物心ついた時には両親はすでに離婚し、小5の時に両親は再婚した。母親と継父とその連れ子との暮らしは初めのうちは良好だったが、次第に母親から暴力を振われ、精神的に支配されるように。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが、3歳の頃にはすでに「性別違和」を感じていたという“僕”の半生を取材した――。(前編/全2回)

厚生労働省によると、2025年3月時点の生活保護の申請件数は、2万2484件(前年同月比867件増加、4.0%増)。生活保護を開始した世帯数は、2万395世帯(同1062世帯増加、5.5%増)。賃金は上がらず、物価が異常に高騰する中、さらに生活保護が必要な人々が増えるのは必至な状況だ。

介護や毒親の取材現場で筆者が以前から気になっていたのは、経済的な困窮者が生活保護を忌避するケースが多いことだった。その背景には、不正受給問題はさることながら、生活保護の仕組みの複雑さや“得体の知れなさ”が影響しているのではないか。そんな問題意識を胸に、かつての生活保護受給者の話を通じて制度の実態を明らかにし、正しく救われる人や機会を増やしていきたい。

■エイプリルフールの異変

3年前の春の週末のことだった。西日本在住の熊部悟朗さん(仮名・50代)は自宅で飼育しているウーパールーパーの水槽の掃除をしているときに異変を感じた。

掃除の途中で夕食のカレーを食べ、再び掃除に戻った瞬間、右半身にこれまで感じたことのない痺れを感じたのだ。

「あれ、なんか変な体勢でもしてたかな?」

そう思って立ち上がると、突然目の前の世界が右へ右へと傾いていくようなおかしな感覚に襲われ、思わず

「怖い! 怖い!」

と口走ってしまう。そばにいた妻や小4の息子は、「いきなり何を言っているんだ?」と当惑。「4月1日のエイプリルフールで、家族を驚かそうとしているの?」と思った。

右へと傾くそのおかしな感覚は、少し座っていたら治ってきた。そのため、水槽の掃除だけなんとか終わらせ、就寝した。

翌日は日曜日だったが、痺れだけ残っていたので、念のため日曜診療の病院を探して受診することにした。

熊部さんは、「どうせ大したことないから、帰ったら花見をしよう」と妻と息子に声をかけて1人病院へ向かう。

「念のためMRIを」

と医師に言われ、次にCT、さらに心電図と検査が続く。

「やけに手厚いな」

と思っていると、突然熊部さんの目の前に車椅子が現れ、

「座ってください。ご家族を呼んでください」

と看護師に促される。

言われるままに家族を呼び、到着すると、医師は画像を見せながら告げた。

「脳出血です。即入院になります」

写真=iStock.com/mr.suphachai praserdumrongchai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mr.suphachai praserdumrongchai

熊部さんの脳の画像の中に、白く小さな影が映っていた。

気がつくと、息子の目が涙で潤んでいる。

「ごめんな。花見できなくなっちゃったな」

そうして熊部さんは車椅子で入院病棟へ連れて行かれた。このときの熊部さんは、「日常が大きく変わってしまう」ということまで想像が及んでいなかった――。

■3歳で感じた「性別違和」

西日本で生まれ育った熊部さんは、物心ついたとき、両親はすでに離婚していた。

「母が20歳になる4日前に僕が生まれているので、18歳か、19歳かあたりで結婚していると思います。離婚は22歳頃と聞いてはいますが、父の事は1枚残っている写真でしか知りません。母からは、『お父さんは死んだのよ』と聞かされていましたが、子ども心にたぶん嘘だろうなと思っていたので、後に生きていると聞かされても驚かなかったですね」

離婚の理由は、父親の不倫だったという。離婚後、母親は熊部さんを田舎で暮らす自分の両親に預けて、自分は他県の市街地で暮らし、スナックで働き始めた。

祖父母は、家の一階で居酒屋のような食堂を営んでいた。両親が離婚したとき、熊部さんは2歳。祖父母は40代半ばだった。

「祖母は優しくも厳格な人でした。今の僕の礼儀や常識の土台を作ってくれたのは、間違いなく彼女です。祖父は僕を驚かしたり、笑わせたりするのが大好きでした。そんな祖父母に可愛がられながら、穏やかに暮らしていました」

ところが熊部さんは、すでに3歳の頃には、漠然とした違和感を覚えていた。

幼稚園に入園した熊部さんは、男女別に整列する時、吸い寄せられるように「男の子の列」に並び、先生に

「女の子はこっちよ〜」

と女の子の列に並ばされていた。

「僕はいつも、『なんであっちじゃダメなんだろう?』と不思議でなりませんでした。そんな僕の初恋は、近所のパン屋でアルバイトをしていた高校生のお姉さんです。この頃はまだ『性別違和』なんて言葉も知りません。でも、『女の子なのに女の子が好きなこと』は、なぜか『人に話してはいけない気がする』と本能で感じていました」

写真=iStock.com/Zoey106
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Zoey106

■「女の子」という役割

小学校に入学した熊部さんは、離れて暮らす母親から本革の赤いランドセルをプレゼントされた。当時は赤か黒かの2択しかなかった当時、「黒がいいな」と思っていた熊部さんだったが、言えなかった。

