NHK「豊臣兄弟!」では、本能寺で信長が討たれ、光秀と秀吉が激突する「山崎の戦い」が描かれる。史実では、光秀が姻戚の細川藤孝に協力を要請するも、結果的に断られてしまう。なぜ藤孝は与しなかったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献や最新研究などから史実をひも解く――。

■光秀が頼った娘婿の父・細川藤孝

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第29回「天下への道」(7月26日放送)では、ついに秀吉(池松壮亮)と光秀(要潤)の決戦である山崎の戦いが描かれることになる。ここで光秀が敗北することは誰もが知っている。その敗北の理由は、畿内にいた諸大名がまったく光秀に呼応しなかったことだ。

山崎合戦之地の石碑(写真=ブレイズマン/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

中でも、光秀の要請を拒んだ代表格が、細川藤孝(亀田佳明)だ。この藤孝、今回のドラマでは第28回「急げ!秀吉」(7月19日放送)で、小一郎(仲野太賀)に対して勝算は光秀にあると言い放つ役回りになった。

光秀と藤孝の関係は、二重三重に縁が深い。同じ足利義昭の幕臣出身という出自。娘・玉(のちのガラシャ)は藤孝の息子・忠興に嫁いでおり、姻戚でもある。光秀にしてみれば、畿内で最も頼りになる、いや頼りにしていいはずの相手だった。

だからこそ、本能寺の変の直後、光秀は真っ先に藤孝へ協力を要請している。娘婿の父に頭を下げてでも、味方に引き入れたかったのだろう。まあ、気持ちはわかる。「お前しかいないんだ」と縋りたくなる相手ぐらい、誰にでもいる。

明智光秀像(写真=朝日新聞デジタルの関連サイト/Gameposo/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■光秀の要請に“頭を丸めて”応えた

それに対して、藤孝が返した答えは剃髪であった。「幽斎玄旨」と号して隠居し、家督も実務も忠興に丸投げするという無茶苦茶な方法で、この場を凌ごうとしたのである。しかも、父がこれなら息子もひどい。忠興はといえば、玉を丹後の山奥に幽閉している。

縁があるとはいえ、味方することもできない。そんな苦しい心情は理解できる。だとしても、頭を坊主にして逃げるというのが、ダサい。その後の光秀の末路をみれば「非情な現実主義者」とも「先を見通す目があった」ともいえるだろう。

でも、リアルタイムでは相当ダサい振る舞いだったはず。

いったい、なぜ、藤孝は光秀に対して中途半端な対応しかできなかったのか。息子の嫁の実家だから、情に絆されて割り切れなかった――そう説明したくなる。実際、後世の読み物の多くはだいたいこの筋で語ってきた。息子の嫁の父を、無下にはできなかったのだ、と。

しかし、もっと構造的な理由があったのではないか。藤孝が光秀に対して抱いていたのは、単なる「盟友への義理」ではなく、もっと厄介な、身動きの取れなさそのものだったのではなかろうか……。

■「書札礼」でわかる、藤孝の当時の地位

それを解く手がかりが、小久保嘉紀「室町幕府・織田政権における細川藤孝の地位――書札礼を中心に――」(『織豊期研究』19号)である。そもそも、細川藤孝とはどういう大名だと思われているだろうか。

以心崇伝賛「絹本着色細川幽斎像」(写真=天授庵所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

細川といえば足利将軍家を支えた管領家の一門であり、江戸時代には肥後熊本54万石の大大名として続いた家である。近年では子孫の細川護熙が内閣総理大臣にまでなっている。この経歴だけを並べると、藤孝自身も戦国の当初から独立した実力を備えた、揺るぎない大名だったように見えてしまう。

だが、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)の時点で、藤孝が置かれていた立場は、そこまで単純なものではない。丹後を任されてはいるが、それは信長から与えられた与力としての配置であって、代々の所領を自力で切り取ってきた戦国大名の版図とは性格が異なる。細川という名門の看板を背負ってはいても、その看板の実質……誰に対してどのような権限を持ち、誰に対して頭を下げる立場にあったのかは、必ずしも自明ではない。

小久保は、その地位を「書札礼」を中心として、明らかにしている。「書札礼」とは、書状を出す際に守るべき礼式、つまり誰が誰に対してどんな敬語・書式を使うかを定めたルールのことだ。差出人と宛先の関係によって、書き出しの言葉遣いから宛名の書き方まで、事細かに使い分けが決まっている。

