大和郡山城

写真拡大

秀長時代に運ばれてきた「とんでもない石」

 猛暑日どころか酷暑日も増えそうなこの夏。だからといって、せっかくの夏に家にこもってばかりいるのはもったいない。タイムリーで、楽しめて、勉強になって、体への負担が小さい場所はどこだろうか。例年、NHK大河ドラマゆかりの地を訪問するのは、夏の定番のひとつ。今年は『豊臣兄弟!』だから、主人公の羽柴秀長や秀吉、織田信長や明智光秀に関連する史跡の訪問は候補になるだろう。

【写真】「豊臣兄弟!」をめぐる夏に行きたい城5選…大和郡山城の「さかさ地蔵」はじめ意外な見どころを写真で!

 彼らにまつわる史跡といえば、なにをおいても城だと思う。羽柴(豊臣)兄弟の城に共通点があるのは、当然かもしれないが、じつは宿敵となった光秀の城にも、兄弟の城との共通点があって、それを見つけるのがとてもおもしろいのだ。しかも山城に登る必要はなく、夏でも訪れやすい街中の城に、彼らが城を築くにあたって大いに苦労した痕跡としての、ユニークな「共通点」を探すことができる。

大和郡山城

 最初に秀長の居城だった大和郡山城(奈良県大和郡山市)を訪ねてみよう。天正13年(1585)閏8月、秀長は総大将を務めた四国征伐の功として、すでに統治していた紀伊(和歌山県)、和泉(大阪府南西部)に加えて大和(奈良県)をあたえられた。以後、大和郡山城を本拠とし、9月3日に入城して以降、大改修した。

 その工事に際して、秀長がもっとも苦労したのが石垣の石材集めだった。当時は城に石垣が本格的に築かれるようになってまだ間もなく、石材を切り出すシステムが整っていなかった。このため、岩山に築かれた山城でないかぎり、石を集めるのが大変だった。結果として、あらゆる場所から石という石を運んでくることになった。

 大和郡山城は幕末まで300年近くかけて整備や補修が重ねられ、石垣もいろいろな時代に積まれている。だが本丸を中心に、とくに石垣の下部には、秀長時代に積まれたものをいまも見ることができる。そこにはとんでもない石が、たくさん積まれているのである。

地蔵から墓石、石臼まで

 奈良の興福寺の塔頭、多聞院の僧の英俊による『多聞院日記』には、興福寺から墓石や地蔵、それに庭石から礎石までが持ち去られたと書かれている。薬師寺では採石が禁じられたと記録されているが、それだけたくさんの石が持ち去られたということだろう。一般の家々からも石臼などの生活用具が集められた。

 本丸北東の石垣の基底部は、城内で最初期に積まれたと考えられ、五輪塔の下部や宝篋印塔の基礎など、いわゆる「転用石」が大量に積まれている。令和3年(2021)に木造で復元された極楽橋を渡ったところの白沢門周辺の石垣も古く、とくに下部は隅角部を中心に、石塔の部材が積み上げられている。

 ところが、大和郡山城を訪れる人の多くが、これほど「転用石」が見つかることを知らないらしく、石垣に目もくれない。しかし、とんでもないものがこんなに多く積まれていると知ったら、それを探すのに病みつきになるだろうに、もったいないと思う。

 天守台もおもしろい。北面や東面の下部は秀長時代のままだといわれ、隅角部には、なんと平城京の羅城門の礎石が積まれている。北面の下部に積まれた「逆さ地蔵」も有名だ。地蔵が浮き彫りにされた面を下に向け、頭が斜め奥に沈むように積まれていて、築石のすき間からその地蔵を拝める。大永3年(1523)の銘があり、彫られてから60年余りでここに埋め込まれてしまったらしい。

秀吉の大坂城は転用石の山だった?

 兄の秀吉が大坂城(大阪市中央区)を築きはじめたのは、秀長が大和郡山城に入る2年余り前からで、時代はほぼ共通する。実際、秀吉も「転用石」を大量にもちいたようだ。

 もっとも、秀吉の大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で灰燼と帰して以後、徳川の手で地中に埋め尽くされてしまった。本丸を中心に場所によっては10メートル以上も盛り土され、徳川将軍家の力を示すために、豊臣時代をはるかに凌駕するスケールで築かれたのが、いま見ることができる大坂城である。

 一方、秀吉の大坂城はいまも地下に眠っている。そして令和7年(2025)4月、いまの大坂城本丸の「大阪城天守閣」の南東に、「大坂城豊臣石垣館」がオープンした。ここでは秀吉の大坂城本丸内の、詰の丸南東隅の石垣を一部だが鑑賞できる。しかも、ひんやり涼しい地下で冷房も完備されているから、夏場に訪れるのにうってつけだ。

