脳科学者・中野信子が検証。日本人の脳内物質から、生存に有利な性格や個性がわかってきた!
中野信子さんが日本人の心性と強みを、脳科学・遺伝学・行動科学をとおして初めてひもとき、多くの共感を呼んだ大ベストセラーに、対処法を加筆したのが『新版 空気を読む脳』です。
職場で、学校で「空気」という暗黙のルールの中で生きる私たち――。社会が不安定化するほどその圧力は強まります。だからこそいま日本人の脳の特性を知ることが、よりよく生きる武器となります。
日本人が世界的に見ても、不安感が強く、真面目で自己犠牲をいとわないという特質を持つのは、脳内の化学物質セロトニンの影響と言われます。それが日本人の脳の生存戦略です。今回は生物の生存にセロトニンがどれほど重要かをお話しします。
生存に有利な性格や個性とは?
セロトニンは集団形成に大きく関係する物質です。生命体は、その基本的な性格から、集団を形成したほうが個体として生き延びるにも、種としての存続を目指すうえでも有利です。集団をつくろうとする本能に関係する神経伝達物質はほかにもいくつか種類があるのですが、ここではセロトニンに着目して説明していきます。
セロトニンは、生物に利用されてきた歴史が長く、真核細胞の時代からすでに重要な機能を担っていることがわかっています。真核細胞である酵母やカビにも、セロトニン受容体が見つかるのです。これらは8億年以上も前から存在していることから、セロトニンが非常に長いあいだ、細胞内/生物の体内で重要な機能を担ってきた物質であるということがわかります。
セロトニンは、人体ではあらゆる脳神経に影響する物質です。さらに、セロトニン神経は脳全体を調整する役割を持つことから、オーケストラにおける指揮者のような役割にたとえられることもあります。
このセロトニン神経は、脳の中心部にある脳幹のさらに奥の縫線核(ほうせんかく)という場所にあります。縫線核は、「左右の脳が正中で縫い合わされたところにある神経核」ということでこのような名で呼ばれています。これが大脳新皮質をはじめ、情動の座である大脳辺縁系、生命維持のための脳領域である視床下部、脳幹、小脳、脊髄など、ほとんどすべての脳神経系に影響を及ぼし、意識レベルや、やる気の状態などをコントロールしているのです。
それでは、セロトニンが出ていれば出ているほど良いのか、というと、そうとも限りません。セロトニンをはじめとした、モノアミン類と総称される神経伝達物質の脳内での動態にかかわる遺伝子についての研究で、私たちの性格はより不安が強くなる方向に進化してきたことが示唆されたのです。
私たちの性格や個性は、神経伝達物質の動態によってかなりの部分が影響を受けています。東北大学のグループによる研究結果は、人類の進化過程で、遺伝的な変化をともなったセロトニンの動態の抑制が起こっている可能性を示すものでした。
この研究報告は、それまでの研究と考え合わせると、人類は進化の初期過程において、不安やうつ傾向が高まる方向に環境圧力を受けながら進化してきたのではないかという考え方を支持するものです。つまり、セロトニン濃度が高いより低めで不安の度合いがある程度強いほうが、少なくとも人類進化の初期には、生存に有利であったということを意味していると考えられるのです。
バッタによる大被害はセロトニンが原因
セロトニンが生物に与える影響をもう少し解説しましょう。自閉症ヒト型モデルマウスで脳内の異常を詳しく調べると、発達期において脳内のセロトニン濃度が減少していることがわかりました。
また、飼い鳥では社会的・感覚的な行動の自由が奪われる――つまり群れ構造が損なわれたり、飛行させてもらえない、食物探しの時間が与えられないなどの制限があると――毛引き症になる恐れが生じます。これは、脳内の重大な部位でセロトニンの濃度が最適でないことによって起こる可能性が示唆されています。集団行動や感覚的な行動を阻害されると、セロトニン異常が起こる、ということではないかと考えられています。
ヒトでは、やはりセロトニン(とドーパミン)の代謝障害が、チック症状・自傷症と関連の深いトゥレット症候群にかかわっていることが知られています。
興味深いことにセロトニンは、生物の個体としての行動ばかりでなく、個体同士のかかわり、つまり集団としての振る舞いに大きく影響を及ぼすということもわかってきました。
2009年、オックスフォード大とケンブリッジ大の研究チームが、サバクトビバッタが、一個体でいることを好む「孤独相」から、仲間でいることを好む「群生相」に相転換するのは、脳内の神経伝達物質セロトニンが原因であることを突き止めました。
サバクトビバッタは数十年に一度大量発生し、西アフリカからインドにわたる乾燥地帯の作物を食べ尽くしてしまいます。いわゆる蝗害(こうがい)です。
このサバクトビバッタは、一生のうちおよそ90%の時間を砂漠の中で孤独に散在してすごしますが、そのとき、彼らはほかの仲間を避け、たがいにできるだけ接触しないようにしています。ただし、特定の刺激があるとそれがきっかけとなって群生行動のスイッチが入るのです。そのうちのひとつは、長期間ほかの仲間の姿を見て、そのにおいをかいだとき。そしてもうひとつは、後脚を継続的に刺激されたときです。
このバッタの後脚を絵筆で根気よくくすぐると、2時間後その個体は作物を食い尽くす巨大な群れを構成する一員となる準備が整ったと勘違いして、自分の体を変え始めます。後脚をくすぐって刺激するのは、通常は一匹で行動するバッタが、食糧不足のために集団にならざるを得ない過密な状態で体がぶつかり合うのと同じ状況をつくり出すためです。
相転換が起きると、体色や体の様子まで変わります。孤独相ではきれいな緑色であったのが、群生相では翅が発達し、黄色と黒の強そうな姿になって、筋肉も増強し、長時間の飛行や仲間の活動的な捜索が可能となります。そして、数十億匹規模の大集団をつくって、餌を求めて約100キロメートルの距離を何時間も飛ぶことができる体になるのです。
研究チームによると、環境の変化に応じて個体を冷ややかな敵対関係にある孤独相からたがいに引きつけ合う群生相に変えるのは、セロトニンが原因だということがわかりました。
集団志向の群生相状態に移行したとき、バッタの体内のセロトニンの量は、急激に増加していました。群生相のバッタのセロトニン水準は孤独相のバッタより3倍も高かったのです。
また、孤独相のバッタにセロトニンの生成を抑制する物質を注入しておくと、後脚を刺激したり、仲間と長時間一緒にいたりしても、その個体は落ち着いたままで、群生相には転換しませんでした。一方、セロトニンの分泌を刺激する物質を注入されたバッタは、きっかけとなる刺激がなくても群生相へと変化を遂げたというのです。
セロトニンは人間の行動や他者とのかかわりに大きく影響を及ぼすということがよく知られている物質ですけれども、同じ物質が、内気で孤独を好む昆虫を大集団に団結させ、その振る舞いばかりか体にまで変化を及ぼしてしまうということを、研究チームは驚きのまなざしとともに報告しています。
人間にも、環境における個体群密度センサーがどこかに備わっていて、その機構がセロトニン濃度の調節を行い、私たちの行動を変えてしまう可能性が、もしかしたらあり得るのかもしれません。
