【福田正博 我が道3】桜美林から甲子園に行きたい 父の影響で野球始め
十日市場小学校に入学すると、野球に熱中した。1970年代前半は巨人のV9時代、日本中がプロ野球で盛り上がっていた。野球が大好きだった父の影響で、私も学校から帰ると、近所の子と草野球や三角ベースをやって遊んでいた。
だが、最初に本格的にやったスポーツは柔道だった。小学2年生の時に仲のいい友達に「一緒にやろう」と誘われ、自宅近くにあった道場に通い始めた。級も取ったし、横浜市大会にも出場した。私は背負い投げが得意だったが、市大会の1回戦で、得意技を出す前に寝技に持ち込まれて負けてしまった。柔道は嫌いではなかったが、友達が転校したため、約1年でやめてしまった。母は「姿勢が良くなった」と言っていたが、やめた途端に元に戻ったらしい。そういえば、年末に餅つきがあり、おはぎが振る舞われたが、その頃おはぎが嫌いで困った思い出がある。
ナイター中継は毎日のように見た。巨人ファンだった父と一緒に、午後7時半から9時まで、日本テレビで巨人戦が始まるのを待って観戦。テレビ中継が終わるとラジオをつけて、ニッポン放送で試合終了まで聴いた。テレビアニメ「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」も楽しみだった。長嶋茂雄さんは監督になっていたので、ホームランの世界記録が懸かっていた王貞治さんや、レフトからサードにコンバートされた高田繁さんを応援していた。でも、なぜか手元にある当時の写真では、阪神の帽子をかぶっている。どこで買ったのか全く記憶がない。
4年生になると、軟式野球の十日市場クラブジュニアチームに入団した、3、4年生の担任だった市川善男先生がチームを率いていたが、どういう経緯で入団したのかは記憶がない。覚えているのは本格的に野球を始めることになり、原町田駅近くのスポーツ店へ行って、父にグラブと金属バットを買ってもらい、父とよくキャッチボールをしたことだ。野球チームでは、足が速かったので、打順は1番、塁に出れば盗塁を決めていた。ポジションは最初はセンターで、その後キャッチャーを経てショートになった。守備はうまかったが、バッティングはパワーがなく、自信がなかった。それでも、球技のセンスもあったので「将来はプロ野球選手になりたい」と思っていた。
そういえば一度、招待券をもらい、父とプロ野球を観戦したことがあった。川崎球場のロッテ戦で、監督は400勝投手の金田正一さん。球場のスタンドはガラガラで対戦相手も覚えていない。試合途中で金田さんが一塁コーチスボックスに出てきた時が、一番盛り上がった。金田さんは体が大きく、父が「現役時代は凄かったんだぞ」と言っていた。
本格的に野球を始めた頃、76年夏の甲子園で、町田にある桜美林高校が初出場で優勝。甲子園に憧れ、子供心に漠然と「家から近いし、強い。桜美林に行って、甲子園に行きたい」というのが夢になった。
◇福田 正博(ふくだ・まさひろ)1966年(昭41)12月27日生まれ、神奈川県出身の59歳。相模工大付高(現湘南工大付高)から中大を経て三菱重工に入社。Jリーグ開幕後は浦和で95年に得点王、ミスターレッズと呼ばれた。日本代表でも92年アジア杯や93年のW杯米国大会アジア予選などに出場。現役引退後は08年から3年間浦和でコーチとして指導。現在はテレビ解説者やスクールコーチを務めている。