 徳川時代の石垣は規格化された築石が積まれ、隅角部を強固にするために、直方体の石の長辺と短辺を交互に積み上げる「算木積」が採用されている。それとくらべると、「豊臣石垣館」で見ることができるのは、自然石を積んだ素朴な石垣だ。そして、隅角部は算木積が完成しておらず、代わりにさまざまな転用石が積まれている。

 隅角部の大きな石材は、一番上のものが古墳時代の石棺の未完成品といわれる。そこから下の3つの石は円形の柱座が掘り出され、古代寺院の礎石だとされる。間詰石にも石臼や石塔などの一部が使われている。ここに展示されている石垣はごく一部なのに、これほど転用石が多いのだから、秀吉の大坂城はまさに転用石の山だったのだろう。

ほぼ同時期に整備された秀吉と光秀の城

 転用石は世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)でも見つけられる。この城は関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)から池田輝政が築いたことで知られるが、それ以前にも中枢部の姫山には、天正8年(1580)から秀吉が築いた城があった。しかも、秀吉が大坂城に移って以降は、秀長が入城している。

 じつは池田輝政は、姫路城の中枢部においては、秀吉が自然地形に逆らわずに築いた城を踏襲している。だから曲輪(城内の整地された区画)が複雑に連なり、通路は迷路のように折れ曲がっており、秀吉時代の石垣も良好に残っている。だから転用石も見つかる。

 入城料を支払って最初に通るのが菱の門で、「いの門」、「ろの門」と続いた先にある「はの門」は、柱の礎石に石燈籠や五輪塔の下部が転用されている。また、天守に登ったのちに通る備前門の石垣には、横穴式古墳の石棺が積まれている。

 秀吉の姫路城と同じ織田政権下で整備されたのが福知山城(京都府福知山市)である。この城は天正7年(1579)に丹波(京都市中部、兵庫県北東部)を平定後、明智光秀が大きく手を加えた。そして本丸には、光秀時代の石垣が残り、とくに天守台には、五輪塔や宝篋印塔などからの転用石が大量に積まれている。大和郡山城の転用石が、堀の対岸に積まれ、間近には見られないのに対し、福知山城では目の前まで近づける場所に積まれている。観察するのはもってこいだ。

 すでに述べたように、この時代は石材を産地から切り出すシステムが未整備で、しかし、短期間に築城する必要があったので、近隣の石材が片っ端から集められたと考えられる。築城時に光秀が近隣から石塔を集めた、という伝承も残っている。

 昭和61年(1986)の天守再建時、天守台の石垣に181個、天守台内部から出土したものが321個、計502個もの転用石が確認されたという。本丸の片隅に建つ二の丸から移築された銅門番所(現存)の南側には、石垣内部から見つかった転用石が集められている。

太平洋戦争時の金属供出のよう

 福知山城の転用石は五輪塔の下部の地輪が65%を占め、宝篋印塔の基礎が11%で続く。ほかに石仏、笠塔婆、石臼、燈籠などがあり、年号が刻まれているものは、古いのが延文4年(1359)、あたらしいのは光秀が丹波攻めに乗り出した天正3年(1575)。光秀が福知山に入って以降のものはない。

 とくに天守台の付櫓周辺では、夥しい数の転用石を見ることができる。付櫓の石垣南面や天守台の南東角の付近は、五輪塔の地輪や宝篋印塔の基礎がくどいほど積まれている。東面もすごい。とくに隅角部は塔の地輪や基礎など、四角く加工された転用石が選んで使われている。それらの石は天守内部からも、窓を通して覗き見ることができる。

 むろん、彼らの主君だった織田信長も、転用石を数多く使った。安土城(滋賀県近江八幡市)は、城が築かれた安土山や、すぐ近くの繖山から、湖東流紋岩が多く産出したため、それらを中心に積まれているが、それでも大手道の階段などに、近隣の寺から集められたと思われる石仏や五輪塔、墓石などが、数多く使われている。

 宗教的な権威を否定する目的があった、という主張もあるが、いかがなものか。信長は政治的および軍事的に対立する仏教勢力は容赦しなかったが、自身は仏教に帰依し、ことさらに宗教的権威を敵に回したわけではない。それより、とにかく大量の石材が必要だったので、当時の人々はすべて差し出すしかなかった。先の大戦時の金属類回収に匹敵するようなかたちで、石材がかき集められたのだろう。

 城がいかに周囲の犠牲のうえに築かれたか。転用石はそんなことに思いを馳せる材料にもなる。この夏、まずはゲーム感覚で楽しんでみてはいかがだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部