風俗取材ひとすじ、76歳の伊藤裕作さん。

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 夕刊フジが休刊となり、週刊誌も“隔週刊”化が進んでいる。コンビニの雑誌売り場は鳴りを潜め。スポーツ紙の風俗情報欄も、廃止か縮小。いまや、紙媒体で風俗情報に接する機会は、めったになくなった。

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 だがそんなご時世をものともせず、“現役最年長風俗ライター”が著した『ニッポン風俗100年史』(人間社刊)なる本が刊行された。著者・伊藤裕作さんは、今年76歳。風俗ライターひとすじ、50年超の大ベテランである。風俗記事の常連読者であれば、一度は目にした名前であろう。

 伊藤さんには、1980年代、週刊新潮も何度となくお世話になってきた。今回の新著は、日刊ゲンダイに書いてきた101編のコラムをもとにまとめられたという。さっそくお会いし、新刊の紹介もかねて、風俗ライター半世紀の日々をうかがってきた。

風俗取材ひとすじ、76歳の伊藤裕作さん。

寺山修司に憧れて東京へ

 伊藤裕作さんは1950(昭和25)年2月、三重県津市に生まれ育った。ふつうの文学青年だったという。

「三重県なので、名古屋か関西の大学へ進学しようと思っていました。ところが高校2年のころ、深夜テレビの、たしか『11PM』だったと思うのですが、寺山修司率いる、劇団天井桟敷の舞台映像が流れていたんです。これを見てびっくりしてしまいまして。あまりに強烈なヴィジュアルで、しかもこの寺山修司という人は早稲田大学の卒業で、短歌もやっているという。そこで必死に勉強して早稲田大学の教育学部に入りました。もちろん、サークルは〈早稲田短歌会〉です」

 実は伊藤さんは、風俗ライターのかたわら、歌人として短歌集も上梓している(本書にも、コラムごとに伊藤さんの短歌が掲載されている)。それどころか伊藤さんは、還暦を過ぎてから法政大学大学院に入学。「戦後の娼婦小説の系譜と寺山修司の娼婦観」なる修士論文をまとめている。実際、寺山修司にかんする著書も多く、寺山の流れを引く演出家・劇作家、流山児祥の公演などにもかかわっているのだ。

 そんな典型的な“文学青年”が、いかにして風俗ライターの道に踏み込んだのだろうか。

「大学には7年通って卒業しました。就職では、吉本新喜劇の構成作家や、日活の助監督募集に応募しましたが、どうもうまくいきませんでした。しかし卒業した以上は、なんとか食っていかなくてはならない。そこで、祥伝社が出していた隔週刊女性誌『微笑』で、デパートの缶詰の値段を調べるデータマンをやりました。次が月刊『新評』の人物クローズアップ欄のデータマン。最初は、その年に芥川賞を受賞したばかりの作家、村上龍さんでした。キャバレー・チェーン〈ハワイ〉を大成功させた小松崎栄さんの取材をしたこともありました」

 それらの仕事をやっているうちに、当時、人気絶頂だった青年マンガ誌「週刊漫画Q」で、成人映画紹介欄を担当することになった。

「成人映画『痴漢地下鉄』でデビューした青山涼子さんと一緒に、同誌の表紙に出たこともあります。のちに武智鉄二監督の本番映画『白日夢』(1981年)で人気となる、愛染恭子さんです」

 やがて伊藤さんは、ピンクサロンの世界を知る。

「ピンサロが過激化したのはけっこう古い話で、1968年のこと。この年から、さまざまなサービスが登場しました。なぜ、1968年だったのか。ちょうど東大紛争、日大闘争、新宿騒乱事件などで世間が騒然となった年です。若者のエネルギーが反体制運動に向かって爆発していました。実はこのころから、“お上”による風俗方面の取り締まりが極端にゆるくなっているのです。明らかに、エネルギーのはけ口を別方面に向けさせているかのようでした。そして1976年には、“合体プレイ”を売り物にするピンサロまでが登場するのです」

 あるとき、伊藤さんは新宿・歌舞伎町にあるピンサロへ取材に行く。そこで、関西出身の明るくて屈託のない女性を知り、一種の“カルチャーショック”を受ける。著書では〈気がつけばズッポリこのピンキャバ嬢の虜になって風俗記者の道を歩み始めていた。〉と記されている。

