話題の気象予報士・吉井明子が語る31歳での転身と45歳の水着挑戦「ここでやらなければ後悔する」

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昨年まで気象予報士としてテレビに出演し、現在はラジオの気象解説を中心に活動する気象予報士の吉井明子さん(45)。慶應義塾大学卒業後、一般企業勤務を経て気象の道へ進み、地方局などで経験を重ね、現在はラジオの第一線で活躍している。そんな吉井さんが、人生初のグラビアに挑戦。「肌を出すことには抵抗があった」と明かす彼女は、なぜ今新たな一歩を踏み出したのか。気象予報士としての歩みと、その決断の背景を聞いた。

【写真】取材に応じる吉井明子さん

一般企業を経て31歳で気象キャスターへ

──気象予報士を目指したきっかけは?

吉井明子さん(以下同) 子どもの頃から、天気は身近な存在でした。生まれた日の朝が「台風一過の青空だった」と家族からよく聞かされていて、自然と興味をもつようになったんです。

中学生のときに天気図を描いたら、先生に「自分より上手い」と褒められて、「もしかしたら向いているのかも」と調子に乗っちゃって(笑)。

大学受験期はテレビを制限してほとんど観なかったのですが、唯一観ていたのが天気予報。ニュース番組をハシゴして観ていると、同じ「雨が降る」という情報でも「必ず傘を持ってください」と強く伝える人もいれば、「それほど降らないかもしれません」とやわらかく伝える人もいる。そうした違いを、無意識のうちに楽しんでいたのだと思いますね。

──前職は一般企業とのことですが、気象予報士になるまでの経緯は?

当時は就職氷河期でなかなか就職先が決まらず、「どうしようかな」と不安な時期が続きました。そこで思い切って、もともと興味のあった気象予報士を目指すことにしたんです。在学中にも資格の勉強をしていたのですが、卒業後半年ほど資格の勉強に専念し、無事取得。

その後1年間仙台で、気象情報の業務に携わりました。そんな中、とある地方局でキャスターの仕事が決まり、引越しの準備まで終えていたのですが、直前で前任者の方が「やっぱり辞めない」となり、話が白紙になってしまって…。

キャスターになるつもりで仙台での仕事も辞めてしまっていて、「もういいかな」と気持ちが切れてしまい、永田町の自治体関連企業で働くことになりました。

──そこから再び、なぜ気象の世界へ?

きっかけは2011年の東日本大震災です。東京で大きな揺れを経験し、かつて働いていた仙台も大きな被害に遭っていることを知り、ショックを受けました。

同時に、「人生は何が起きるかわからない」と痛感し、自分にできることにもう一度挑戦したいと思うようになったんです。当時31歳で、周囲には新しい挑戦に慎重な同世代も多かったのですが、「ここでやらなければ後悔する」と覚悟を決めました。

──そこで静岡のテレビ局のオーディションを受けられたわけですが、一般企業勤務からテレビのような人前に立つ仕事へ移ることに、抵抗はありませんでしたか。

じつは私、4歳のときから父の趣味の手品を教えられていて、6歳のときに『ちびっこスター誕生!』(日本テレビ)に出て最高得点賞をいただいたことがあるんです。

奇術愛好家の発表会に親子で出演したり、大学生になってからも父と一緒に幼稚園や結婚式で披露したりしていたので、人前に立つことにも慣れていました。

テレビ局のオーディションでも手品を披露したのですが、「もう一回見せてください!」と言われたときに「手品に二度はありません」と答えたのが、後から聞くと印象に残っていたそうです。

平均睡眠は4時間、人生で一番言った言葉は「眠い」

──気象予報士とお天気キャスターはどんな違いがあるのでしょうか?

キャスターはニュースを読むのが主な仕事ですが、気象予報士は、気象現象の予報業務を担う国家資格です。気象庁が発表する予報や各種データをもとに解析を行い、「どこに注意してほしいか」といったポイントを自分の言葉で文章にまとめて伝えています。

──実際の放送現場では、どんな流れで天気を伝えているのでしょう。

放送の3~5時間前くらいからは、天気図や上空の大気の流れを解析したり、雨雲の予想をチェックしたりしています。担当していた放送では、主に5時・11時・17時に気象庁が発表する予報資料を確認、最新の情報を担当エリアごとに整理し「きょうは気温をメインに話すのか」「雨を中心に伝えるのか」など放送の軸を決めます。テレビであれば、テロップやフリップの発注も行いますね。

──視聴している側からすると数分のコーナーですが、その裏には多くの準備があるんですね。短い時間の中で情報を絞り込むうえで、とくに意識していることは?

