「勉強もちゃんとやるから!」スパルタ母に中1で土下座、音大進学は猛反対され…ベンチプレス“世界金”で話題のフルート奏者が明かす、音楽家への「険しすぎる道」〉から続く

 世界の舞台で、ベンチプレスの金メダルを手にしたパワーリフターであり、繊細な音色を奏でるフルート奏者でもある上原麻衣さん。

【驚異の二の腕】プロフルート奏者→ベンチプレス世界金メダリストに…110kgを挙げる上原麻衣さんのトレーニング姿を見る

「音楽だけでは食べていけない」。学生時代に何度も投げかけられたその言葉は、社会に出てから現実となって上原さんの前に立ちはだかった。会社員として働きながらプロオーケストラの舞台に立ち、夢と生活のはざまで揺れ続けた10年間。それでもフルートを手放さなかったのは、音楽への思いが消えなかったから。

 音楽を生業とすることの難しさが、後にベンチプレスとの運命的な出会いへとつながる。その転機について、率直な思いを語ってもらった。(全3回の2回目/最初から読む)


上原麻衣さん 本人インスタグラムより

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音楽に対する熱が冷めてしまった理由

――大学生活の中で、音楽に対する熱が冷めてしまったとお話しされました。どうして冷めてしまったのでしょう?

上原麻衣さん(以下、上原) 音楽に充てるべき時間を、単位を取るための時間に充ててしまったことが大きいと思います。目的が、“もっとフルートが上手くなりたい”から“卒業すること”に変わってしまったことで、将来の自分像がぼやけてしまったというか。進路の相談をしても、「音楽で食べていくのは現実的ではない」「一握りしか生き残れない」としか言われないので、どこか自信をなくした自分もいたんだと思います。そういった意見を無視して、自分を貫けば良かったんでしょうけど、その覚悟がなかった(苦笑)。

――狭き門であると諭されたことで、良くも悪くもモチベーションがフラットになってしまったと。

上原 でも、心のどこかで音楽は続けたかったんでしょうね。だから、就職活動もしなかった。結局、卒業した後は、地元・茨城に帰ってきました。一時期は、飯嶋先生に紹介していただいたフルートの先生のもとで勉強していたんですけど、いろいろあって行かなくなって。

――茨城へ戻ってからも就職はしなかったんですか?

上原 しなかったです。父が保険の代理店業をしていたので、そこでお手伝いをしていたのですが、立命館に行ったのにフリーターですから、やっぱりケンカをしてしまう。1年くらい手伝った後は、CDショップや衣料店、結婚式場などでバイトをしていたのですが、見るに見かねた父から「自分の仕事を継がないか」って言われたんですね。私も特にやりたいことがないから、「やってみようかな」と。ただ、保険を扱うには知識や経験がないといけないと思ったので、地元で募集していた大手損害保険会社の契約社員になることにしました。そこから10年働きましたね。

プロオーケストラと会社員の二足のわらじ生活に

――その間、フルートは?

上原 趣味の範疇で続けていました。地元のアマチュア吹奏楽団と一緒に演奏したり、ボランティアで演奏をしたり。でも、折に触れてフルートを吹いているとやっぱり「プロになりたい」「音楽で食べていきたい」という夢がふつふつとわき上がる。それで、合間合間にコンクールを受けたり、某有名交響楽団のオーディションを受けたりしてみたものの、そんなに現実は甘くなく、玉砕の繰り返し。

 でも、いろいろやっていたからこそ、横のつながりができて、30歳くらいのときに、「新しくゲーム音楽のプロオーケストラを立ち上げるから、オーディションに参加しないか」と声を掛けてもらいました。私はゲームが大好きだから渡りに船だと思って受けてみると、ありがたいことに合格して。

――ということは、会社員とゲーム音楽のプロオーケストラの一員という二足のわらじ生活に?

上原 ですね。会社員なので朝9時から夜7時まで働いて、そこから深夜まで楽曲の練習という生活です。プロオーケストラって、本番の1週間ほど前からリハーサルが始まって、その直前に何十曲という楽譜をいただいて練習するんですよね。ですから、日中働いている私は、本番が近づくにつれ寝る間を惜しんで練習するしかない。ですが、「東京オペラシティ」「サントリーホール」「NHKホール」といった有名な会場で、『ファイナルファンタジー』や『ロマンシング サ・ガ』などの神曲を演奏できたのは、とてもうれしかったです。

プロの演奏家として活躍できるのは一握りの世界

――ゲーム音楽のプロオーケストラだけで食べていくというのは、やっぱり厳しいものなんですか?

上原 厳しいです(笑)。そもそもオーケストラの一員として、それだけで生計を立てられる人は、本当に一握りしかいないんですよ。誰もが知っているような某大手交響楽団に所属している人は、それだけで食べていけるけど、そうでない人は自分でレッスンを行ったり、自分でコンサートを企画して集客させたりしないと満足な収入を稼げない。

 ヨーロッパは音楽家の地位が高く、国から職業として認められているので、演奏家として食べていけるんですけど、日本はそうじゃない。音大や芸大を卒業して、一人前の演奏家であっても食べていけないから、途中で音楽をあきらめて会社員になるといったケースも珍しくない。プロの演奏家として活躍できる人って、音大の1学年に何人いるんだろうという世界なんです。