銀行員が毎日“集金”にくるマンションとは

 風俗ライターとして活躍しはじめた伊藤さんが、全国的に有名な、滋賀・雄琴の特殊浴場街に足を踏み入れたのは、1980年のことだった(まだ当時、この浴場は、中東の某国名で呼ばれていた)。

「雄琴の国道161号線沿いに、特殊浴場の第1号店〈花影〉がオープンしたのは、1971(昭和46)年のことです。わたしが取材に訪れた時点では、49軒になっていました。雄琴から東京・吉原に移ってきていたA嬢が、『姉がいまでも雄琴で働いているわ』と、紹介してくれたのです。さっそくその雄琴のお姉さんの住むマンションを訪れると、入居者全員が泡姫でした。当時、疲れを癒やすためのカッピング(吸い玉)マッサージが流行していて、みなさん、仕事のあと、その施術を受けていました。また、そのマンションには、毎日銀行員が集金にやってきて、嬢たちから現金を預かって通帳に書き込んでいたのも、忘れられない光景です」

 そもそも、中東の某国名で呼ばれていた特殊浴場は、本来は健全な浴場だった。

「日本における第1号店は、1951(昭和26)年に東京・東銀座に開業した〈東京温泉〉です。もちろん蒸し風呂と、女性が白衣でお客の体を洗うだけの健全店でした。ところが、なにぶん“密室”だもんですから、手をつかう過剰なサービスをおこなう嬢があらわれました。最初にやったのは、1952年に東京・浅草のひさご通りに開店した〈新世界〉の朱雀さんだといわれています」

 売春防止法の施行により、1958(昭和33)年に赤線が廃止。各地で特殊浴場の開業が相次いだ。個室内は、お客と従業員の“自由恋愛”という建て前で、なにがおこなわれても“治外法権”だった。

 だが、1984(昭和59)年、中東某国の留学生が、自国の名前が付いた特殊浴場の名称に異議をとなえた。これを、当時テレビキャスターだった小池百合子氏がバックアップした。

「抗議があった時点で、マスコミは、いっせいに各社独自の名称で呼び始めました。ロマン風呂、ラブリーバス、ルンルン風呂……しかし最終的に、東京都特殊浴場組合の公募で、2400通の応募から選ばれたのが、現在の名称です。渋谷のサラリーマンの命名だそうです」

〈愛人バンク〉という名称誕生の秘密

 伊藤さんは、風俗の歴史を語るうえで欠かせないエポックにも立ち会ってきた。1982(昭和57)年暮れ、ある雑誌で、目新しい広告を見つけた――「かわいい学生、OLが、ハートもカラダも月4〜5回のデート交際中にあなたに尽くします」。

「要するに、素人がお相手するというわけです。写真を見ると、主宰者の筒見待子はかわいらしい女の子です。組織名は〈愛人バンケット機関・夕ぐれ族〉とありました」

〈夕ぐれ族〉とは、1978年にベストセラーとなった、吉行淳之介の小説『夕暮まで』(新潮社刊)からとられている。1980年には、黒木和雄監督、桃井かおり+伊丹十三主演で映画化された。若い女性と中年男性の関係を描く物語だ。

「さっそく取材に行きました。男性は入会金20万円で愛人志願の女の子と“お見合い”し、合意できれば愛人契約を結ぶ。あくまで結婚相談所とおなじで、事務所は仲介をするのみ。その先、どうなるかは関知しない……しかし、この〈愛人バンケット〉という名称が、どうもピンとこない。そこで、『いま、環境問題でエコバンクなどがあるから、いっそ〈愛人バンク〉にしたらどうか』と提案したんです。それを受け入れてくれて、年明けから、一斉に〈愛人バンク 夕ぐれ族〉の名称でメディアに登場するようになりました。しかし、おおやけの宣伝広告は一切しない。主宰者の筒見待子女史が〈愛人バンク 夕ぐれ族〉と電話番号が染め抜かれたトレーナーを着て、テレビや雑誌に“取材対象”として登場するんです。『笑っていいとも!』にも出ましたよ。それを見て、興味とカネがある男性が、電話をかけるというわけです。実に頭のよい戦略でした」

 伊藤さんは、この新風俗〈夕ぐれ族〉の登録女性たちを多く取材した。

「ところが、その年の夏、〈夕ぐれ族〉事務所から会員名簿が盗まれ、恐喝事件が発生します。その捜査の結果、筒見女史ら主宰者たちは売春防止法違反容疑で逮捕、有罪。あっという間にブームは消え去ります」