「小学校に入学することは、社会という名の大きな舞台に上がるようなものです。でも、僕に配られた台本には『女の子』という役割がしっかりと書き込まれていました。当時の僕は、その台本を読み返すたびに首を傾げていたんです。だけど伝え方が分かりませんでした。だから僕は毎日、スボンを履いて登校しました。それは、僕は僕でいられるための、ささやかな“鎧”でした」

放課後になると熊部さんは、女の子の友だちと遊んだ。しかしある日、川で男の子たちが遊んでいるのを見かけると、男の子たちと一緒に魚を追い込む遊びに夢中に。それからというもの、祖母に内緒で男の子たちと泥だらけになりながら遊ぶようになった。

しかし一方で、熊部さんは「いい子」であろうとした。

「当時の地方都市でシングルマザーが生きていくのは今よりずっと大変で、職種も絞られていました。母は店から30秒という至近距離に部屋を借り、接客の合間に寝ている小さな僕の様子を何度も見に来ていたのです。今なら児童放置・虐待と言われるかもしれませんが、託児所などもなく、それが母なりの苦肉の策だったんです」

そんな状況を不憫だと思った祖父母は、半ば強引に熊部さんを田舎へ連れ帰ったのだ。

「おかげで僕は寂しくありませんでした。だからこそ僕は、母一人遠くで働くことを『かわいそうだ』と思っていました。そのせいで僕は『母にとって、手のかからない、いい子でいよう』と無理をしていたのかもしれません」

■再婚した母親は毒母になった

熊部さんが小5の時、母親が再婚。相手は店の従業員で、小3の娘がいた。熊部さんは、母親と再婚相手、そしてその娘と暮らすことに。

「母は再婚相手の娘に躾をする以上に僕には厳しくしました。『姉』となった僕もまた、優等生であろうとし、率先して“いい子”であろうとしました」

最初は“規則に厳しい母親”といった感じだったが、その厳しさはだんだんエスカレートしていった。

「『女の子なんだから』と言って最初は手伝い程度でしたが、いつしか家事全般が僕たち姉妹の仕事になりました。本人に聞かずに英会話教室を契約してきて『通え』と言ったり、『どうせレギュラーになれない部活なんて無駄』と言って辞めさせられたり、進路も『それはあなたには向かない』とか『あれは潰しが効かない』と言って反対され、青春時代だからこそ楽しいことや、友人と経験するからこそ心に残る思い出には何一つ参加できませんでした」

もともと体が弱かった母親は、時々体調を崩して寝込むことがあった。そんなときは熊部さんと妹が手分けをして家事を担い、母親が腰や足が痛いと言えば、マッサージまでこなした。

「もちろん友だちと遊ぶ暇はなく、学校から帰ってくる時間も厳しく管理されていました。母が欠勤の時は、勤め先の店に、僕が電話を入れたこともあります」

ひとたび逆らえば、容赦なく暴力を振るわれた。手で叩かれるだけならまだましで、胸ぐらを掴んで引きずり回されたり、頭を踏みつけられたり、革のベルトでお尻を叩かれることもあった。

「今なら完全に虐待ですね。思えば祖父母のところに逃げ帰る事もできたでしょうが、祖父母に心配をかけたくなかったですし、それでもまだ、『かわいそうな母の味方でいなくては』と思っていました。もうこのまま、自分の性別違和も言えず、母の敷いたレールの上を生きていくのだと思っていました。洗脳のようでした」

■DV母の支配下でヤングケアラー

母親の尻に敷かれていた継父は、昼の仕事に転職していたが家計は苦しく、高校は「公立でなければ中卒だ」と言われ、猛勉強した。高校に入学すると、17歳違いの弟が生まれた。

「何かにつけて弟優先の生活になりました。卒業後は短大に進んだのですが、やれ弟の具合が悪いだの、母の体調が悪いだの言われて講義をギリギリまで休まされて、いざ自分が熱が出た時に休みたくても休めず、フラフラになって受講していたら、見かねた教授に『出席扱いにするから帰りなさい』と言われたこともあります。僕は生活に自由がないのに、母が友だちと出かけるときは、僕が弟の世話をするという、誰のためかわからない生活をしていました」

写真=iStock.com/simarik
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/simarik

子供時代の熊部さんは、心と体の性が異なる性を持つ性同一性障害に悩みつつ、DV母の支配下でヤングケアラーとなった。

「それでも僕が壊れなかったのは、皮肉な話ですが、母から洗脳された“効果”が大きいと思います。ただ、母も常に毒母ではなく、親子で穏やかに過ごす時間もあったことはささやかな救いとなりました。それに何より、僕がDVされていた状況や、性同一性障害のことなど、何でも相談できる友人がいましたし、学校生活が楽しかった。だから、乗り越えられたんです」

そして、その後は最愛の人との結婚や性別適合手術という人生の充実期を迎える一方、生活保護の受給に至るという経済的な困窮と、命に係わる大きな健康の問題を抱えるという波乱万丈なものとなっていく。

出典=こども家庭庁 支援局 虐待防止対策課「ヤングケアラー支援の現況」令和7年度

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)