建設中の国会議事堂に入る二・二六事件の反乱部隊=1936年2月27日、東京・永田町(写真:共同通信社)


1936(昭和11)年2月26日、大日本帝国陸軍「皇道派」の青年将校らが起こした二・二六事件。疲弊した農村救済など国家改造を掲げて蜂起し、天皇の重臣や陸軍首脳を殺害した。反乱罪の判決を受けた15名は同年7月12日、銃殺刑に処された。その遺族らは命日に都内の寺に集い、ひっそりと慰霊法要を続けてきた。事件から90年となった今年、遺族会の人々に取材を重ねてきたジャーナリストが事件を再考する。 

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都心でひっそり行われた九十一回忌法要

 東京・元麻布の高層マンションに囲まれた曹洞宗賢崇寺。佐賀鍋島氏の歴代藩主が眠る墓地の裏手に、大きな自然石の「二十二士之墓」がある。二・二六事件に参加、また連座して処刑された青年将校や民間人の分骨が合祀された場所だ。本堂の須弥壇に「二・二六事件関係物故者諸精霊位」の大きな位牌と、成仏を意味する「空」の字と「二十二士」の戒名が並んで刻まれた位牌が並ぶ。

 旧陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所に処刑の銃声が響いてから、まる90年となった7月12日の午後、九十一回忌慰霊法要があり、約50人が参列した。青年将校らの遺族会である「仏心会」が毎年、事件勃発の2月26日と命日の7月12日に催してきた。

 三代目世話人代表を15年前まで務めた安田善三郎さんは満百歳。神奈川県内から家族に付き添われ、車いすで上京した。兄は安田優(ゆたか)砲兵少尉(享年24、熊本県天草出身)。昭和天皇の重臣だった斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監の邸宅を仲間の将校、歩兵三連隊の兵と共に襲撃し殺害した。

 安田さんは焼香後の挨拶でこう語った。

「私の兄は二・二六事件で死刑になった男です。この寺は共に死刑になった男たちの供養を引き受けて、遺族みながお世話になりました。感謝の恵みを差し上げたい思いです」

事件で一変した家族の運命と差別

 この日に先立つ4月半ば、筆者が安田さんを訪ねると、「どうして兄たちがああいうことになったのか」と長年の疑問を口にした。

「敵対した陸軍統制派の謀略で決起に追い込まれたのか。ああ生きるほかない時代の環境だったか。それとも『何という馬鹿なことをした』だけだったのか。そのどれも正しかったのか」

 渦巻く思いの90年だったという。

 熊本の天草諸島で暮らしていた安田さん一家が兄の事件への関与を知ったのは、発生3日後の夕方。船便で半日遅れの朝刊に陸軍発表の「事件鎮圧」と参加将校「免官」の記事があり、安田少尉の名も並んでいた。「孝行息子が何ということを……」と、父母は悲嘆の底に落ちた。

九十一回忌慰霊法要で挨拶する遺族の安田さん=2026年7月12日、東京・元麻布の賢崇寺(筆者撮影)


「貧しい村で、次男の優は初めて陸軍士官学校に入り、長男も旧制高校、京都帝大に。村一番の教育一家と羨まれたのに、翌日から『人殺しとアカを育てた家』と人々から陰口をきかれ、差別された」(注・長男の薫は左翼学生として特高=特別高等警察から検挙されていた)。

 逆境にめげず安田さんは45年2月に陸士に入り、本土決戦に備えた自爆攻撃訓練に明け暮れるも、ほどなく終戦。帰郷して百姓仕事を手伝ったが、父から「お前は何をやっている」と諭され、慶応大学に入学。再起を模索した東京で仏心会に出会った。               

昭和29年2月26日、「二十二士之墓」に詣でた仏心会の人々。墓の左が初代代表の栗原勇さん(仏心会提供)


遺族の暮らし支援から生まれた「仏心会」

 仏心会の誕生は、青年将校らの処刑から間もない1936年秋。遺族は銃殺された遺体引き取りの場で初めて、当事者同士の挨拶を交わした。陸軍から「国賊」と指弾され、遺族の家々は憲兵や特高から監視され、父や息子を失った生活は厳しかった。