 実は、このとき盗まれた男性会員名簿に、ある政党幹部の名前があった。さっそく情報を得た週刊新潮が取材に行くが、相手は知らぬ存ぜぬ。記事になると名誉棄損で訴えてきた……なんて騒ぎもあったのだが、それについては、また別の機会に。

会員制高級しゃぶしゃぶ店〈楼蘭〉とは

 風俗の歴史を語るうえで欠かせないのが、下着を着用しないウェイトレスがいる喫茶店である。伊藤さんは、これらの現場にも立ち会ってきた。

「特に話題になった店が、1980(昭和55)年12月に、大阪・阿倍野にオープンした〈あべのスキャンダル〉です。実際には、その前から、京都や博多で同業種があったのですが、ここは、下着無着用のみならず、上半身も無着用、過激なアトラクションで大盛況。一方、東京では歌舞伎町〈アメリカンクリスタル〉が、床面の通風孔から風が吹き上げてスカートをまくりあげるシステムで大人気になりました」

 この“下着なし”で特異な存在を示したのが、新宿・歌舞伎町の会員制高級しゃぶしゃぶ店〈楼蘭〉だった。この店が、一躍、全国に名を轟かせたのは、1998(平成10)年。大蔵省(当時)の接待汚職事件の舞台だったことが報じられてからだった。あくまでしゃぶしゃぶ店だから、領収書もちゃんと出る。まさに、大蔵官僚たちの“秘密の接待場所”だった。だが、一切、取材には応じない。紹介者なしでは入店もできないとあって、実態はなかなか知られなかった。

「いったい、どういう店なのか、なんとか取材できないかと、前々から狙っていました。するとあるとき、同郷の三重県出身で、某政党の職員をやっている友人が〈楼蘭〉の会員だというので、連れていってくれたんです」

 店は、あくまでふつうの、いや、かなり高級な雰囲気のしゃぶしゃぶ店だった。

「テーブルごとにミニスカート姿の女性がついてくれます。ドリンクや料理を注文するたびに、この女性が立ち上がる。すると、テーブルの下にカメラが埋め込まれており、スカートのなかを写し、これまた客のテーブルの端にあるモニターに“中継”してくれるのです。バカバカしいと思われるでしょうが、これがすごい迫力なんです。しかも、しゃぶしゃぶも、ちゃんとした料理で、たしかに高級でした」

 しかし、なぜ“しゃぶしゃぶ”なのだろうか。ほかの料理や、バー形式でもよかったような気もするが……。

「店の経営者が三重県出身で、高級な松阪牛を仕入れるルートを持っていたんだそうです。だからこそ、高い料金がとれて、官僚接待に利用された。そういえば紹介してくれた友人も三重県出身でした」

われも彼女も老いの只中……

 このほか、伊藤さんの著書『ニッポン風俗100年史』には、ありとあらゆる話題が詰め込まれている。秘書付きレンタルオフィス、個室スタジオ、自販機本、テレクラ……枚挙に暇がない。川端康成『眠れる美女』を“実体験”できるイメクラは、中学の元国語教師が借金返済のためにはじめたそうだ。戦前どころか、大正時代の風俗の話題もある。写真も豊富で、なかには、“昭和のオヤジ”が懐かしさをおぼえる光景も。

「よく、こんなに長く風俗取材をしてきて飽きなかったのかと聞かれます。飽きるも飽きないも、そんなことを感じている余裕などありませんでした。それほど、次から次へと、新種の風俗が誕生してきたのです。追いかけてレポートするだけで精いっぱいでした」

 だが、さすがに近年は、風営法などの強化もあり、もう新種の風俗は登場しない。

「そもそも、いまは新聞や雑誌が読まれません。情報はすべてネットです。紙媒体の風俗記事も、ほとんどなくなりました。わたし自身も、さすがに76歳では“突撃取材”は無理で、いま書いているのは回想記事、いわゆるむかし話です。それでも、こんな面白い、エネルギーにあふれた時代があったことを、すこしでも知ってもらえればと思って、老骨に鞭打って書いています」

 先述のように、本書には、各項ごと、伊藤さんの短歌が収録されている。なにぶん、題材が題材なので、ご紹介できない短歌がほとんどなのだが、あえて一首。先述、伊藤さんが命名に関与した〈愛人バンク 夕ぐれ族〉で、逮捕されてしまった筒見待子女史を回想して――

〈あの日から四十余年月日経ちわれも彼女も老いの只中〉

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部