戦(1942年6月)>
「米空母2隻撃沈」と発表。実際は空母1隻(ヨークタウン)撃沈。日本側は空母4隻を喪失しましたが、自軍の壊滅的敗北は隠蔽しました。
<レイテ沖海戦(1944年10月)>
日本海軍は壊滅に近い損害を出したのに、神風特攻隊の戦果など、国民の目をそらす発表を続けました。
台湾沖航空戦の誤報は特に深刻で、この“架空”の大戦果を前提にレイテ決戦の作戦計画が立てられたため、フィリピン戦全体の破滅的な結果に直結しました。
なぜこんなことが起きたのでしょうか。
海面の反射や対空砲火の閃光を「命中」「炎上」と誤認
第一の原因は、現場の部隊の戦果確認方法の欠陥でしょう。
日本軍の航空部隊は戦果の確認を搭乗員の自己申告に依存していました。一応、ガンカメラ(軍用機の機銃などに装備する映像撮影装置)を保有・運用していましたが、数量は限られていました。
一方、米英軍は、戦闘機と連動したガンカメラを、かなり広く装備(特に第二次大戦後期)しており、訓練・戦果確認・戦術研究用フィルムが大量に残されています。
日本軍は、ガダルカナル島陥落(1943年2月)のあと、空母不足もあり、空母の搭乗員を地上基地勤務に切り換えました。そして、ニューギニアやソロモン諸島の米軍を集中攻撃した「い号作戦」あたりから、誇大すぎる戦果が報告されます。
そうした報告を真に受けた司令部は、い号作戦に続き、ラバウル(現在のパプアニューギニアの東ニューブリテン州)周辺で展開した「ろ号作戦」でも、同様の作戦を実行したものの、結果的には航空戦力を失っただけでした。
最大の悲劇は台湾沖航空戦の虚報事件です。
荒天下に精鋭とされた若手の部隊を空母部隊の夜間攻撃に投入しましたが、実際には練度が低く搭乗員は未熟でした。海面の反射や対空砲火の閃光を「命中」「炎上」と誤認、そうした報告を集計すると「空母11隻撃沈」という数字になりました。
第二の原因は、各航空部隊の情報参謀・戦果判定担当者にありました。
搭乗員の申告を批判的に検証せず、航空艦隊司令部も偵察機による戦果の確認が不十分なまま過大な戦果報告を上級司令部に上げました。
結果、大本営の発表はさらに誇大となり、最終的に「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、駆逐艦15隻を撃沈・撃破」となりました。そして、これを陸軍が信じたため、誇大報告を基に策定したレイテ島決戦で大惨敗を喫することになるのです。
面目優先とデータ軽視、失敗の報告を許さなかった組織の病理
戦争に勝つために正確な情勢判断が欠かせないのは当たり前のことです。にもかかわらず、こうした誇大報告がまかり通ってしまった背景には、日本軍の間で暗黙の規範が存在していたためでしょう。
それは「上官に不利な報告をすることは不忠である」というものです。失敗を報告した部隊や個人は叱責・左遷の対象になりうることもあり、報告内容には楽観的方向にバイアスがかかる傾向がありました。正確な報告よりも「面目」が優先され、失敗を報告する者を罰し、成功を報告する者を褒める構造が日本軍の人事制度・組織文化全体にあり、組織的な虚偽報告を生んだと思われます。
そして、最大の不祥事が「海軍乙事件」です(なお「海軍甲事件」は連合艦隊長官の山本五十六殉職)。
概要は以下の通りです。
1944年3月末、米軍の激しい空襲から逃れるため、連合艦隊司令部はパラオからフィリピン(ミンダナオ島のダバオ)へ、2機の航空機で移動することとなりました。ところが猛烈な暴風雨のため墜落。司令長官の古賀峯一大将は行方不明(その後、殉職と認定)となり、参謀長だった福留繁中将は不時着に成功したものの、防水ケースに入っていた暗号や作戦計画を紛失しました。それらは現地住民からフィリピンゲリラを通じて米軍に引き渡されたのです。
