【もへじ】「この先危険につき、関係者以外立入禁止!」50年間も封鎖され続ける群馬県「毛無峠」に潜む真実とは
インターネット上で「未開の地、立入禁止の危険地帯」と一種のネタ交じりに語られる群馬県。だが、県境の毛無峠に立つ「関係者以外立入禁止」の看板だけは、50年を経てなお行政が封鎖を解かない本物の警告である。
なぜこの地は社会から徹底的に隔離されなければならなかったのか。
かつてこの地には硫黄鉱山として日本第2位の規模を誇り、世界へ資源を輸出した巨大な「小串鉱山」が存在していた。
ここの住人たちは「戸籍は群馬だが、住民票は長野」にあるという、あまりにも奇妙な空中鉱山都市に暮らしていた。村の役場へ行くために50kmもの山道を迂回しなければならなかったという一般社会とは隔絶された世界と、歴史の闇に消えた巨大鉱山の正体に迫る。(第1回/全3回)
(本記事は、YouTubeチャンネル もへじ【交通・土木・廃墟解説】の『【50年間 立入禁止の場所】毛無峠 小串鉱山』から、一部を抜粋・編集したダイジェスト版です)
ネットで弄ばれる「群馬県=危険地帯」の看板…その奥に眠る真実とは
日本のインターネット空間、特に電子掲示板「2ちゃんねる」を発祥とするネットスラングにおいて、群馬県は長年「未開の地」や「秘境」などと誇張され、格好のパロディの対象となってきた。
「平均気温が56度」「県庁はサハラ砂漠の遊牧民と似た家屋」「住民は木の上にある住宅街に住む」など、どれももちろん真実ではない……。
しかし、これら無数のネットミームにたった1つだけ、真実が混ざっているのをご存じだろうか。それが長野県と群馬県の県境にある、関係者以外立入禁止で有名な「毛無峠(けなしとうげ)」の看板である。
火山も多い危険な山岳地帯を貫く、長野県と群馬県を結ぶ貴重な県道。ここを長野県から登っていって群馬県側へ入ろうとすると、それまで深い森に覆われていた視界が一気に開け、一面のハゲ山が目の前に躍り出る。
そこに、「危険地帯、関係者以外立入禁止」という、県が設置した警告の看板が目に飛び込んでくるのだ。
看板の先を見れば、本来は関東と長野を結ぶはずの幹線道路が数十年にわたって厳重に通行止めとされ、荒涼とした山の上には錆びついた謎の鉄塔だけがぽつんと建っている。
ちなみにこの県道、実は一度も「全線開通」したことがない。
なぜこの峠が群馬県ネタの象徴にもなるほど数十年間も隔離され、県道は未来永劫の未開通が決まってしまっているのか。
その背景には、環境対策の名のもと、教科書から消された日本第2位の巨大鉱山の歴史が関係している。
室町時代から「ハゲ」ていた峠
標高1800mにある毛無峠を訪れると、誰もがその異様な光景に圧倒される。周囲には遮るものが何もなく、剥き出しの茶色い岩肌と広大な草原だけが広がっているからだ。
この場所がハゲ山になった理由とは何なのか。
ふつうに考えれば、よくある話として鉱山開発による環境破壊を思い浮かべるだろう。しかし実際は、ここはもとからハゲていたのだ。
毛無峠は山の頂上付近にあるため風が強く、冬場に降り積もった豪雪すら突風によって吹き飛ばされてしまうほどの過酷な環境だ。そのため植物はまともに根を張ることができず、古くから木が1本も生えない地帯だった。
実際、この地が「毛無峠」と呼ばれはじめたのは、今から630年以上前、同時に2人の天皇が存在していた南北朝時代(室町時代はじめ)にまで遡る。
今でこそ通行禁止となっている群馬県側の道だが、かつては関東と北陸を結ぶ重要な幹線道路だった。
もともと江戸(現在の東京)から長野・上越・北陸地方へ向かうには、現在の北陸新幹線とほぼ同じルート(いわゆる北国街道、現在の国道18号)がメインルートだった。しかし車も新幹線もなく、徒歩移動がすべてだった時代には、長野県内の街をひとつずつ経由するこのルートは遠回りで、大きな負担を強いた。
「どんなに山が険しくとも、真っ直ぐ最短距離で突き抜けたい」
そう願った民衆が、標高1800mの難所を強行突破する“ショートカット”として切り開いた道路が「毛無道(けなしみち)」である。
この過酷な峠道を命がけで行き交う歩行者たちは、あるとき峠の麓の河原に「簡単に火がつく不思議な石」が大量に転がっているのを発見する。
人々はその場所を「硫黄河原(いおうがわら)」と呼び始めた。そしてこの発見こそが、後の日本経済を支える一大産業へとつながっていくのだ。
火山地帯が生んだ、日本で最も歪な空中鉱山都市
日本は地下資源に乏しい「資源小国」だと教科書では教わる。しかしそれは、石油や天然ガス、銅、鉄鉱石といった、現代の私たちの生活に直接関わる資源に限った話だ。
実際には、石灰石やヨウ素、石炭、硫黄などは海外へ輸出するほど豊富に採れ、時代によっては世界の覇権を握ることさえあった「資源大国」でもあった。
硫黄は硫酸などに加工され、肥料、洋服、タイヤ、自動車用バッテリーといった、あらゆる製品やインフラを支える大事な資源である。
