「夜になると、兄が布団に…」「首絞められたり、殴られたり」父の死後も続いた家族からの“虐待”…「戦争トラウマ」当事者家族の67歳女性が語る“暴力の連鎖”〉から続く

「戦争トラウマ」――戦地から帰還した兵士が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、無気力となったり、家族へ暴力をふるったり、アルコール依存に陥ったりする状態を指す。近年、メディアでも注目され、今年3月からはその実態を描いたドキュメンタリー映画『父と家族とわたしのこと』も公開されている。

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 大阪在住の藤岡美千代さん(67)は、戦争トラウマを抱えた父・古本石松(ふるもと・いしまつ)さんから激しい虐待と性暴力を受けて育った。47歳で自死した父の記憶に長年フタをしてきたが、戦争トラウマの存在を知り、父親の足跡を追い始めた。

 父親が戦地で心に“大きな傷”を負ったことを知った美千代さんは、なぜ戦争トラウマについて声をあげるようになったのか。父を一切許していない彼女が、父の写真を持って活動を続ける理由とは。ノンフィクション作家のフリート横田氏が取材した。(全3回の3回目/1回目から読む)


藤岡美千代さん(筆者撮影)

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藤岡さんが「自分で自分を救うことができた」理由

 美千代さんは今も父の足跡調査を続け、パズルのピースが揃っていくように戦時中の足取りがわかってきた。だが、どれほどになにがわかっても、「戦争トラウマ」が、家族を壊してしまった事実を消すことはできない。

 美千代さんは、人に語り、多くの書物を読み、最初の夫とは離婚して現在のパートナーと語り合ううち、自分の過去を客観視できる状態にまでたどり着き、かろうじて自分で自分を救うことができた。

「兄の私への性加害、私の子供への虐待とか、止める大人が誰もいなかったところで、連鎖が起きやすい。それを止めるべきだって気づいたのは、私自身が大人になってからですから。子供の時はもう無条件に、何が起きているのかわからない。大人になった私は止めることができるっていうのを自覚できた。今起きている戦争も、私たち大人が止めることができるって、信じてるんですね」

「戦争トラウマ」は個人の問題ではなく、社会の問題

 個人の問題ではなく、「戦争トラウマ」は社会の問題なんだ、と気づいてからは、美千代さんも他の遺族たちと連携して、どれほどの人が戦争で心を壊されてしまったのか、隠されてきた人々のことに光を当てようと声をあげはじめた。

 こうして家族会は国に働きかけを続け、2024年、厚生労働省は戦後初めて「戦争トラウマ」に関する実態調査に着手。こうした調査が戦後全くなされていなかったことに驚いたが、ともかくも一歩前進し、戦傷病者史料館「しょうけい館」所蔵の資料をもとに調べが進められた。

 同館は、日本傷痍軍人会(日傷)が働きかけ、戦傷病者の労苦を語り継ぐ目的で2006年(平成18年)に設けられた国営施設である。

精神疾患に陥った兵士は60万人以上…「心を病んだまま見えなくされた兵士」の存在

 調査によって、「戦傷者」と国家に認定された兵士のうち、戦争トラウマ(当時の呼称で言えば「戦争神経症」など)と見られる人々の一端が、ようやく世間に提示されることとなった。パネル展示「心の傷による労苦」のコーナーが同館に設けられたのである。

 筆者も見学したが、正直、展示は、実にささやかなものだった。それでも、ある文句は目を引いた。昭和13年、陸軍省医務局医事課長による貴族院での発言。

〈欧米軍に多発致しましたる戦争神経症なる精神病は幸いにして一名も発生致しませぬことは、皇国民の特質志気の旺盛なることを如実に示すものでありまして、皇軍の誇と致す所であります〉

 実態と全く異なる発言というほかない。強兵揃いの無敵皇軍に、心を壊した兵士など見えてはならなかったのだ。実際は、アジア・太平洋戦争勃発後、後半4年間のうちに精神疾患に陥った兵士だけでも60万人以上にものぼったと見られている。

 このうち旧国府台陸軍病院(統合失調症や双極性障害の患者を収容した千葉県市川市の軍病院)などで、治療を受けることができたのは、氷山の一角、わずか1万人ほどという。なんらかのケアどころか、その存在さえ認められなかった、「心を病んだまま見えなくされた兵士」がやはり、大勢いたのである。

父も家族も心が壊れてしまったのは、戦場で傷ついた「戦傷」

 厚労省の先の調査にしても、全容究明からは遠い。調査対象は「しょうけい館」所蔵の資料に限っている。ほかに糸口となる調査資料はないわけではない。

 帰還兵たちが傷病恩給申請時に使った「症状経過書」(負傷した場所や発病の時期、生活状況などを記し各都道府県に提出した書類)というものがあり、原本が総務省か国立公文書館に、控えが全国各都道府県に現存していることが京都新聞の調査で分かっている。