■大大名・島津義久が“下手に出た”形跡

たとえば、目上の相手に直接出すのではなく、その側近を宛先にして間接的に伝える「進上」形式を取るか、それとも対等に近い相手として直接「謹上」で出すか。文末を「恐惶謹言」で締めるか、もう一段軽い「恐々謹言」で済ませるか。こうした細部の使い分けは、当人同士の感情とは無関係に、当時の身分秩序・力関係をそのまま映し出す。

つまり書札礼は、本人がどう思っていたかではなく、周囲からどう位置づけられていたかを教えてくれる史料なのだ。手紙の中身がどれだけ親密な調子であっても、宛名の書式一つで、両者の間にあった格の差は隠しようがない。

小久保が注目するのは、藤孝が薩摩の島津義久に宛てた書状だ。ここで藤孝は、「進上」「恐々謹言」といった、本来は目上の相手に使う丁寧な書式を用いている。

驚くのはここからだ。この手紙を受け取った島津義久は、わざわざ家臣の喜入季久という使者を立てて、太刀や馬といった進物まで添え、丁重な返礼状を藤孝個人に送っているのである。

九州にその名を轟かせた大大名が、一介の織田家臣にすぎない藤孝を相手に、まるで対等な交渉相手であるかのように贈り物までして丁重に応対する。これはおかしな話だ。藤孝はしょせん、身分でいえば島津義久に遠く及ばない立場でしかない。それなのに、なぜ義久はここまで下手に出たのか。

答えは単純だ。これは藤孝個人が偉いから使える書式ではない。

■将軍の権威を“お裾分け”されていた

論文によれば、この書状は藤孝が自分の意志だけで島津義久に送ったものではない。将軍・足利義昭が島津義久に宛てて出した「御内書」……多くの場合、将軍直々の命令書とセットになっている手紙なのだ。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)(写真=『国史肖像集成 将軍篇』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

この点を、小久保は「室町幕府の藤孝の書札礼としては、御内書に副状を付す将軍側近の立場により、大名権力から藤孝に対して通例の御供衆宛て以上の書札礼が用いられていた」と解説している。

将軍の御内書だけをポンと送りつけても、受け取った側は「これは本当に将軍様のお言葉なのか、間違いないのか」と不安になる。そこで、御内書に付き添う形で、側近の藤孝が「この御内書は間違いなく将軍様のご意志です。私が責任を持ってお届けします」という念押しの手紙を、同封する形で書き添えるのである。この念押しの手紙のことを「副状」という。

つまり藤孝は、将軍の手紙の「保証人」として、島津義久に手紙を出しているのだ。

保証人の立場である以上、藤孝は将軍本人ではないが、将軍の代理として振る舞う必要がある。だからこそ、本来なら一介の家臣が九州の大大名に使えるはずのない、目上への丁寧な書式を使うことができた。将軍の権威を、いわば「お裾分け」してもらっている状態なのである。

■いつの間にか“丁寧に扱われる”ように…

この「お裾分け」の構図は、逆方向からも裏付けられる。同じ論文が並べているのが、関東の雄・後北条氏政が藤孝に宛てた書状だ。妙な話である。関東に覇を唱えた大大名・氏政が、なぜわざわざ一介の織田家臣にすぎない藤孝に対して、「進上」というへりくだった書式を使っているのか。

理由は同じだ。氏政が本当に届けたい相手は藤孝ではなく、その先にいる将軍義昭である。藤孝はあくまで将軍への窓口にすぎない。だが、将軍への窓口である以上、その窓口自体にも礼を尽くしておく必要がある。藤孝が島津に対して厚礼を使うときも、氏政が藤孝に対して厚礼を使うときも、動いているのはまったく同じ原理なのだ。

ところが、話はここで終わらない。お裾分けのはずの権威が、いつしか藤孝自身の実力であるかのように扱われ始めるのだ。将軍の代理として振る舞い続けるうち、周囲の大名たちの側も、藤孝を「将軍に繋がる重要人物」として、丁重に扱わざるを得なくなっていく。窓口係が、いつのまにか窓口そのものの顔で扱われるようになる、という現象である。

いわば、現代でも国会議員の秘書なんかが、やたらと偉そうにしているのと同じだ。単なる事務の窓口にすぎないのに、勝手に権威ができあがっていく……藤孝の権威とは、そんなハリボテのようなものだったわけだ。

■信長の家臣になっても“格上”だった

では、信長に臣従してからはどうだったのか。

将軍義昭がいなくなれば、藤孝の「窓口特権」も消滅するはずだ。取次役という肩書きの中身がなくなるのだから、当然その権威も消える……はずなのに、そうはならない。ハリボテだったはずの権威が、しぶとく生き延びるのである。