 首謀者の一人とされた栗原安秀中尉の父、勇さん(佐賀出身)が故郷ゆかりの賢崇寺の藤田俊訓住職に願って「二十二士」の供養を託し、各地で孤立した遺族の世話役を買って出た。

〈今後は心から睦まじい親類のような懇親を結びませう。而して誠心誠意を以って慰め合ひ、且つは失礼かもしれませんが、若しも生活苦のお方がありましたら、互に一飯を分かつことに致しませう〉(遺族らに送られたガリ版刷りの手紙の原文)

 戦後の仏心会は未亡人や遺児の暮らしを支える互助活動を行った。年若かった安田さんが会に拠り所を見出したのは、 現在のNHK放送センター前に残る処刑場(陸軍衛戍刑務所)跡に立つ二・二六事件殉難者慰霊碑(観音像)の清掃活動だった。

 二代目代表の河野司さん(事件で自決した河野寿航空兵大尉の兄)が先頭になって1965年に建立した慰霊碑を、会員の今泉義道さん(元少尉、事件で禁固4年)が「二」と「六」の付く日に人知れず清掃していると知り、「偉い人だ」と感銘を受けて通うようになった。

「殺された側」との出会いから生まれた苦悩     

 安田さんの人生を変えた二度目の出来事は86年7月12日、事件から50年を迎えた命日の慰霊法要の場だった。カトリックのシスター姿の女性が焼香に訪れ、渡辺和子と名乗った。安田優少尉らが殺害した渡辺陸軍教育総監の娘で、当時はノートルダム清心女子大学(岡山市)の学長だった。

 仏心会代表として二十二士之墓に案内したが、「私は安田の弟です」と告げる以外に何も話せなかったという。目の前で父親が兵隊たちに機関銃で撃たれ、銃剣で切られ絶命した流血の惨事を、当時9歳の渡辺さんは目撃していた。

「事件を起こした者は国賊にされ、家族は苦しんだが、殺された側の遺族はもっと深い傷を負った。父を殺した人間の冥福を祈るなど、普通できるものではない。渡辺さんと出会って、犯罪だと考えていた兄の行為は、より重い『人道の罪』だと思い知った。それを許すとは?」

 安田さんは苦悩し、教会で聖書に答えを求めて自らも入信。渡辺総監の墓に詣で、渡辺さんを岡山に訪ね、自宅にも招き、10年前に彼女が亡くなるまで贖罪と和解の交流を続けた。「兄は私をかわいがってくれた優しい人だった。殺人は悪だが、親しみは消えず、憎むことはできない」。事件から90年の間、わが子にも語れなかったという心中は今も揺れ続けている。

九十一回忌慰霊法要には、青年将校らの遺墨や処刑前の遺書などが持ち寄られた(筆者撮影)


「真相を世に伝え給え」と遺言を託され

 仏心会の活動は、初代代表の栗原さんが事件後の困窮した遺族たちの支援を、2代目の河野さんが青年将校の遺文・手記などの収集や編纂、慰霊碑建立を通して世の関心を高め、3代目の安田さんは仏心会を一般社団法人にして「事件を永劫に忘れさせない」努力を尽くした。

 特に、二・二六事件の特設軍法会議で主席検察官だった匂坂春平氏が自宅に保管し戦火を免れた事件の捜査・聴取資料を国立国会図書館に保管、一般公開するよう運動して実現させた(後に『検察秘録 二・二六事件(匂坂資料)』として刊行)。

 安田さんの次の4代目代表、香田忠維さん(81)は、判決で首魁とされた香田清貞歩兵大尉(佐賀出身)の甥にあたる。通産省大臣官房審議官、カタール大使を務め、退官した1998年から仏心会を手伝うようになった。