――だからこそ立命館時代の先生は、「やめたほうがいい」と助言していたと。

上原 現実を知っていたんですよね、先生たちは。当時の私は分からなかったけど、続ければ続けるほど、その言葉の意味が分かりました。プロオーケストラに所属していても、アルバイトをしながら音楽活動をしている人も少なくないです。だけど、「音楽家だ」というプライドがあるから、副業をしていたり、派遣社員として働いていたりといったことは言いませんよね。

 それに、日本は音楽家の地位が低いからか、「それって結局、道楽の延長線でしょ?」と言われかねない。道楽をしているんだから食べていけないのは仕方ないじゃん……そういう風潮を変えたいという思いを持っている音楽家は、私を含め、たくさんいるはずです。

演奏を依頼され「謝礼はお花でいいですか?」と言われたことも

――たしかにそういった傾向は感じますね。ヨーロッパなどへ行くと、道端でピアノやトランペット、バイオリンなどを演奏している人を見かけますけど、日本ではあまり見かけない。音楽と自然にエンカウントしないというか。

上原 私たちは、音楽を演奏できることも一つの「手に職」だと思っています。美容師さんやお医者さん同様、手に職を持って働く人たち。だけど、なかなかそうは思ってくれず、道楽の一種という位置づけ。それが悲しいんですよ。あるとき、某自治体から「演奏をしてほしい」という依頼が来たんですけど、「謝礼はお花でいいですか?」って聞かれました。

――謝礼がお花だけ!? 宿泊費や移動費は?

上原 ないです(苦笑)。「お花以外に、お弁当代も出しますよ」って言われて絶句しました。信じられないですよね。あちらからすれば、場所を提供するんだから十分だろうという認識なんです。一方、企業様からの演奏依頼はきちんとしているから交渉ができる。裏を返せば、何足かのわらじを履いている音楽家は、コミュニケーション能力がないと上手にやりくりできない世界とも言えるんです。

――なるほど。ただ演奏が上手なだけでは生き残れない……。

上原 もちろん、世界的なコンクールで受賞して、マスコミの皆さんに取り上げられるような人は別です。そういった天才的な演奏技術を持つ人ではない限り、つながりは大事で、実際、音大は楽器の腕を研鑽する場所であると同時に、縦横のつながりを作るという意味でも大きな装置になっている。

 私自身、そのつながりに助けられましたから。いろいろな人が私を紹介してくれて、「やらない?」って声を掛けてくれたことで、フルートを続けられた。その中で、どうやって自己プロデュースしていくかが求められる。それで私はベンチプレスにたどり着いたところもあるんですけど(笑)。

35歳で人生をリスタートした矢先にコロナ禍となり収入がゼロに

――意外でした。音楽家の方にもそうしたスキルが必要なんですね。

上原 おまけに、私は日中に働いていたから、段々と体がもたなくなってきてしまって、あるとき精神的にズドーンと落ちちゃった。会社でもトラブルがあって、このまま続けていたら、せっかくプロオーケストラの一員になれたのにダメになると思って、35歳のときに会社員を辞めました。フリーランスの音楽家として人生をもう一度リスタートしようと。

 振り返ると、私は10年かけて保険の仕事と音楽の仕事をずっと天秤にかけ続けてきたんですよね。もっと早い段階で決断すれば良かったと思うんですけど、考え方次第では、「自分は何がやりたいんだろう」とごちゃごちゃと考えてきたその時間も、今を形作るうえでは大事な時間だったんじゃないかなって。だからこそ、35歳になったときに背水の陣で挑むことができた。ただ……そのタイミングですぐにコロナ禍になってしまって。

――音楽イベントも不要不急と見なされてしまった。

上原 収入もゼロになりました。何かしらお金を稼がないといけないと思って、近所の農家さんでアルバイト。それだけでは足りないので、水商売の世界で夜職も始めました。

 ママが音楽を愛するとても素晴らしい人で、ピアノが置いてあるお店だったんですけど、最初はピアノに合わせて、私はフルートを吹かせていただいていたんですね。お酒を飲みながらお客様が演奏を聞ける素敵な空間なんですけど、あるときキャストの女の子が足りなくなって、ママから「麻衣、手伝って」って。私も人と話すのが好きなので、気が付くとキャストとしても働くように(笑)。

 ママもお客様もめちゃくちゃ愉快な人たちばかりなので、辞めるに辞められず、今も車で1時間半かけて働きに行っています。私がベンチプレスの大会に出ると、みんな応援して、遠征費をカンパしてくれたり。本当にありがたい場所で。

――ハンドメイドというか、温かい空間なんだなということが、笑顔で話す上原さんを見て伝わってきます。

上原 そういう場所で働いていますと公表することを、最初は私自身、迷いました。だけど、一生懸命応援してくれる人たちがいるのに、「隠す」というのは、とても失礼だなと思ったんですね。だから、以前受けたインタビューでもオープンにしても大丈夫ですと伝えました。

 私一人ではフルートを続けられなかったし、並行して行っているベンチプレスも続けられなかった。たくさんの人に支えられて、今の私がいる。ベンチプレスにしても、コロナ禍での出会いがあったからです。待っているだけでは何も変わらない。自分から動いてみることで、新しい出会いや道が開けるんですよね。

〈「音楽で世界一は難しい」と悟ったフルート奏者→30代後半でベンチプレスに挑戦したら…110kgを挙げて“世界金”を獲るまでの「人生逆転劇」〉へ続く

(我妻 弘崇)