「スカウト0人でしたから」超無名の国立大生がどうやってプロ野球へ? 道を開いた他種目経験と“テスト対策”
滋賀大学から横浜、日本ハムでプレーした関口雄大さんの「道」
国立大学の野球部からプロ野球へ――。「スカウトは0人でした」というところから自身の行動で道を切り開き、40歳になった今も野球に関わり続けているのが横浜(現DeNA)と日本ハムでプレーした関口雄大さんだ。どうやってそんな“奇跡”を可能にしたのか。昨季限りでプロの世界を離れ、現在は栃木県の「エイジェックスポーツ科学総合センター」でデータアナリスト、スキルコーチとして働いている関口さんを訪ね、貴重な経験を聞いた。
「そもそも、大学で野球をやるつもりもなかったんですよ」
関口さんはこう言って笑う。小学校3年の時、地元の栃木県宇都宮市で学校の野球部に入った。父が軟式でプレーしていたこともあり、漠然と野球への親しみはあった。「もう、週7日練習みたいな感じでしたよ」。打っても投げてもチームを引っ張る存在だった。
中学からは硬式でプレーし、リトルシニアの全国大会に出場。関東地区の最優秀投手として表彰されたこともある。強豪の作新学院からも誘いがあったが、高校は公立の宇都宮北へ進んだ。ここで最初の挫折に遭遇する。「練習がしんどすぎました。シンプルに……」。時は2001年。すでに21世紀だったとはいえ、昭和の指導はあちこちに残っていた。「走っとけって4時間放置されたりとか……」。長時間の厳しい練習がまだまだ正義だった。
「夜11時くらいに家に帰って、翌日4時半に出てみたいな暮らしです。5時間寝られるかどうかという暮らしをしていたら、そりゃ体も大きくなりませんよ」。さらに高校1年から、慢性的な肘の痛みを抱えていた。
様々な治療を試みた。「ハリとか、カイロプラクティックとか整体とか、ありとあらゆるものをやったんですけど、これ治らないなって」。満足に投げられないのならしかたがない。進路選択の時期になると、すっかり頭から野球は消えていた。進んだのは国立滋賀大学の経済学部、ファイナンス学科。「当時は金融工学の人たちの給料が高くて……。どんなものなのか、かじっておこうと思ったんです」。
ただ、運動神経抜群の18歳を周囲は放っておかない。通りがかりに野球部の練習を覗き、衝撃を受けた。専任の指導者がいるわけでもなく、選手たちが楽しそうにプレーしている姿を見て、「これだ! 俺がやりたかった野球は」と思い直した。秋のシーズン直前に野球部の門を叩くと、すぐに外野のレギュラーに定着。肘の痛みもマシになっていた。
なぜ、肘は回復したのか。時間を空けたことのほかに、もう一つ理由がある。関口さんの野球観を根底から変える出来事だった。「実は8月に野球部に入るまで、バドミントン部とラグビー部にいたんです」。何が起きたのか。
バドミントン部とラグビー部…他種目経験はどう生きた?