ここで小久保は1581年と推定される、長岡(細川)藤孝・羽柴秀吉・明智光秀の三名が連署した文書を分析している。連署状というのは、本来、地位の低い者から順に署名していくのが通例である。ところが、この文書では藤孝が秀吉より上位に署名されている。

信長に臣従してからまだそれほど年月が経っていない時期でありながら、藤孝の家格(生家は将軍近侍の奉公衆系の家柄とされ、信長政権下では御供衆相当として遇されていたとみられる)は、依然として一定の重みを持って扱われていたことがわかる。将軍がいなくなっても、その「格」の記憶は、書式の中に生き続けていたわけだ。

丹後を任され、光秀の与力という立場に置かれてからも、藤孝が光秀より上位に置かれているケースが確認できる。行政上は光秀の指揮下に組み込まれた与力でありながら、書式の世界では、必ずしも単純な「上司と部下」の関係には収まっていない。

つまり、天正10年当時の藤孝の「格」は、藤孝がどれだけ強いか、光秀とどちらが実力で勝っているかといった話とは関係なかった。「かつて足利将軍家に仕えていた家柄である」という、いわば昔取った杵柄によって決まっていたのである。虎の威を借る狐として地位を保っていた。しかも、その虎は足利将軍家から信長へと、乗り換えられている状態だった。

■“本能寺”で崩れた「一番強い人につく」戦略

そもそも細川家といえば、管領を輩出してきた名門。応仁の乱では東西二大勢力の一方を担った大大名。その後も代々の当主が様々な形で歴史の表舞台に登場する……そんなイメージを持たれがちだ。

だが、それは大間違いである。細川、というより藤孝という男の本質は、自前の実力で勢力を築くことではない。常にその時々でもっとも強そうな相手に寄生し、その威光を借りることで自分の立場を保ち続ける。それが藤孝という人物の一貫した生存戦略だったのだ。

だから、本能寺の変が起きた瞬間、藤孝は立ち止まった。

錦絵 本能寺焼討之図(写真=楊斎延一画/名古屋市所蔵/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

これまで彼がやってきたことは、常に「今、一番強いのは誰か」を見極めて、その懐に潜り込むことだった。足利将軍家にまだ権威があった時は将軍家に。信長が強くなれば信長に。判断基準は常に、外側にある「今の勝ち馬」だった。

ところが本能寺の変は、その勝ち馬そのものを一瞬で消し去ってしまった。光秀が新しい勝ち馬になるのか。それとも、信長の後継者を名乗る誰かが勝つのか。まだ何も決まっていない、空白の時間が生まれた。

■「無風」の一手は計算だったか

こういうとき、寄生を生業とする者が一番やってはいけないのは、早まって間違った相手に賭けることだ。強いほうにつく、という判断基準が使えない以上、下手に動けば取り返しがつかない。

ならば、答えが出るまでとことん待てばいい。半年でも一年でも、情勢がはっきりするまでは、誰の懐にも入らず、誰の敵にもならず、じっと息を潜めていよう――藤孝の頭の中では、おそらくそういう算段が働いていたはずだ。

そのためには、剃髪して隠居するという、味方でも敵でもない「無風」の一手が、最も理にかなった選択だった。

つまりこれは、「盟友・光秀を裏切った」という話では、そもそもない。裏切るも何も、藤孝は最初から光秀と同じ土俵に立っていなかったのだ。光秀が挑んでいたのは「誰につくか」という選択だったが、藤孝がやっていたのは「まだ選ばない」という、まったく別のゲームだった。ポジショニングそのものが違っていたのである。

これは非情さでも、先見の明でもない。ただ頭を丸めて立ち尽くすことしかできなかった。

生き残るのは重要だろうが、酷い。戦国随一のダサさの帝王……それが、本能寺の変における藤孝の実像である。

■縮こまっていたから、天下の混乱は最小で済んだ

それでも、藤孝は細川一族ではマトモなほうである。応仁の乱で東軍総大将を務めた細川勝元を筆頭に、その後も細川政元の後継者争いに端を発した永正の錯乱、細川高国と細川晴元による両細川の乱と、細川一族が権力の主役として能動的に動くたび、畿内は延々と泥沼の抗争に巻き込まれてきた。細川家が本気を出すと、世の中が混乱する。

逆に言えば、藤孝が虎の威を借りて縮こまっていたからこそ、光秀は早々に見限られ、天下の混乱は最低限で済んだ。

動く細川は国を乱し、動かない細川は家を残す。藤孝の最大の武功は、いつだって「何もしなかったこと」だったのかもしれない。

----------
昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
----------

(ルポライター 昼間 たかし)