その後、福留中将は解放されましたが、機密文書が敵に渡ったことは報告されませんでした。
米軍は手に入れた資料を綿密に検討。そこに書かれていたZ作戦(絶対国防圏を死守するための作戦)計画書を綿密に研究し、マリアナ海戦の完全勝利に結びつけます。実質上、ここで日本軍の敗戦は決定したのです。
これもまた失敗を過少申告あるいは隠蔽する体質の結果だったのです。
大本営発表を垂れ流すだけでなく、脚色・美化したメディア
その最大の責任は、 政治指導者の責任回避の構造にあったと言えるでしょう。
当時、軍事作戦は「統帥権の独立」により内閣・議会の統制外に置かれていました。天皇は「立憲君主」として直接的な作戦指揮を行わないため、実質的な最終責任者が不明確でした。首相・閣僚は軍事情報の詳細にアクセスできないことが多く、文民統制も機能していません。結局、「誰が決定したのか」が曖昧な合議制(御前会議・大本営政府連絡会議)により、責任の所在がはっきりしない構造でした。
悪いことに、こうした大本営による戦果の誇大発表にメディアの無力と無責任が加わります。
まず、メディアを強力に統制する制度ができました。
新聞紙法(1909年)、軍機保護法(1937年改正)、言論出版集会結社等臨時取締法(1941年)が成立。記者が独自取材で真実を報じることが犯罪となり、批判的な報道が全面的に禁止されました。さらに、内閣情報局が1940年に設立され、新聞・ラジオ・出版の一元的統制が可能になりました。
問題は国の圧力だけが原因ではありません。メディア自身が戦争を煽り、誇大発表に積極的に加担した側面もあります。
満州事変(1931年)以降、戦争報道が新聞の売上を伸ばすことが明らかになり、各紙が好戦的な報道に傾きました。例えば、東京日日新聞・大阪毎日新聞(いずれも現在の毎日新聞)などによる「百人斬り競争」報道のように大手紙は、戦争を「娯楽化」しました。「百人斬り競争」とは、日中戦争中の1937年に日本軍が南京へ進撃する際、2人の将校が「日本刀でどちらが先に100人を斬るか」を競い合った、という報道です(事件の史実性には様々な見方があります)。
さらに自発的に戦意高揚報道を展開し、大本営発表を垂れ流すだけでなく、さらに脚色・美化して報道するケースもありました。
もちろん、この責任は、各新聞社の経営陣・編集幹部と従軍記者にあります。これは、今日につながる問題なのです。
文藝春秋も軍に対して航空機を献納
戦後、日本のメディアは戦争協力について一定の反省を表明しましたが、体系的な自己検証は長らく不十分でした。
朝日新聞も毎日新聞も、戦時中の戦争協力全般の体系的検証は限定的で、NHKは、戦時中はラジオで大本営発表を放送する国策機関であったにもかかわらず、戦後の自己検証は部分的です。
私が属した文藝春秋の戦争協力と自己検証についても触れなければなりません。
「文藝春秋七十年史」(非売品)には、「第六章 魔性の歴史のなかで」と題して、歴史家の故・半藤一利(七十年史編纂時は文藝春秋の社員)が、戦時下の「文藝春秋社」の苦悩について書いています。
その要旨は以下です。
文藝春秋の創業社長で作家の菊池寛は、創刊15周年の1938年に「根本精神は中正な自由主義の立場にあって、知識階級の良心を代表するつもりである」と宣言していた。が、20周年には「時勢は、すでに急変した。雑誌の経営編集は、(中略)国家の国防体制の一翼として国家の意志として国策の具現を目標として経営編集せらるるべきである」と方針転換をしている。
