お金持ちはどんな休暇を過ごしているのか。富裕層マーケティングを長く手掛ける西田理一郎さんは「常に決断を迫られる世界のトップエリートにとって、最高の贅沢は高級ホテルのスイートルームでシャンパンを傾けるようなものではない。彼らが1泊100万円を投じて手に入れたい“休暇”はまったく質の異なるものだ」という――。

■「つながり疲れ」が蔓延している

われわれ現代人は、起きている時間のほぼすべてをデジタルデバイスとともに過ごしている。

朝、目が覚めた瞬間にスマートフォンの画面をタップしてニュースアプリの通知を確認し、通勤電車の中ではSNSのタイムラインを無意識にスワイプし続ける。オフィスに到着すればパソコン上で絶え間なく送られてくるチャットツールや電子メールの処理に忙殺され、夜になれば動画配信サービスを眺めながら眠りにつく。

これは決して一部の極端なテクノロジー依存症の人々に限った話ではなく、ごく一般的なビジネスパーソンのありふれた日常風景である。

写真=iStock.com/Anon Thongsang
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「今度の週末や長期休暇こそは仕事のプレッシャーを完全に忘れて、ゆっくりとデジタルデトックスをしよう」

そう固く決意して、自然豊かな温泉宿や海外のビーチリゾートへ足を運んだ経験を持つ人は多いだろう。しかし、その決意が旅行の最終日まで完璧に守られることは極めて稀である。美しい夕日や豪華なディナーを前にすれば、無意識にカメラアプリを起動してSNSに投稿したくなり、ほんの数時間がたつと「会社から重要な連絡が来ていないか」「プロジェクトのチャットでトラブルが起きていないか」と得体の知れない不安に駆られる。

シリコンバレーの巨大テクノロジー企業は、人間の脳が持つドーパミン分泌のメカニズムを徹底的に研究し、われわれの注意力を1秒でも長く画面に釘付けにするための巧妙なアルゴリズムを構築している。個人の意志の力や精神論だけで、この強固な「デジタル空間の引力」から逃れることは、現代社会においてほぼ不可能に近いと言わざるを得ない。

地球上のどこにいても世界中とシームレスにつながることができるという圧倒的な利便性は、一方で「いつでも連絡がつく状態」を強制される見えない鎖でもある。休日のリゾート地であっても、ポケットの中にスマートフォンがあり、そこに電波が届いている限り、真の意味での心からの休息は訪れない。絶え間ない情報過多による脳疲労は蓄積し続け、ビジネスパーソンにとって最も重要な集中力や深い思考力は徐々に削られていく。これが、利便性と引き換えにわれわれが陥っている「つながり疲れ」の深刻な実態である。

こうした状況は、莫大な富を動かす世界のトップエリートにとっても例外ではない。本稿では、一風変わった彼らの“休暇の過ごし方”を紹介する。

■「高級ホテルのスイート」には興味ナシ

一般的に「富裕層のバカンス」と聞けば、最高級ホテルのスイートルームや、見晴らしの良いペントハウスを貸し切り、プライベートプールで冷えた高級シャンパンを傾けるような、絢爛豪華な光景を思い浮かべるかもしれない。

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確かに、そうしたわかりやすい贅沢を好む層は依然として存在する。代々受け継がれた資産を持つオールドリッチは、格式高い会員制リゾートや一等地の別荘といった「所有」や「権威」によって自らの確固たるステータスを確認してきた。

また、ビジネスの成功や投資で突如として莫大な資産を手にしたニューリッチの多くは、数千万円の高級車や希少なブランド時計、そして1泊数十万円のスイートルームでの滞在をSNSの画像として見せびらかすことによって「承認欲求」を満たそうとする傾向がある。

しかし、グローバルビジネスの最前線で苛烈な競争を勝ち抜き、世界のトレンドを牽引する真の富裕層、いわゆる「シン富裕層」たちの価値観は、近年劇的なパラダイムシフトを起こしている。

彼らにとって、大理石が敷き詰められたロビー、過剰なまでにうやうやしい接客、豪華な調度品といった物質的な豊かさは、もはや「お金さえ払えば誰でも手に入るありふれたもの」であり、わざわざ他人に誇示する価値のないものへと格下げされているのだ。

■シン富裕層が集う“ドイツの森”の実態

彼らが真に価値を置くのは、純粋な「精神的な余白」である。日々、数億円、数百億円という単位の重大な意思決定を連続で行い、世界中のステークホルダーから昼夜を問わず絶えず連絡が入り続ける彼らにとっての最大の贅沢は、「誰からも干渉されない特権」にほかならない。

どんなに最高級のベッドマットレスや希少なキャビアが用意されていても、スマートフォンが手元にあり、いつでもネットワークにつながる状態であれば、脳の緊張状態は完全に解除されない。

シン富裕層は、もはや「何かを足す(加える)」サービスには一切感動しない。「どれだけ不要な情報を引くことができるか」「いかにして社会から自分を完全に切り離し、疲弊した脳を初期化できるか」。この究極の「スイッチ・オフ」の体験こそが、彼らが莫大な対価を払ってでも手に入れたい新たなラグジュアリーの絶対的な基準となっているのである。

この「強制的なスイッチ・オフ」のニーズを、最新テクノロジーと狂気とも言えるほどの異常なこだわりで実現し、世界の超富裕層から熱狂的な支持を集めているホテルが存在する。ドイツ南西部の黒い森に位置する歴史的な温泉保養地、バーデン・バーデンにある「ヴィラ・ステファニー(Villa Stéphanie)」だ。

