「人生100年時代」という人類史上未曾有の「超長寿社会」に どう備えるべきか? 【橘玲の日々刻々】
アンドリュー・スコット、リンダ・グラットンの『LIFE SHIFT2(ライフシフト2) 100年時代の行動戦略』(東洋経済新報社)を正月休みに読んでみた。「人生100年時代」が現実のものになることを説いて日本でもベストセラーになった『LIFE SHIFT(ライフシフト)』の続編で、著者の一人グラットンは安倍元首相から「人生100年時代構想会議」のメンバーに任命された。
著者たちの主張は前作から一貫しており、それをひと言でまとめるなら、「人類史上未曾有の「超長寿社会」とテクノロジーの指数関数的進歩がもたらす激変に備えなければならない」になるだろう。
本作では、「技術的発明」は新たな可能性を生み出すが、それがひとびとに恩恵をもたらすには「社会的発明」が必要になることが論じられる。それにもかかわらず、いまは「技術的発明」だけが先行し、「社会的発明」が大きく出遅れていると著者たちは危惧している。
とはいえ私は、本書の提案に完全に納得しているわけではない。そのことも含めて感想を書いておきたい。
「生涯現役社会」と「生涯共働き」が現実に
日本は世界に先駆けて超高齢社会に突入したが、東アジアや欧米諸国もそれに続いている。日本では、2050年には80歳以上が人口に占める割合が18%(およそ5人に1人)になると予想されている。
日本だけでなく、いまや先進国で生まれた子どもは、100歳以上まで生きる確率が50%を超えるという。幸いなことに、平均寿命が上昇しても、健康に生きられる期間が人生全体に占める割合は少なくとも減っておらず、むしろ多くの国でその割合が大きくなっている。
イギリスでは2000年から2014年までの間に平均寿命が3.5年延び、このうちの2.8年を(自己申告によれば)健康に生きている。慢性疾患のないイギリスの65〜74歳は現在69%だが2035年には80%以上になり、75歳から84歳でも半分以上(58%)が慢性疾患なしで生きられるとの予測がある。「虚弱な状態で生きる年数が増えているわけではなく、中年期の後半と老年期の前半が長くなった」のだ。
高齢者の割合が増えているのは、寿命が延びているのと同時に、少子化が進んでいるからだ。日本の人口は2004年に1億2800万人だったが、それが2050年に1億900万人、2100年には8450万人と減っていく。ほかの条件がすべて同じなら、国の人口が1%減るごとにGDPの成長率も1%下落する。日本の経済は、この効果だけで、向こう半世紀にわたりGDP成長率が毎年0.6%のペースで落ち込んでいくことになる。
人口動態はきわめて安定しているので、これらはただの予想ではなく、「確実にやってくる未来」だ。そのような社会で間違いなく起きることが2つある。
1つは世代間対立の激化で、「老後資金の確保、医療の提供、世代の公平 社会的発明が切実に必要とされている」と著者たちはいう。
本書には書かれていないが、日本では2040年に国民の3人に1人が年金受給年齢の65歳を超え、内閣府の試算では年金や医療・介護保険などの社会保障費の総計が200兆円に達する。20代から65歳までの現役世代を5000万人とするならば、単純計算で1人年400万円の負担だ。
こんな制度が持続可能だとは誰も思わないだろう。その結果、コロナ禍で政府が現金を給付しても、貧困層以外のほとんどが貯蓄に回し、国の借金と個人(家計)の金融資産が増えるだけになった。
もう1つは、「いまの20代は80代まで働かなくてはならない可能性がある」こと。
現役時代に所得の10%を貯蓄に回すと仮定すると、引退後に最終所得の半分程度の生活資金を確保したいなら、70代後半もしくは80代前半まで働く必要がある。寿命が10年延びるごとに、引退後の生活費を確保するために7年長く働かなくてはならなくなるとの試算もある。
数年前に「老後2000万円問題」が炎上したが、老後を安心して暮らすだけの金融資産がないのだとしたら、誰か(国)が足りない分を恵んでくれるわけもないのだから、自ら働いて貯蓄する以外に方途はない。
私はずっと「日本は生涯現役社会になる」といいつづけてきたが、以前は中高年のサラリーマンから、「懲役10年でようやく出所できると思っていたのに、無期懲役だというのか」とのお叱りをずいぶん受けた。あらゆる国際比較で、日本のサラリーマンは世界でもっとも仕事が嫌いで会社を憎んでいることが明らかになっており、だとしたらこうした反応も仕方がないとあきらめていたのだが、安倍政権の「人生100年時代構想会議」以降、生涯現役への批判はほぼなくなった。