「明日の天気」を伝えるにしても、予想最高気温に前日比を出すのかどうか、なぜ気温が高くなるのかを説明するかどうかなど、限られた時間の中で情報を取捨選択します。

放送が始まるまでに原稿を書きながら、その間にも新しい情報が入れば差し替えますし、本番中に雨が急に強まれば、気温の話から雨の話に切り替えることもあるんです。

──生活リズムもかなり不規則ですよね。

朝5時から始まる番組を担当させていただく日は、午前2時起きです。頭がぼんやりしている状態でも、新しい気象情報はどんどん入ってきますから、「きちんと目を覚まして、正確に伝えなきゃ」と自分に言い聞かせながらやっています。

平均睡眠時間は4時間くらいで、眠れる日に8時間くらいまとめて寝て、なんとかバランスを取っている感じですね。人生で一番言ったワードは、たぶん「眠い」だと思います(笑)。

──画面に映る仕事でもありますが、ファッションやメイクについてはどんなことを心がけていますか。

一番は「気象情報の邪魔にならないこと」を意識しています。たとえば天気が荒れているのに、ヘアメイクも服装もキメキメの状態で登場して「皆さん気をつけてください」と言っても、「なんだか余裕ありそう」と受け取られてしまうかもしれませんよね。

季節感もとても大事で、「明日は寒くなります」と言いながらノースリーブを着ていたら説得力がありません。地方局時代は衣装が自前だったので、同じ服ばかりにならないように、どの日に何を着たかを絵日記のように記録して管理していました。

──職業柄、「天気の見え方」が一般の人と違うなと感じる瞬間はありますか。

「今日、暑かったね」と言われると、「たしかに昨日よりは気温が高いんですけど、今日は何月何旬並みで…」と説明したくなってしまうんです。でも話が長くなるので、ぐっとこらえて「そうですね」で済ませています(笑)。

あとは、空を見ているだけで興奮できます。彩雲のような雲が虹色に輝く現象や、太陽の両側に虹色の光が現れる幻日など、レアな現象を見つけるとテンションが上がって、周りに教えてあげたくなるくらいです。

45歳で水着デビューを決断した理由

──Instagramの写真がネットニュースで取り上げられ、「美人すぎる気象予報士」といったかたちで話題になりました。ボディラインなどにも言及されることもありましたが、こうした反響はどのように受け止めましたか。

最初は戸惑いました。「美人すぎる」なんて自分では思っていませんし、そう見せようと意識していたわけでもなかったんです。

もともとは衣装の写真を記録として載せていただけだったのですが、同じようなパターンが続くと自分でもつまらなく感じてきて。その日の自分や天気をどう切り取って見せるか、少しずつ工夫するようになっていたという感じだったので。

ただ、それをきっかけに私のことを知ってくださる方が増えたのは、今はありがたいと感じています。

──そんな中でのグラビアのオファー。当初は戸惑いもあったそうですが。

正直、断ろうと思っていたんです。水着になるのが10年ぶりくらいで、これまでテレビの現場では露出を控えるよう教えられてきたこともありますし、肌を見せること自体に抵抗がありました。

ただ、これまでの人生、言葉や文章・写真で自分を表現してきましたが、45年間ともにしてきたこの体もまた、自分自身を語るひとつの手段なのではないか、と考えるようになっていきました。

迷っていたときに弟に相談したら、「やったほうがいいよ」と背中を押してくれて。せっかくいただいた機会でもありますし、挑戦してみたいという気持ちへと変わっていきました。

── 一部報道では「第二の竹中アナ」といった声も上がっています。竹中知華さんは元NHK沖縄放送局のキャスターで、44歳で『週刊プレイボーイ』のグラビアに挑戦し話題になりました。同業で年代も近いことから、比較されることについてはどう受け止めていますか。

竹中さんのことは以前から存じ上げていて、最初にグラビアを拝見したときは純粋に「すごいな」と思いました。自分にはない芯の強さを持っていらっしゃる方だなと。

自分もグラビアに挑戦してみて、竹中さんの開放的な笑顔や、心から楽しんでいる様子にあらためて魅力を感じました。同世代が頑張っている姿はうれしいですし、今では私もその一端を担えたらと思っています。

──ロケ中の天候についても、吉井さんが予報していたそうですね。ふだんはスマホのお天気アプリで確認するスタッフも、この日は吉井さんに天気を聞いていたとか。

撮影日は北東気流の影響で、関東だけがかなり冷え込む日でした。気象予報士として一応予報をお伝えしたのですが、「さすがに撮影日は動かせません(笑)」というやり取りもありましたね。でも、結果的に冷たい小雨の降る中という、忘れられない初めてのグラビア撮影になりました

取材・文/福永太郎