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■宿に施された“変態的”な仕掛け

ヨーロッパの王侯貴族に愛されてきた名門ホテル「ブレナーズ・パーク・ホテル&スパ(Brenners Park-Hotel & Spa)」に隣接して建てられたこの施設は、全15室(うち3室は広大なスパスイート)のみで構成される、高度な医療とウェルネスを融合させた究極のリトリート施設である。

一見すると、緑豊かな公園に囲まれた優雅でクラシックな館に見えるが、その建築の内部には、現代のホスピタリティの常識を覆すある「変態的」とも言える仕掛けが施されている。

なんと、客室の壁全体に、特殊な銅素材のシールドが施されているのである。

宿泊客がベッドサイドに設置された小さなスイッチを押すと、このシステムが作動し、室内のWi-Fiを完全に遮断する。さらにベッドサイドの別スイッチを操作すれば、室内の電気を完全に切断することもできる。

これは、単にホテル内のルーターの電源を切ったり、パスワードを隠したりするような生易しいものではない。壁に埋め込まれた銅素材が電磁波を吸収・遮蔽する「ファラデーケージ」と呼ばれる物理学の原理を応用しており、部屋を極限まで電磁波の少ない静寂の空間へと変貌させるのだ。

電波を遮断するためだけに、建物の構造レベルで壁全体に銅素材のシールドを施す。この常軌を逸した初期投資と徹底ぶりにこそ、世界最高峰のデジタルデトックスの真髄がある。滞在者は、自らのスマートフォンの電源を切るという「意志の弱さ」と戦う必要は一切ない。物理的なスイッチを一つ押すだけで、世界中の誰も自分にアクセスできなくなる絶対的な安心感と、ノイズのない静寂が強制的に手に入るのだ。

■1泊100万円宿に数カ月先まで予約が埋まるワケ

さらに、ヴィラ・ステファニーはただ電波を遮断するだけの宿泊施設ではない。

直結する専用医療棟には各分野の専門医が常駐しており、滞在中は世界最高水準の健康プログラムが提供される。例えば、最上級のスパスイートに滞在しながら、重金属の除去や血液浄化、細胞再生といった「体の根本からの再起動」を促す最先端の医療プログラムを受診することができる。

このプログラムは最低10日間の滞在が必要で、医療プログラム料金だけで4万2000ユーロ〜(日本円で約770万円〜)。宿泊費・食事代は別途加算されるため、総額はさらに大きく跳ね上がる。1泊あたりに換算すれば優に100万円を超える計算だ。

しかし、この圧倒的に高額な料金設定にもかかわらず、ヴィラ・ステファニーは常に数カ月先まで予約が困難な状況が続いている。中東の王族、欧州の貴族階級、そしてシリコンバレーのテック系ビリオネアや多国籍企業のCEOなど、世界の超エリートたちが、わざわざ数千kmの距離をプライベートジェットで飛んでまでこの「電波の届かない部屋」にこぞって逃げ込んでいるのだ。

事実、同ホテルのウェルネスプログラムは毎年メンテナンスに訪れるなどリピートする参加者も多い。彼らにとって1泊100万円以上という出費は、単なるバカンスの浪費ではない。強制的に電波を遮断し、脳と肉体を完全にリセットするこの時間は、次なる巨大なビジネスで圧倒的なパフォーマンスを発揮するための「最も費用対効果の高い自己投資」として明確に認識されているのである。

■「便利さ」はもはや日用品

このヴィラ・ステファニーの強烈な成功事例は、現代のマーケティングや富裕層ビジネスにおいて極めて重要な示唆を与えている。それは、「不便さ」や「制限」が、最も強力なプレミアム(付加価値)になり得るという逆転の現象である。

われわれの社会やビジネス環境は長らく、「いかに顧客の生活を便利にするか」「いかに速く、シームレスに世界中をつなぐか」を至上命題としてテクノロジーを進化させてきた。どこでも仕事ができ、いつでも無限のエンターテインメントを消費できる状態こそが「豊かさ」であると盲信されてきた。しかし、すべての人が高速なネットワークにつながり、あらゆる欲求が瞬時に満たされる現代において、「便利さ」はもはや誰もが享受できるコモディティ(日用品)へと成り下がった。地球上のどこでもつながるからこそ、意図的に「つながらないこと」が圧倒的な希少価値を持ち始めたのである。

これまでの富裕層向けビジネスやホスピタリティ産業は、顧客に対してさまざまなサービスやモノを「足し算」することで客単価を上げてきた。より高級な食材を使ったフルコース、より希少なヴィンテージワイン、より広大な面積の部屋、そしてサバンナでの野生動物観察といった非日常的なアクティビティの追加である。しかし、日常生活のなかで常に情報過剰な状態に置かれているシン富裕層にとって、これ以上の足し算のアプローチは「過剰なノイズ」でしかない。

彼らが渇望しているのは、過剰な装飾やノイズを極限まで削ぎ落とす「引き算のラグジュアリー」である。あえて利便性を奪い、社会から隔離された空間を提供し、強制的に自分自身の内面や身体と向き合わざるを得ない環境をデザインする。

ヴィラ・ステファニーのように、建物の壁に銅素材のシールドを施すという莫大なコストをかけてでも「何もない状態」「つながらない状態」を完璧に創り出すことが、結果として1泊100万円超という超高単価を正当化する最大の理由となっているのだ。

写真=iStock.com/donald_gruener
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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)
価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役
富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト
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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)