「二・二六事件はかつて、陸軍幼年学校出身の狂信的な者たちの凶行という見方をされがちだった。しかし、清貞はフランス語を勉強し、フランス的教養があった人。仲間の丹生誠忠中尉は麻布中学卒業生で、処刑前の遺書に『公判の真相を世に伝え給え』『それを叶えよう』と書き残した。狂信であるはずがなく、教養と見識を持った人々だった」

 香田さんの代の仏心会は、「2.26事件 一般社団法人仏心会」というウェブサイトを設けた。青年将校ら「二十二士」のプロフィール、活動の近況、新たな発掘資料などを紹介している。それをきっかけに、いろんな人がネットを経由してつながってきているという。

「二十二士之墓」に詣でる仏心会の(左から)栗原代表、今泉さん、香田さん(筆者撮影)


「仏心会は高齢化して会員が減り、遺族の支え合いだけで続けるのは難しい。二・二六事件を勉強したい、研究したいという新世代の人たちが私たちにつながり、新たな事実や資料を掘り起こし、丹生中尉の遺言のように青年将校たちの真意を伝えてくれたらいい」

 新代表を栗原中尉の甥に当たる栗原重夫さん(76)に託した今、香田さんはそう語る。

銃殺刑となった兄の「真実の姿」を生涯語り続けた妹

 筆者は2021年に『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて 青年将校対馬勝雄と妹たま』(ヘウレーカ)を刊行した。

 青森の小作農出の貧しい夫婦の優秀な長男が、陸軍幼年学校を出て中尉となる。昭和の大飢饉にあえぐ東北の若い農民兵が満州事変で死んでゆき、資産家や政治家は私利私欲をむさぼる現実に怒りを募らせ、「昭和維新」の国家改造運動に身を投じる──。

 河北新報記者だった頃、「兄の真実を伝えたい」と願う高齢の妹、波多江たまさんに出会い、20年の交流を経て書いた本だ。2014年の終戦記念日には『聞き書き 戦争の時代』という同紙連載でも取材し、こんな言葉を記した。

〈兄は仙台陸軍幼年学校にいた少年時代に『軍人とは死ぬことなり』とメモを綴り、『どのような死に方をしたらいいか』と悩みました。(中略)教育勅語の通りに生きようと願い、『国のために軍人になる』と一人で決めました〉

〈純粋だった兄は、その生き方しか選べなかった。だから教育は恐ろしいのです〉

 この年、自民党安倍政権は集団的自衛権の行使容認を閣議決定。たまさんは戦前の足音を聞き、「次は教育が危うい」と警句を発したのだった。

104歳で亡くなる4カ月前の波多江たまさん。兄・対馬勝雄中尉の「真実を伝えたい」と生涯語り続けた。手にした本は勝雄の記録を遺族で編んだ『邦刀遺文』=2019年2月18日、弘前市の自宅(筆者撮影)


 たまさんは2019年に104歳で他界したが、二・二六事件をめぐる差別や戦後の「ファシズムの先兵」扱い、内幕本の陰謀論や憶測に傷つき、「『私』なく貧しい人々を思う優しい兄」の素顔との間で心を引き裂かれ続けた。それゆえ自由を選べる新しい世代への苦言も語った。

〈わたしは新聞を読み、ニュースを見るのをやめられません。知ることこそ、自分たちを守る武器だからです。今の若者たちは新聞を読まない、と聞きます。どうやって、政治を知るのですか? あなた方が次の時代の当事者なのに、人任せでいいのでしょうか。わたしは、純粋さゆえに死んだ兄のような若者を、二度と出したくないのです〉(同連載より)

 他に行動を知らなかった青年将校らの叫びを封殺し、帝国陸軍は翼賛体制、戦争へと突き進んだ。残酷な歴史の体験を背負い続けた遺族たちの「遺言」ともいえる言葉を、事件から90年後を生きる人々へ伝えたい。

【訂正とお詫び】
記事掲載当初、賢崇寺の表記に誤りがありました。関係者、読者の皆様にお詫びして訂正いたします。本文は修正済みです。

筆者:寺島 英弥