被害少年は体操用マットの中で死亡した(写真はイメージです)

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 1993年1月に起きた「山形マット死」事件が、発生から33年経った今、注目を集めている。

 同事件は、山形県新庄市の市立明倫中学校で、当時13歳の中学1年生・児玉有平君が体操用のマットに巻かれて亡くなった、痛ましい事件だ。

【写真を見る】事件が起こった山形・明倫中の現場写真。生徒会が掲げた“白々しい標語”が

 事件を巡っては、傷害や監禁致死の容疑で7名の少年(12〜14歳=当時)が逮捕、補導された。児童保護福祉司の指導という行政処分となった1名を除き、少年審判で3名には事実上の“有罪”である保護処分が、3名には“無罪”である不処分が下されたが、保護処分を不服とした少年らが起こした抗告では、逆に7名全体の関与が認められ、判決は確定した。

被害少年は体操用マットの中で死亡した(写真はイメージです)

 その後、有平君の父・昭平さんら遺族が7名に起こした損害賠償請求訴訟でも、全員の賠償責任が認められ、判決は確定した。しかし、判決確定後も全員が支払いに応じず、うち3人は給与の差し押さえもできなかったため、遺族側はその3名を相手取って支払いを請求する訴訟を提起し、勝訴。が、それでも支払いを拒否したために、2025年、遺族側は3度目の支払い請求訴訟を提起した。その判決が7月15日に下され、当然ながら、元少年ら3名に3度目の支払い命令が出たのである。

 元少年らは今もなお「無罪」を主張し、それを理由に支払いを拒否しているという。しかし、刑事、民事両方で関与や責任を認める判決が確定してなお、それに従わない姿勢は、有平君を死に至らしめただけでなく、遺族をも侮辱、冒涜していると見られても仕方ないだろう。

 そもそも、彼らが行った鬼畜の所業とは何だったのか――。「週刊新潮」では、事件当時、周辺を取材し、残酷ないじめと、加害少年らの無反省な態度について詳報している。当時の記事を再録し、改めて、元少年らの言動の是非を問うてみよう。

【前後編の前編】

(「週刊新潮」1993年2月4日号記事を一部編集の上、再録しました。文中の年齢や肩書きは当時のものです)

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逆さ吊りの状態で3時間

 山形県新庄市は県北部に位置する人口4万3000ほどの典型的な地方都市。そこで起きた集団リンチ殺人、しかも被害者も加害者も12歳から14歳の中学生とあって、事件が与えた衝撃は測り知れないものがある。

 新庄市立明倫中学校1年の児玉有平君(13)がいじめによって死亡したのは今月(1月)13日のこと。卓球部に入っていた有平君は放課後、体育館でクラブ活動の準備をしていた。その彼を2年生5人と1年生2人の7人が取り囲み、いじめが始まった。

 彼らは有平君に“一発芸”をしろと強要。一発芸とは耳たぶを押さえて“ギョーザ”の格好を真似るといった他愛のないものである。有平君は自分から芸をやってクラスメイトを笑わせることもあったというが、この時は断った。

 これに怒った7人は顔や頭を殴ったうえ、体育用具室に無理やり連れ込み、執拗に一発芸を強要。有平君が再度拒むとさらに殴る蹴るの暴行を加えたうえ、ロール状に巻かれたマットの中心部に頭から逆さに押し込んだのだ。

 立てて置かれたマットの高さは1.2メートルあり、身長が1.5メートルの有平君は脛まで埋まった状態で発見された。死因は窒息死。マットに押し込まれたのが午後4時40分頃で死亡推定時刻が午後7時から8時の間とされているから、有平君は逆さ吊りの状態で3時間近く苦しんだことになる。何とも残酷なやり口ではないだろうか。

変わり果てた息子の姿

 有平君の父親で幼稚園を経営する昭平さん(43)は、変わり果てた息子に対面したときのことをこう語る。

「あの日は部活動のあと家に一度帰って、英語塾に行くことになっていました。ところが、7時を過ぎても帰ってこない。心配になって家内が学校に電話したところ、部活動はとっくに終わっているというのです。私は家の近所を捜しました。家に戻ると学校から電話があって、体育館の用具入れで逆さ吊りにされていると言うじゃありませんか。私は家内には何も言わずに走って学校へ行き、土足のまま体育館に入りました」

 そこで目にしたのは文字通り変わり果てた有平君だった。

顔はパンパンに腫れ、2倍くらいに…

「息子は床に寝かされ、見ると顔は痣だらけで腫れ上がっていました。細面の顔なのに、左目の上と顎のあたりがパンパンに腫れていて、2倍くらいになっていたんです。最初はこれが自分の息子だとは思えないほどでした。夢中で息子を抱き起こしてみると、まだ体に温かさが残ってはいました。ですが、すでに息はなく、死んでいることが分かりました。一目見て、これはただの事故ではない、何か常識的でないひどい犯罪が行われたんだと思いました」

