「あのちゃんねる」での「嫌い」放送からはや1カ月半――

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 出演する番組を見たり、楽曲を聴いたことはなくとも、あのという人物が「多様性」のアイコンであるということは世に広く知られている。

【写真を見る】今とはかなり違う… 地下アイドル時代の「あのちゃん」

 いわゆる「生きづらさ系」の代弁者として、若者を中心に支持されてきた彼女。出始めの頃こそ、独特の物言いやキャラクターを眺めるための見世物扱いであったが。今ではキャラはそのまま、テレビで当たり前のように見かけるようになった。

 だが先日の「嫌いな芸能人鈴木紗理奈発言」騒動で少々潮目が変わってしまった。

著書に綴られた、終わらない「復讐」

 心の内を余すことなく赤裸々に綴った自著「哲学なんていらない哲学」(KADOKAWA)には、いつかこんな日が来ることを予見していたかのような、彼女の危うい独白が連綿と綴られている。

「あのちゃんねる」での「嫌い」放送からはや1カ月半――

 楽しいこと、嬉しいこと、仕事がうまくいったこと、自身に起こるあらゆるポジティブな出来事を、額面通り受け止めたことがないというあの。それは子供の頃から受け続けていたいじめに起因する。

 かつていじめられっ子だったことはカミングアウト済の彼女だが。芸能界で成功した今も、脳内の9割9分を占めるのは、いじめられた相手への「復讐」だ。本にはこの復讐に関する記述が延々と続く。

 直接罰や鉄槌を下すということではなく、自らが作った音楽や、活躍する姿などに触れたいじめっ子が「あのちゃんと友達だったんだよ」などと周りに嘘の自慢を吹聴する日が来ることを「復讐」だとする彼女。何ともリアルで切ない所懐である。

あの著「哲学なんていらない哲学」(KADOKAWA)

 だが、いじめられた相手が実際にそうしたかどうか確かめる術もないわけで。「復讐完遂」と思える日は未だ訪れず。その苛立ちが行間にもあふれ出ている。

 彼女の受けたいじめの数々の記述を読めば、こうした思考回路しか持ちえないのも合点がいく。まるで昨日のことのように鮮明に、受けた嗜虐の数々が連綿と。身体的なものから精神的なもの、子供によるものから大人によるものまで、バリエーションに富み、どれも実に凄惨だ。彼女が非常に生きづらい肉体的・身体的要素を持って生まれたことも不運であった。人が何を言っているのか理解できず、授業などは受けずに大声を上げて走り回っていたという。味方の顔をして近づいてくる大人や友達も、そのうち皆「どうしてみんなと一緒にできないの!」と呆れ怒り離れていったという。だが本人にはどうすることもできない。血が噴き出すような人間関係ばかり重ねた結果、人の善意を受け付けられない体質になったのが窺える。人から厚意を示されること自体が、彼女にとっては苦痛なのだ。

善意さえ受け取れない思考回路

 高校時代のスーパーのレジのアルバイトの面接で、店長の目を見て話すことができず、どうせ落とされると思っていたら、採用に。普通なら「なんで私を雇ったんですか?」なんて会話の一つも生まれそうな気がするのだが。彼女の思考回路には、雇ってもらえたことに対する感謝も、採用された理由に対する興味もなし。「自分を雇うなんて、よっぽど人手不足なんだな」で終わり、すぐにレジで客と大ゲンカしてクビになったそうな。

……同じような生きづらさを抱える若者は、首がもげるほど頷いて共感できるんだろうが。そうではない、大多数の社会の荒波に揉まれ努力している人間にとって、彼女は職場やコミュニティにいる「理解しづらい、扱いづらい人物」の象徴であるともいえる。彼女の脳内を通して窺い見る思考回路たるや。なるほど、こりゃ話すだけ無駄だぁ、のオンパレード。多様性への理解の前に、話せば理解し合えると思っていたことがまず間違いだということが深く理解できた。

痛みは「お守り」

 我々余人には皆目わからない「リストカット」についても紐解きが。経験者であることは本に書かれているものの、リストカット自体の詳細について記述はない。だが、彼女の「痛み」に関する独特な認識に、闡明のとば口が見えた気がしたのである。

 いじめ以外にも、様々な事故で大けがをしてきたというあの。その際「痛みが心地よかった」。「信用できた」と書いている。

 芸能界に入り、大きな仕事が次々と決まっても、性格上素直に喜べない。嬉しいことの次には必ず嫌なことが起こるという思考がこびりつき、嬉しさを素直に表に出すことができない。幸せを胸に進むより、痛み苦しみの方が安心でき、信頼できる。強くなれる。何か嬉しいことがあったら、フェンスに頭を打ち付けてバランスを取る。痛い間はこの幸せがずっと自分のものでいてくれる気がする。痛みはお守り。傷つけられたら、それよりもっと強い呪いをかけるため、前の傷がわからなくなるくらい上からさらに傷つける。それは刻印で、その傷ごと自分を抱きしめる。

