沖縄戦生存者の証言「永久に帰れない」──美しい故郷は基地の中 「死んで、ほったらかされて…」“強制労働”収容所の実態『every.特集』
凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられた沖縄で、アメリカ軍は生き残った民間人に向けた収容所をつくりました。そこからは、強制労働に駆り出された人もいたそうです。生存者や専門家に取材し、収容所の実態や、基地が今も残り続けている背景を探りました。
■生き残った民間人の行き先は…

1945年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸。“鉄の暴風”とも言われた絶え間ない艦砲射撃や、民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われ、県民の4人に1人が犠牲となりました。
生き残った民間人は約30万人。彼らを待ち受けていたのは、アメリカ軍が設置した民間人収容所でした。
沖縄戦に詳しい沖縄国際大学非常勤講師の川満彰さんに、民間人収容所のあった場所を案内してもらいました。
■食料配給所や孤児院、役所も

川満さん
「このあたりが田井等(たいら)収容地区で、最も栄えていた所。いくつもの施設があった場所ですね」
沖縄県北部の名護市につくられた、田井等収容所。民間人収容所の中では最大規模で、多いときには8万人以上が収容されていました。
川満さん
「最初に(投降して)山から下りた人たちが連れてこられるのは、ここ。ここに来て登録される。ここからどこに行けって指示をもらい、食料何人分ってもらって」
収容される人たちは面談され、認識票をつけられ、家主がいなくなった家などに入れられたといいます。アメリカ軍は長期にわたり収容するため、収容所のなかに食料配給所や孤児院、役所なども設置しました。
■当時10歳「見るにも忍びなかった」

当時10歳だった池原盛憲(せいけん)さん(91)。山での避難中に祖父と弟を失い、アメリカ軍に投降。6月に田井等収容所に入りました。
池原さん
「米軍から配給もあるけど、それが絶対的に足りないから、川でフナを捕ったりエビを捕ったり。そんなことをして、なんとか食いつないだ」
「孤児もいました。みんなおなか大きくして痩せてね。見るも哀れだった。私も餓死寸前だけど孤児も両親を亡くして、見るにも忍びなかった。私と同じ年頃でしょう」
■12か所にまで増えた収容所

地上戦が進むにつれて民間人収容所の数は増えていき、12か所に設置されることになります。なかでも、県北部に収容される人数は大きく増加していくことに。そこには、アメリカ軍のある計画があったといいます。
沖縄の戦後史を研究している専門家に聞きました。
琉球大学島嶼地域科学研究所の鳥山淳教授
「米軍は島の南半分は軍事作戦のため、つまり飛行場等々を造る場所というふうに計画していて」
「(南部で捕まった人も)南部の収容所にとどまらず、順次北部の方に大規模に移送が行われていくことになって、その結果として北部の収容所の人数がどんどん増えていった」
■米軍「最後の攻撃の跳躍台に」

当時のアメリカ軍政府の報告書には、こんな記述があります。地上戦のさなかの5月のものです。
「沖縄の農村を強力な要塞(ようさい)に変容させ、日本本土に向けた陸・海・空による最後の攻撃の跳躍台にするため、住民の大規模な移動が必要」
アメリカ軍は本島の中南部にいた住民を北部に移動させ、そこに日本本土攻撃のための基地を整備していたのです。しかし基地を整備するための労働力が不足し、アメリカ軍は収容所の中に、ある施設をつくります。
川満さん
「(収容者のなかで)働けると決められた人たちは、家族と分けられてここに入れられる。コンパウンド、強制労働収容所ですよ」
そこは、「川上カンパン」と呼ばれた特別な収容所。労働力として、若い男性だけを家族と分けて隔離、アメリカ軍の作業を強いていたといいます。
■四隅に監視塔、機関銃も配備

そこは一体、どんな施設だったのでしょうか。当時この場所に収容されていた人と、那覇市の沖縄赤十字病院で会うことができました。
95歳の東江平之(あがりえ・なりゆき)さん。当時14歳でした。何も知らないまま、この川上カンパンに強制的に収容されてしまいます。
「僕は何も知らなかったんですけど、トラックに乗せられてそこに行ったら、そこが君の住むところだっていう感じで。(カンパンの周りに)囲いを造って。4つ小屋が、2メートルか3メートルの高さの」
東江さんの記憶を元につくられたイメージ図があります。二重に有刺鉄線で囲まれ、その四隅には監視塔が建てられ、機関銃が配備されていたといいます。大型テントが並べられ、幅5メートル、縦20メートルほどの中に30人以上が詰め込まれていたそうです。
■ある朝、衝撃的な場面を目撃

東江さん
「毎日午前8時くらいには、米軍が提供する2トン半トラックに乗って、米軍が必要としている作業現場に連れて行かれる」
東江さんは、複数の場所で飛行場の整備などをさせられたといいます。
そしてある朝、川上カンパンの中で衝撃的な場面を目にしました。「朝8時ごろに作業に行こうとしたら、逃げようとしたんでしょうね、撃たれて死んで、出入り口に、そこに死んでるのがほったらかされて」
■終戦を迎えても帰れない人たち

その後8月になり、日本は終戦を迎えます。ところが東江さんが解放されることはなく、カンパンでの生活は3か月後の11月まで続きました。
さらに、終戦の翌年になっても元の集落に帰ることのできない人たちもいました。実はアメリカ軍は、占領した沖縄の土地を終戦後も引き続き基地として利用しようと考えていたのです。
鳥山教授
「1945年8月に戦争が終わってそのすぐ後、1〜2か月の間くらいに陸軍・海軍それぞれが沖縄の基地の計画を作っているのが確認できる」
■本土決戦のための基地だったはずが…

1946年10月24日、アメリカ軍が作った地図があります。陸軍基地の建設計画である「恒久基地計画配置図」。そこには普天間や嘉手納に滑走路が書き込まれています。本土決戦のための基地だったはずが、終戦後もその基地を維持しようとしていることが分かります。
鳥山教授
「日本との戦争は終わったけれども戦後の東アジア・西太平洋地域の覇権を確保していくうえで、この基地が使えるんじゃないかという発想が米軍部の中から出てくる」
アメリカ軍は沖縄を、本土決戦のための拠点からアジア・太平洋地域の軍事拠点へ変えようと考えていたのです。
住民たちが収容所を出た時には、故郷は巨大な米軍基地に。戦争が終わり、元の集落に戻りたいと願う住民たちの思いは裏切られることになります。
■戦後も続いた基地建設で強制接収

池原さんが故郷の集落に戻れたのは1947年のこと。ようやく故郷で、家族との日々が始まります。ところがその5年後、予想だにしない事態に見舞われます。
池原さん
「ここに基地ができるということで、私たちは強制撤去だよね。いろいろ陳情したけど到底聞き入れられなかった」
アメリカ軍の通信基地建設のため、土地を強制接収されてしまいます。戦後も続いた基地建設。今も、故郷は基地の中にあります。
池原さん
「私としてはもう到底ここには帰れない、永久に。非常に美しい集落だったよ」
■戦後80年が過ぎても変わらないこと

あれから81年。沖縄戦から始まった基地の島は今も、変わらぬ問題を抱えています。
鳥山教授
「沖縄戦と基地問題は一体のもの。その沖縄戦と一体のものとして始まった基地問題が、80年過ぎても基本的な構造が全く変わらないまま課題が残されている」
東江さん
「自分が始めた戦争でもないし、自分が好きで戦争してるわけでもないのに、しかしその結果だけは逃げようにも逃げられない」