バドミントンのシャトル打ちは、野球の練習に取り入れられることもある動作だ。「肘の抜き方とか手の走らせ方みたいなのが、なんだかピンと来た感じで」。さらにラグビー部では、体重67キロしかなかった体を大きくすべく、筋トレに励んだ。気が付くと「あれ、肘痛くないぞ」と感じるようになった。さらにウェートリフティングの講師と知り合い「もう、爆発的に伸びていきました」。当時の関口さんの悩みを解決する方法はただ1点。高校時代に全く縁のなかったフィジカルの強化だった。
「すべてを解決してくれましたね。最終的に体重は90キロくらいまで増えたんです、そうしたら信じられないくらい打球は飛ぶし、だからと言ってスピードも落ちない」。約20年前、野球におけるフィジカルトレーニングの重要性は今ほど認められていなかったが、その効果を目の当たりにしたことで関口さんの野球人生は変わった。「すべての野球観のベースになりました。痛みも消え、パフォーマンスも上がり、これならやれると」。
ただ、滋賀大学の野球部は京滋大学リーグの1部と2部を行ったり来たり。注目される環境にない中で、プロに行けると思ったのは3年の夏だ。関西の大学5リーグの対抗戦が行われ、関口さんもリーグ選抜に選ばれた。ドラフト候補と言われる投手と対戦し、長打も放った。当時、希望枠で争奪戦が繰り広げられていた大隣憲司(近大―ソフトバンク)と同じ舞台に立ち「プロも、頑張れば手が届くのではないか」と思い始めた。
ここからは生活のすべてを野球に向けた。それまでのアルバイトは、パチンコ店で不正に球を出そうとする「ゴト師」を摘発する警備職だったのを、スポーツジムのインストラクターに変えた。仕事の合間に器具を使えたからだ。様々な人の動きを見ながら試行錯誤した。さらに3年までに卒業に必要な単位を取り終え、4年の春シーズンを終えたところで野球部を退部した。アメリカの大学生が夏休みの間参加する「サマーリーグ」に参加するためだ。近年でこそ佐々木麟太郎内野手(花巻東高―米スタンフォード大)の参加などで日本でも知られ始めたが、当時は全く情報がなかった。
「アメリカに遠征の経験を積みに行きたかったんです。日本の大学では週2、3試合しかない。もし30日間連続で戦ったら体はどうなるのかと」。インターネットを検索しまくり、日本で参加をあっせんしている人物を見つけた。さらに費用として、100万円の前借りを親に申し出ると、学費の比較的安い国立大学で学んでいたこともありOKが出た。
カリフォルニア州にあったモントレー・ベイソックスに加わり2か月。60日間で56試合を戦った。「めちゃくちゃしんどかったですね。向こうの土はとにかく硬くて……。やっぱり、いろいろスパイクを変えたりもしないとダメだ、みたいな学びにはなりました」。さらに日本で鍛え上げたはずのフィジカルも、まだまだ足りなかった。
計測機器のない時代…入団テスト対策で極めた“本塁打の打ち方”
「フィットネスの概念が向こうは違って、やるのが当たり前なんですよね。母数が全く違うので、確率的にもトップにはとんでもない選手が生まれるんです」。ただ、6月の大リーグドラフトで指名されたばかりの選手もいる中で残した打率3割は大きな自信となった。技術も肉体も、日本のプロで通用するかもしれない。そんな期待と裏腹の現実もあった。
「スカウトはもう、0人でしたからね」
どれだけ頭抜けた実力があっても、NPBの球団に知られなければ道は開けない。当時は数球団が、公募での入団テストを行っていた。関口さんは広島、横浜、日本ハムに書類を提出。ここで入念に“準備”を行った。「身体能力に振り切って、テスト対策しましたからね……」。50メートルの走り方、遠投で距離を伸ばす投げ方、そしてバッティングもホームランでどう目立つかだけを考えていたという。そんなことが可能なのか。
「ロングティーでひたすら研究してた感じですね。どういうバットの入れ方をしたら一番飛ぶのか。打球にバックスピンがつきすぎても飛ばないとか、感覚でわかってきた感じでした」。現在のように、全てを数値で把握できる計測機器もない時代。経験則を重ねてボールの飛ばし方を会得すると、神奈川県横須賀市の練習場で行われたテストで爆発する。
「周りがもう、何だあいつは!ってびっくりするくらいやれました」
テストの場で合格を告げられた。「他球団のテストは受けるなよ」という条件付きだった。残っていた日本ハムのテストは辞退。2007年の育成ドラフト1位で指名されると、1年目から2軍イースタン・リーグで打率.356、わずか50打席で4本塁打という好成績。2009年オフには日本ハムにトレードされ、2012年限りで引退後はサブマネジャーからアナリストに。ここで学生時代に突き詰めた野球を突き詰める目を、再び生かしている。
(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)