……いやはや。延々とこんな感じの述懐をシャワーのように浴びるうち、リストカットに赴く人の心境が少しだけわかったような気が。だが、彼女は理解なんか求めちゃいない。むしろ逆で、理解も共感も寄り添いも何もかも不要。下手に手を差し伸べてくる相手には、牙を剥き即刻退場を言い渡す。

「理解」されることへの拒絶

 好意を寄せてきた人気男性アーティストと親しく話すようになり、自分の人生における最優先事項が「復讐」だと打ち明けたら「復讐なんてしても意味ないよ」「そんな生き方、悲しいよ」と言われて、彼女は苛烈な反応を見せる。復讐以外にも有意義なことがあるのに気づかされ、新しい価値観を見出して幸せになっていく…といった展開が期待されるところだが。あのは「こういうことを僕に言ってくる人がいるから、僕は復讐しなきゃいけないんだ」と自戒。もっともっと復讐に注力することを自分に誓うのである。

 地雷となったのは「復讐なんて」という言い回しであった。「なんて」で片付けられ、自分の全てを否定された気がしたそうだ。いやいや、それ見下してるのではなく「もっと有意義で楽しいことに目を向けようよ」という「比較」の意味合いで「なんて」という表現を使ったのだと思うのだが。しかし彼女には伝わらない。

「相手の気持ちを想像すらできない想像力に欠けた人間には僕のことなんてわかんないしわかってほしくもないし、お前のこともわかりたくないわ」となり、「そこから全員と関わることをやめた」。「改めて復讐人生をスタートさせた」「絶対こいつらより有名になってやる」「『復讐なんてしても意味ないよ』なんて絶対言わせない僕になって復讐に意味があるとこの身をもって証明する」。……咆哮とエスカレートが止まらない。

 たぶん件の男性アーティストは、よかれと思って伝えた一言がここまで相手の怨嗟の源泉になったことには気づいてないだろう。気付いたところでどうしようもない。彼女の特殊な脳内の回路は、もうどんな助言を入力しても「復讐」しか出てこないしくみになっている。いじめというものは、こんなにも人ひとりの人生を破壊するものなのだなぁと、ただ切なくなる。

多様性を受け入れる側の限界

「普通」「自分らしさ」「自由」「幸せ」「無知」「居場所」「正解」「本当」「絶対」……ありとあらゆる概念を訝しみ、自分なりに構築し直して紡ぐ彼女の言葉の数々は、同じ生きづらさを抱える同世代の若者たちに刺さるだろう。しかし。自分の都合で人に一方的に不快な思いをさせた後、真摯に向き合い謝らず、「向こうも悪い」という意味合いの呟きをした後で勝手に幕引き、という騒動の際の一連の言動は、彼女が復讐を誓ってきた「いじめる側」のそれと同じなのではないだろうか。世間のほとんどはそんな彼女に対して「ふーん」の一瞥で終わりだが。彼女を信奉してきたファンには、一体どう映っているのだろうか。

 今いるファンがやがて年を重ね、社会に出て、あののことを考えない日々を歩み出した後、残る彼女を想像すると切ない。30歳、40歳、50歳になったあのちゃん……。うわぁ。何かに掴まりながらじゃないと想像できないほど怖い。

 ま、当の本人はきっと、今も心地よく痛みと遊んでいるに違いない。「ほらね、やっぱりうまくいかなかった」という安堵と、「ここからまた這い上がってやる!」という復讐心とを煮込みながら。成功しようが失敗しようが、彼女の心が滾らない日は、これからも永遠に訪れることはないのだろう。

 ほっとくと怒るし、関わるともっと怒る。多様性は認められるべきだが、受け入れるキャパシティにも限度がある、という率直な感覚もまた、多様性のひとつとして認めてもらえないもんだろうか……。かつてないほど多様性について考えた一件、そして一冊であった。

 かけがえのない我らが凡庸に、感謝。

今井舞(いまい・まい)
東京生まれ。小学校から大学まで、バカばっかりのエスカレーター式女子校にて、観察眼を鍛えながら過ごす。大学在学中にライター業を開始。美容を中心に、ファッション、インタビューなど、何でも屋として活動中に、タレント格付け本『女性タレントミシュラン』(情報センター出版局)を出版。裏バイトで始めたつもりのテレビ批評がいつの間にか生業となり、現在に至る。

デイリー新潮編集部