そこで、毛無峠の「硫黄河原」を大々的に開発する目的で誕生したのが、峠から見下ろす群馬県側の盆地--荒れ地が広がるこの場所にあった「小串(おぐし)鉱山」であった。
大正から昭和初期にかけて本格化した小串鉱山の開発は、長野県側から始まり、やがて群馬県側へと広がっていった。その結果、長野県と群馬県の両方にまたがる、いびつな鉱山となったのだ。
この地に住む人々にとって特に厄介だったのが、行政の管轄だ。小串鉱山の中心地は群馬県の嬬恋(つまごい)村にあり、鉱山で生まれ育った人々の戸籍や、学校の建設、行政サービスは、すべて群馬県の管轄となった。
しかし鉱山はもともと長野県側からの開発で始まっており、住民の生活物資や鉱山の資材、そして掘り出した硫黄の輸送は、すべて長野県の須坂市が担っていた。
その結果、やがて人口2000人を超える巨大な山岳都市となった小串鉱山では、奇妙な現象が起きた。住民たちは「住んでいるのも働いているのも群馬県」でありながら、住民票は長野県須坂市で登録されていたのだ。
さらにぶっ飛んでいたのが、住人たちの戸籍がある「群馬県嬬恋村役場」まで手続きに行くためのルートだ。鉱山から嬬恋村の集落へ直接つながる道はない。そのため住民はいったん長野県側へ入り、県境の山岳地帯を大きく迂回して草津温泉へ抜け、そこからさらに50km以上の険しい山道を歩かなければ、村役場にたどり着けなかった。
群馬県の予算で建てられた小中学校に通う子どもたちは、長野県側から全長数kmに及ぶロープウェイで空輸されてくる食料で生活していた。
この奇妙な「空中鉱山都市」は、戦前・戦後の日本の重要な産業基盤として、猛烈な勢いで発展していった。
▲『米子・小串 鉱山歴史シンポジウム記録集』 須坂市教育委員会生涯学習課文化財係 2006
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【つづきを読む】《245名が生き埋めに》三井財閥が手掛けた日本第2位の硫黄鉱山「小串鉱山」を襲った「山津波」の悲劇
<参考文献>
・小串鉱山史 小串鉱山閉山10周年記念誌
・『輝ける「鉱山」の物語』 八町忠著・刊2017
・『鉱山の盛衰と山師』 斎藤保人著 ほおずき書籍 2016
・『米子・小串 鉱山歴史シンポジウム記録集』 須坂市教育委員会生涯学習課文化財係 2006
・松本小市著「小串鉱山の災害」 『長野』87号(長野郷土史研究会1979)
・『歴史の道調査報告書23-29』長野県教育委員会 1990 「毛無道」がまとまっている
・災害史シリーズ(192)気象災害史(180)山津波、小串硫黄鉱山を襲う--1937(昭和12)年一一月の群馬・小串(おぐし)鉱山の惨禍掲載誌 近代消防 = The firefighter 44(12) (通号 550) 2006.12
・『嬬恋村誌 下』(嬬恋村誌編集委員会/編 嬬恋村役場 1977)・・・1772〜1774
・『上毛新聞 2004年11月8日・15日』・・・「残された風景 小串鉱山跡 嬬恋村 (上・下)」(写真あり)
・『上毛新聞 2013年10月16日・18日』・・・「北毛発 消えた集落(5)・(6)小串鉱山(嬬恋)」"
・『上毛及上毛人 248 号』(豊国義孝/編 上毛郷土史研究会)・・・60〜62ページ"
・『米子・小串鉱山歴史写真集2008』 米子・小串鉱山歴史保存活用実行委員会編 須坂市教育委員会生涯学習課 2009"
・『信州高山村誌 第2巻 歴史篇』 高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006
・『信州高山村誌 第3巻 地誌篇』 高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006
・『写真が語る高井の歴史』 高井郷土史刊行会 1994
・『嬬恋村誌 上巻』 嬬恋村誌編集委員会編 嬬恋村役場 1977
・『四十年のあゆみ』長野電鉄編・刊 1960
・『長野電鉄100年のあゆみ』 長野電鉄編・刊 2021
・『長野電鉄60年のあゆみ』 長野電鉄編・刊 1981
・『信州高山村誌 第2巻 歴史篇』高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006
・『信州高井 牧の民俗』 高山村教育委員会編・刊 1979
・『草津温泉誌 第1巻』 草津町誌編さん委員会編 草津町役場 1976
・『信州高山村誌 第2巻 歴史篇』高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006
・高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006
・田中生夫著 「小串鉱山盛衰記」『須高』 第13号(須高郷土史研究会1981)