そして、軍に対して航空機を献納したほか、雑誌「オール読物」を敵性言語である英語を使用しているとして「文藝読物」に改名。戦争協力雑誌として、「現地報告」「大洋」「航空」などを発行して軍部の宣伝に協力した。本心から協力した社員もいれば、国に取り入って甘い汁を吸おうとした社員もいた。社員も次々応召された。十二分に戦争協力したといえるだろう。
ただ、菊池寛は経営方針の転換はしたものの、その背景には彼が「日本編集者委員会」のトップで、公的立場から宣言せざるを得ない面があった。また、非協力出版社には紙の配給が制限されたため、軍部協力雑誌を出すことで、会社の経営を維持するという苦しい判断もあった。
昭和19年に「文藝春秋」に書いた菊池のコラムは、その心境を当時の風潮の中でギリギリ吐露している。「近頃の文章は非常に拙い。ある思想の表現に型ができあがってしまっているのである」
「権力の監視者」が「権力の拡声器」に変質
敗戦ののち、菊池は公職追放を受けましたが、取り調べは通り一遍で、GHQに呼ばれることも拘置所に収監されることもありませんでした。しかし、彼は文藝春秋を解散し、数人の社員で新会社をつくりました。

作家で文藝春秋の創設者の菊池寛。撮影年月日不明(写真:共同通信社)
文藝春秋の戦争協力は褒められるものではありませんが、戦後すぐに解散したこと、軍部協力社員を完全に排除したことなど、菊池寛は相当厳しい選択をしたと言えると思います。
それに対し、さらに踏み込んで軍部に協力しながら戦後も残り続けた新聞社の姿勢はどうなのでしょうか。
第二次大戦期の日本メディアの問題は、本来あるべき「権力の監視者」ではなく「権力の拡声器」に変質したことです。しかも、法律で強制されたからだけでなく、商業的な利益や社会的な同調圧力、組織の自己保存本能が複合的に作用した結果でした。
同じ敗戦国であるドイツのメディアと比較すると、日本のメディアの無反省は際立ちます。
ナチスの場合、帝国国民啓蒙宣伝省(1933年設立)ができて、大臣であるゲッベルスが新聞・ラジオ・映画・出版・芸術のすべてを統制しました。編集者法が成立し、帝国新聞院に加入しなければ記者活動はできなくなったうえ、宣伝省が毎日発行する日刊指令に従って、記事を作成することとなりました。
ただし、反省の度合いにおいては、ドイツは徹底していたと言えるでしょう。
現代の戦争報道やフェイクニュース問題にも通じる
連合国による占領期には「強制的浄化」(1945〜49年)があり、既存メディアは全面的に解体、全新聞は発行停止となりました。一方で、『デア・シュピーゲル』(1947年)など、現在のドイツを代表する新聞・雑誌の多くがこの時期に創刊されました。
公共放送も英BBC をモデルに、国家から独立した公共放送(ドイツ公共放送連盟=ARD各局の前身)を設立。そして現在にいたるまで、ドイツの主要メディアは自社のナチス時代の歴史を体系的に検証する取り組みをしています。メディア大手のベルテルスマンは、独立歴史委員会がナチス時代に軍向け書籍を大量出版していた事実を公表しました。
差別報道の禁止や報道の自由を守る法律、制度も整備しました。それでも排外主義が台頭するなど完璧ではありません。
この時代の経験は、現代の戦争報道やフェイクニュース問題を考えるうえでも参考になるはずです。特に日本のメディアのあり方を見ると、また戦前に戻る危険性を残していることに注意しなければならないでしょう。
戦時中の日本の誇大宣伝を振り返って気がつくのは、責任者の多くが戦後に法的責任を問われなかったという事実です。今後も、権力が情報を独占し、メディアが権力に従属すると、検証機能が失われ、社会全体が現実認識を喪失することになりかねません。民主主義にとって普遍的な警告は残ったままなのです。
筆者:木俣 正剛
