「そんなもの、欲しかったわけじゃない」〈退職金2,900万円〉65歳夫、妻への“感謝の贈り物”で知った35年越しの本音
長年働き続けた区切りに、配偶者へ感謝を伝えたいと考える人もいるでしょう。高価な品や旅行を贈ることも、そのひとつです。しかし、自分なりに感謝を伝えたつもりでも、それが相手の求めていたものとは限りません。長く一緒に暮らしてきたからこそ、節目をきっかけに、それまで言えなかった思いが表に出ることもあります。
退職金2,900万円、「妻には何か特別なものを」と考えたが…
「今までありがとう。好きなものを買っていいよ」
定年退職を迎えた浩一さん(仮名・65歳)は、妻の恵美さん(仮名・63歳)にそう言いました。
浩一さんは大学卒業後、同じ会社に40年以上勤務。退職金は約2,900万円でした。子ども2人はすでに独立し、住宅ローンも完済しています。
夫婦の結婚生活は35年を超えました。
浩一さんは仕事中心の生活で、平日の帰宅は遅く、休日も取引先とのゴルフや会社関係の付き合いがありました。一方、恵美さんは子育てをしながらパート勤務を続け、家事のほとんどを担ってきました。
「ずっと支えてもらったので、最後くらいは形にして返したかったんです」
浩一さんが考えたのは、高級ブランドの腕時計でした。恵美さんが若いころ、雑誌を見ながら「きれいだね」と話していたブランドです。価格は約120万円。
浩一さんにとっては大きな買い物でしたが、退職金を受け取った直後でもあり、「これまでの感謝を考えれば高くない」と思いました。
記念日の夕食後、箱を差し出しました。
「開けてみて」
恵美さんは驚き、しばらく時計を眺めていました。しかし、浩一さんが期待していた反応は返ってきませんでした。
「どうした? 気に入らなかった?」
すると恵美さんは、小さくため息をつきました。
「そんなもの、欲しかったわけじゃないの」
浩一さんは言葉を失いました。
「昔、欲しいって言ってただろ?」
「35年前の話でしょう」
恵美さんの声は、怒っているというより疲れているように聞こえました。
「私が欲しかったのは、高いものじゃなかった」
浩一さんは、その晩初めて、妻が退職後の生活に抱いていた思いを聞くことになりました。
静かに話し始めた…妻が本当に欲しかったもの
「子どもが小さいころ、あなたが早く帰ってきた日はうれしかったの」
恵美さんは静かに話し始めました。
運動会や授業参観に来てほしかったこと。休日に家族で出かけたかったこと。自分が熱を出した日に、「仕事があるから」と言われ、子どもの世話まで一人でこなしたこと。
「何か買ってほしかったわけじゃないの。一緒にご飯を食べたり、家のことを少しやってもらったり、それだけでよかった」
浩一さんには、初めて聞く話ばかりでした。もちろん、家族をないがしろにしていたつもりはありません。長時間働き、収入を得ることが家庭を守ることだと考えていました。
「仕事を頑張ることが家族のためだと思ってた」
そう話すと、恵美さんは答えました。
「それもわかってる。でも、私が欲しかったものとは違ったの」
この一言が、浩一さんには最もこたえたといいます。
総務省『社会生活基本調査』では、家事関連時間について男女差が長年みられます。特に夫婦の家事分担は、現役世代だけでなく、退職後の生活にも影響します。仕事を離れたからといって、それまでの家庭内の役割が自然に変わるわけではありません。
最終的に時計の返品はせず、恵美さんが「せっかくだから使う」と受け取ることになりました。
ただし、それで話が終わったわけではありません。
退職後、浩一さんは週に2回夕食を担当するようになりました。最初は総菜を並べるだけでしたが、少しずつ料理も覚えています。
恵美さんが友人と出かける日は、洗濯や掃除も自分で済ませます。月に一度は二人で外食し、旅行も「どこへ行くか」より「一緒に予定を立てること」を大切にするようになりました。
「120万円の時計より、今のほうが妻には喜ばれている気がします」
浩一さんは苦笑します。
退職金は老後の生活を支える大切な資金です。まとまったお金を使って感謝を示すことが悪いわけではありません。
ただ、長年連れ添った相手への感謝が、高価な贈り物だけで伝わるとは限りません。
「何をあげれば喜ぶか」ではなく、「これまで相手は何を求めていたのか」。退職という節目は、夫婦でその答えを初めて言葉にする機会にもなるのかもしれません。