 開示はまだ一部の自治体にとどまっているが、家族会は、こうした資料へも調査を拡大してほしいと求めている。国は、戦後80年が経過して因果関係の判断が難しくなっていることや予算不足を理由に実施していない。

 石松さんも見えなくされたままだった。そもそも、父本人も、自分たち家族も、手や足を失ったのではなく、心が壊れてしまったのは、戦場で傷ついた「戦傷」だと思い至ることもできなかった。したがって戦後、なんら治療も恩給も受けられず、前述通り、困窮の暮らしに沈んだままだったのだ。

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「ここに、お父ちゃん、生きてたんや」藤岡さんが取材中に言葉を詰まらせた場面

 凄惨というほかない戦争トラウマ兵士との生活を、きわめてフラットな口調で語ってきた美千代さん。唯一、言葉を詰まらせたのは、父の軍歴調査の際、ロシア側が保有していた新資料に出会ったときのくだり。

 シベリアに抑留されていた兵士は、何か所かの収容所に移動させられることもあった。その際、健康状態を調べられ診断書が作成されたことがあるようだが、美千代さんの父のものも残されていた。ロシア語でタイプされた書類に視線を落とすと、

「古本石松って。漢字で署名がありました。その、文字を読んだとき……ここに、お父ちゃん、生きてたんやって」

 戦争が押し付けてきた抱えきれない衝撃を、父は子どもにも押し付けた。小さな身と心を引き裂かれる思いをさせられたその子は、半世紀を経ても、直筆の、父の息遣いに会えた瞬間、あふれる涙をとめることができなかった。これが、親子なのではないだろうか。戦争がなかったら、違った関係があったはずだ。

「平和な時代に生きていたら…」布でぐるぐるまきの父の写真を持ち続けるワケ

 母が亡くなって遺品整理をしていたときのこと。美千代さんは和箪笥の引き出しの奥から、下に向けてしまわれた写真を発見した。数十年はそのままであったらしい。オモテに返すと、海軍帽をかぶった、若き日の父の写真だった。それ以上、見つめることはできなかった。

 兄妹の誰も見たことのなかったモノクロの兵士の写真は、すぐに布にくるんで目に触れないようにした。だが今、美千代さんの家の、家族写真が並ぶなかに、布で覆われたままそれは並んでいる。

 写真は、家族会の一員として厚労省へ向かうときにも「連れていった」。大阪から東京へ向かう新幹線の窓辺に置かれた、布でぐるぐるまきの写真へ美千代さんは話しかける。

「あんたの時代にこんな新幹線なんかなかったよね、とかね。あんたのことで国と交渉するからなと、あんた、よく聞いとけよっていう感じでね」

 新幹線の車窓から、遠くに山が見えてきた――写真の兵士と、その娘は同じほうを向く。

「お父ちゃん、ほら、あれが富士山やで、って。平和な時代に生きていたら普通に一緒に観られたなって」

「父がしたことを一切許してはいない。ただ…」“当事者”としての藤岡さんの想い

 美千代さんは父がしたことを一切許してはいない。ただ、無駄死ではなかったのだと証明しようとしている。父は、自分から壊れたのではなかった。

 戦争トラウマの兵士から家族への連鎖は、この国のあちこちで同時多発的に起きていたのに、世間からは見えなかった。傷は今も残っている。美千代さんも、成人してからも何度も暴力を受けたトラウマから、フラッシュバックが起こった。

 戦争は、戦闘が終わっても次世代にまで引き継がれ、終わらない。このことは、どこに責任があるのか、美千代さんは、「当事者」として、それを明らかにしたいと父に誓っている。

被害と加害が入り組んだ地獄の構造である戦争

 最後にもう一点、筆者として記しておきたいことがある。

 元兵士はこうして、被害者といえる場合もある一方、「加害者」もまた大勢含まれていることである。中国大陸や東南アジアなどへの侵攻時、残虐行為に手を染めた兵士は多い。戦後、その罪の意識が頭をもたげてきて、戦争トラウマへと至ったケースも多数あったろうと推測される。

 余談だが、筆者は日頃、盛り場を徘徊していろいろなことを書いている。本稿を書き進めながら、とある歓楽街の老マスターの嘆きを思い出した。

 彼は昔、酔っては戦場の話をしあう男たちの話を筆者にしてくれた。男たちは、元兵士であった。飲むうちにだんだんと目がすわってきて、大陸で犯した残虐行為の数々を武勇伝のように語ったという。多くは、背広を着た身ぎれいな老紳士たちだったと。

 昭和の終わりごろまで、世間には見えないようにして、夜の街でひそかにこんな会話が繰り返されていた。聞いていて本当にいやだったとマスターはため息をついていた。今思えば、男たちは酔って他人に話すことで、精神の均衡を保とうとしていたのかもしれない。

 被害と加害が入り組んだ地獄の構造が戦争。戦後何十年も抱え込まれたトラウマを解きほぐし、総括することは容易ではない。戦争はそう簡単に終えることができない。それなのに今また、始める準備をしはじめている気がしてならない。

(フリート横田)