「超高齢社会での最強の人生設計は“生涯共働き”以外にない」の主張も、最近は「空理空論」と怒られることはなくなった。「専業主婦は2億円損をする」と、当たり前のことをいっただけで炎上したことを思えば隔世の感がある。
日本人に現実を直視させたという意味で、著者たちの貢献は間違いなく大きい。
「マルチステージ」よりも専門性のある「シングルステージ」へ
人類学では、過去の確実性が失われたときに足場を失ったように感じることを「リミナリティ」という。わたしたちはいま、人生の「錨」が失われたたことで、いわば漂流状態に置かれている。
先進国の標準的な人生は、フルタイムで教育を受け、フルタイムで仕事に携わり、フルタイムで引退生活を送るという「3ステージ」だった。だが定年後の年数が大幅に延びたことで、この人生設計は破綻してしまった。それに代わる新たなビジョンがないことがひとびとを不安にしている。
こうして著者たちは、「3ステージからマルチステージへ」の転換を説く。人生100年時代には、わたしたちは何度も学び直し、新たな仕事に就くようになるのだという。
このことを本書では、何人かの架空の登場人物の人生の選択として描いている。
インはオーストラリアのシドニーで暮らす55歳の会計士で、パートナーとは離婚しひとり暮らしをしている。携わっていた業務が自動化されたとの理由で最近、解雇を言い渡され、次の職を決めなくてはならない。会計士の仕事を続けるにはもっと高度なスキルを身につけなくてはならず、そうでなければ、まったく異なる仕事に就くスキルを学ばなければならないと考えている。
トムはアメリカのテキサス州ダラスに住む40歳のトラック運転手で、妻と、すでに成人した息子と一緒に暮らしている。現在の仕事や給与に不満はないが、今後、自動運転のテクノロジーが進歩すると大きな影響を受けるのではないかと不安に感じている。選択肢のひとつは、物流の現場を熟知していることを活かして、自動運転車を指揮する管理業務に就くことだ。これなら、要求されるスキルは高くなるものの、給与もかなり上がるはずだ。
これが、現代社会における先進国の労働者の典型的なケースだろう。それ以外の登場人物も含め、いずれも「3ステージ」の人生設計では自分の将来を描くことができなくなっている。
だがこれを「マルチステージ」といっていいのだろうか。私は、すくなくとも知的職業においては、人的資本をひとつの専門性に投入することが重要だと考えている。投資でいえば「タマゴをひとつのカゴに盛る」戦略で、いわば「シングルステージ」の人生設計だ。
55歳の会計士インが、リカレント教育(学び直し)によって、これまでとまったく別のことを始めたとしよう。それがライターや料理だとすると、いずれの分野にも、20代(あるいは10代)からそこで人生のすべてを賭けてきたライバル(プロフェッショナル)がいる。それを考えれば、「マルチステージ」の成果は、せいぜいWEB記事をギグワークで執筆するとか、パートタイムでレストランで働くくらいで、給与も生活水準も大幅に下がるのではないか。
だとすればインは、これまでの会計士の経験を活かして、より高度なスキルを身につけることでキャリアを更新するしかない。こうした事情はトムも同じで、物流業以外の仕事を一から学び直そうなどとは考えず、自分がよく知っている分野でなにができるかを考えている。
逆にいえば、55歳の会計士がライターを目指したり、40代のトラック運転手が料理教室に通うような「マルチステージ」になるのは、「シングルステージ」の戦略が破綻したからだ。
このことは、著者たちを見ても明らかだろう。スコットもグラットンも生涯現役を当然のことと考えているだろうが、これからの「ステージ」は、ベストセラーの延長上に新しい本を書いたり、人生100年時代の生き方について講演したり、各国政府やさまざまな企業・団体にアドバイスすることで、まったく異なる分野を勉強し直し、その専門家になろうなどとは思わないだろう。
専門性がますます重視されるようになった現代(高度化した知識社会)では、(ほとんど場合)30代で自分のキャリアを決めたら「シングルステージ」でやっていくしかない。あとは、それを生涯現役で続けられるか、行き詰るかのちがいがあるだけだ。