 アニメ好きで明るく、成績も良かった有平君。両親に対しては学校でのいじめについて一言も口にしなかったという。だが、実際には陰湿ないじめを受け続けていたのだ。

「児玉君が叩かれたり、ツバを吐きかけられたり、芸をやらされるといったことは前からあったようです。だから、体育館でいじめを見ていた生徒たちも、ああまたかと止めなかったんでしょう。有平君が殴られていたのを見たと証言する子供もいました」(地元記者の話)

 恒常的にいじめがあった末の殺人なのである。

口裏を合わせ、アリバイ工作を…

 事件のあった夜から山形県警と新庄署は教師や生徒から事情聴取を行っている。犯行当時体育館には他にも生徒がいて目撃していること、外部の犯行とは考えにくい点からすると、加害者を特定するのは容易なことと見られていた。

 しかし、意外にも捜査は手こずった。新庄署の副署長は捜査の経過をこう説明する。

「13日の晩は10人ほどから事情を聴き、皆すらすらと応じてくれて事件の輪郭はつかめたかなと思ったんです。ところが、翌日になると発言が慎重になってスムーズに行かなくなった。口裏を合わせたんですよ。7人の生徒を逮捕、補導するまでの5日間に、のべ150〜160人の生徒、10数人の先生から話を聴きました。捜査員も当署のほぼ全員を投入しなければならないほど、手こずりました。事の重大さに驚いて口裏を合わせるといった行動を取ったのだと思いますが、悪質ですよ。アリバイ工作はする、否認する者もいるので強制捜査に切り替えざるを得なかったわけです」

電話にしがみついて…

 有平君の死を知って、まさか死ぬとは思っていなかったと名乗り出るのなら話はわかる。それとは全く反対で、口裏を合わせてアリバイ工作をするとは言語道断ではないか。テレビの刑事ドラマの影響かもしれないが、年端もいかない中学生が考えるとは思えない。

「犯行に加わった生徒の中には電話にしがみついて、他の生徒に“一緒だったよな”と強要したり、一人は女友達にあの日はデートをして、何処へ行って、こんな会話を交わしたことにしておいてくれと指示したようです」

 と、先の地元記者は話す。口裏合わせがあったものの、捜査当局はいじめに加わった7人を断定し、18日に傷害と監禁致死容疑で明倫中の2年生3人を逮捕、14歳未満の1、2年生それぞれ2人を補導した。逮捕と補導の違いは年齢によるもので、14歳未満は“触法少年”と呼ばれ罪を問うことが出来ない。触法少年は少年院や教護施設に送られたり、児童相談所に送られた後、児童福祉司の指導を受けたりすることになる。

行為の重大さがわからないものも

 捕まった7人のうち補導歴のある生徒は1人。残る6人は農家や商店主、サラリーマンなどの子供で、なかには成績のいい者もいたという。

 また、彼らはいわゆる非行グループではなく、たまたま一緒になって有平君に暴力をふるったようだ。

 取り調べを受ける彼らは、これが警察も舌を巻くほどのしたたかな態度だという。

「心を入れ替えたとか、自首したとか、そんな生易しいものではありませんでした」

 と、副署長は語る。

「基礎捜査を地道に積み重ねて、状況証拠をきちっとおさえた上で本人たちにあてて、認めさせたというか、認めざるを得なくさせたということでしょう。現在でも犯行を否認している者もいるし、反省している者、ほどほどに反省している者、人それぞれです。全員がきれいさっぱり認めている状況ではない。若いせいなのか、自分のやった行為の重大さが分からないのもなかにはいますね」

 ***

「週刊新潮」2002年10月24日号では、加害少年たちの調書から、有平君をマットに入れた際のこんな台詞も報じている。

「中さいれっぺ」
「児玉。ここならだれもいない。さっき見た金太郎やれ」
「本当にむかつく野郎だじゅ」
「児玉、軽い。マットに入れるべ」
「入れっぞ」

 実におぞましい事件である。

 しかし、これだけの悲劇を起こし、前述の通り、少年審判の抗告審で全員に「関与」を認める判決が下されても、昭平さんらが起こした損害賠償請求訴訟で賠償が命じられてもなお、元少年の一部にはそれに応じないものがいる。

 彼らとは一体何者なのか。「週刊新潮」では事件から12年後の2005年、少年たちの“その後”を取材している。【後編】では、その記事を再録する。遺族に対し、元少年の親族が放った“信じがたい言葉”とは――。

デイリー新潮編集部