【首藤 若菜】30年にわたる「実質賃金」の停滞。なぜ日本経済の時間は止まったままなのか

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1997年以降、日本では名目賃金から物価上昇率を差し引いた「実質賃金」の低下、停滞が続いている。

欧米などではインフレと並行して賃金が上昇しているのに、なぜ日本だけが低迷しているのか――。

流通、運送の現場をはじめ、多くの業界の現場を訪ね、実例を見てきた首藤教授が解き明かす、日本経済の最大の謎。

注目の論考の「はじめに」を公開。

(本記事は、首藤若菜著『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』の一部を抜粋・編集しています)

最近、日々の買い物のなかで、ふと立ち止まる瞬間が増えた。長年、物価の優等生と呼ばれてきた卵は、1パック300円前後ということが珍しくなくなりつつある。家計の味方とされてきたもやしや豆腐も、値上げの動きが相次いでいる。猛暑の影響もあり野菜の価格は高騰し、果物は「もはやぜいたく品」とさえ言われる。これまで当たり前のように続いてきた生活の実感が、少しずつ、しかし確実に揺さぶられている。

価格の上昇は、必ずしも分かりやすい形であらわれるとは限らない。同じ値段のまま量が減る、原材料が変わる、選択肢が少なくなる。外食は、かつてのような気軽な日常ではなくなり、いつの間にか特別な支出として意識されるようになった。電気代やガス代といった、簡単に削れない支出も重くのしかかる。こうした変化の一つひとつは小さく見えても、積み重なれば生活の余裕を確実に奪っていく。多くの人が、もはや努力や工夫だけでは吸収しきれないと感じている。節約すれば何とかなる、やりくりすれば乗り切れる、そうした前提が静かに崩れ始めている。

しわ寄せはいつも生活者に

こうした状況のなかで、賃上げのニュースも頻繁に耳にするようになった。物価高を受けて、ここ数年、春闘では高い賃上げ率が実現している。最低賃金も大幅に引き上げられてきた。それにもかかわらず、暮らしが楽になったという実感は乏しい。

毎年、賃金が上がる労働者ばかりではない。中小企業で働く人からは、「春闘なんて、うちにはまったく関係がない。そもそも定期昇給もありませんから」といった声も聞かれる。

平均で見ても、名目賃金は上昇しているものの、その伸びは物価の上昇に追いつかず、実質ベースでは賃金の目減りが続いてきた。足元では、物価上昇率の鈍化もあって、実質賃金が一時的にプラスに転じる動きもある。しかし、それによって生活の厳しさが解消されたわけではない。家計の余裕が失われつつあるという声は、都市でも地方でも、産業や職種を問わず広く聞かれるようになっている。

なぜ物価上昇に伴って賃金が上がらないのか。なぜ物価高騰のしわ寄せが、これほど長いあいだ生活者に押し付けられているのだろうか。

労働現場を歩くと、「人手が足りない」という声を耳にする。多くの職場で、慢性的な人手不足が語られる。人手が不足していれば、本来、賃金は上がるはずではないだろうか。そうした素朴な疑問が自然に浮かぶ。

レストランでは、席が空いているにもかかわらず、お店の外に人が並んでいる状態も見かけるようになった。スタッフが足りず、席を埋めることができないためだ。

ある飲食店の経営者はこう語った。「人はほしい。でも、いまの賃金では採れない。かといって、それ以上の賃金を払えば採算が合わない」。定食の値段を上げれば、常連客が離れてしまうのではないか。客足が落ちれば、売り上げはむしろ減ってしまうかもしれないという不安が拭えない。人手不足でも、賃金を引き上げる決断は簡単ではない。

中小企業を縛る労働規制

原材料費やエネルギーコストが上昇し、最低賃金の引き上げにより人件費も増大している。こうした負担が、とりわけ中小企業の経営を圧迫してきた。加えて、人手不足が深刻化するなかで、労働時間規制の強化によって労働投入量はさらに制約されることとなった。中小企業からは、「経営が厳しい」「労働に関する規制が重すぎる」といった声が強まっている。

ある中小企業の経営者は、2026年に入り、ようやく賃上げに踏み切ったと話す。人手不足が続くなかで、古株の従業員が離職してしまい、このままでは会社がもたないと焦った。新しく人を採る以前に、今いる従業員が辞めないようにすることが先決だと考え、賃上げを決めた。

取引先との価格改定交渉では、「原材料費や物流費などのコストが上昇しており、現行の単価では対応が難しくなってきている」と説明し、わずかではあるが価格を引き上げてもらうことができた。ところが、その喜びは長くは続かなかった。原材料の仕入れ先からさらなる値上げの通知が届いた。一方で取引先からの発注は減少した。結局、価格改定で得られた余力はすぐに消えてしまった。「賃上げが必要だとは分かっている。でも、その原資が残らない」。経営者は、疲れた顔で笑った。

後編に続く

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