【豊臣兄弟!】NHK大河ではとても描けない 信長が裏切り者の妻子たちに行った史上屈指の残忍な虐殺の中身
「荒木村重様、謀反」の衝撃
羽柴秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀、のちの秀長)が、反旗をひるがえした別所長治(下川恭平)が籠る三木城の攻略について話しているところに、使者が飛び込んできて伝えた。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)。
【画像】肩出し&透け感のある衣装をまとい…村重の“年下美人妻”を演じた女優
荒木村重(トータス松本)は、もともとは他家の家臣だったが、将軍足利義昭(尾上右近)が織田信長(小栗旬)に敵対したとき信長に味方し、以後、摂津(大阪府北西部、兵庫県南東部)の支配をまかされていた。
第22回ではその村重が信長に、安土城(滋賀県近江八幡市)へと呼び出された。村重の家臣に毛利氏への内通者がいると聞いた、と信長はいう。つまり謀反の疑いをかけられたのだ。村重は必死に否定し、土産に持参した饅頭に毒が入っていないことを、みずからすべて食べて証明し、いったんは疑いを晴らした。だが、居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に帰ってから、不安が一気に膨らむことになった。

ともに摂津国内の領主で村重の与力を務める高山右近(市川知宏)と中川清秀(すがおゆうじ)が、毛利の使者として安国寺恵瓊(立川談春)を連れてきたのだ。村重は、毛利への内通者が右近と清秀だったと悟り、恵瓊を追い返そうとするが、引き下がる前に恵瓊は次の言葉をささやいた。「織田信長という男は、一度疑いをかけた者をやすやすと許すようなお方であろうか」。
こうして村重の謀反に至ったのである。
また、この謀反は信長による戦国時代屈指、いや、おそらくは史上屈指の凄惨にして残忍な報復へとつながっていくのだが、それは追って詳述する。最初に、どうして村重が裏切ったのか、である。
妻子を残して逃亡した
その理由は明確なわけではない。ただ、村重が謀反を起こしたという報が信長にもたらされたのは天正6年(1578)10月21日で、その4日前の10月17日、村重は大坂本願寺の顕如と盟約を結んでいる。また、顕如は村重父子に宛てた起請文で、村重が本願寺に忠誠を誓ったことを評価し、摂津の統治等については、毛利氏の庇護下にいた足利義昭(相変わらず征夷大将軍の座にあった)に従うように書かれている(「京都大学所蔵文書」)。
そこから推察できるのは、本願寺、毛利氏、足利義昭による信長包囲網に参加する道を選んだ、ということだ。すでにこの年3月、この包囲網の要だった上杉謙信は没していたが、大坂湾の制海権は村上水軍を味方にした毛利氏が握っていて、本願寺は武器も兵糧も毛利からふんだんに供給されていた。本願寺と毛利のラインに従ったほうが勝算はある、と判断しても不思議ではない状況ではあった。
信長には村重の謀反が信じられず、「言い分があるなら申し出よ」と、最初はかなり寛大な対応をしたのだが、村重がふたたび信長に忠誠を誓うことはなかった。
ともかく村重は有岡城に立て籠もり、徹底抗戦した。信長の嫡男の信忠が1年近くにわたって攻めても、決着がつかなかった。ただ、有岡城に毛利氏からの援軍はなく、兵糧も不足し、次第に追い詰められていった。
そんな状況下で天正7年(1579)9月2日夜、村重は先述した残虐な仕打ちにつながる行動をとることになる。有岡城から突如、尼崎城(兵庫県尼崎市)に逃亡してしまったのである。
ただし、怖くなって逃亡したのではなさそうだ。織田勢に完全に囲まれている有岡城にいては毛利氏とつながりを得られないので、毛利方との連絡を維持するために尼崎城および花隈城(神戸市中央区)に撤退する必要があった、という可能性が高い。だが、いずれにせよ、有岡城には村重の妻子も家臣たちの妻子も残されたままになった。
美人妻「だし」を含む三十数人が引き回しのうえ斬首
しかも、その後がさらにまずかった。
信長は村重が尼崎城に逃亡したのち、尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残されている妻子らは助命する、という条件を出した。そこで重臣の荒木久左衛門ほか、有岡城にいた主だった部将たちは、妻子らを人質として残し、尼崎城にいる村重に、信長の条件を受け入れるように説得しに行った。
ところが、村重は信長が出した条件を受け入れない。本願寺が受け入れることを許さなかった、と書かれた史料もある。それを受けた久左衛門らは、人質の助命に尽くしていればまだよかったが、村重を説得できなかった久左衛門は、人質を捨てて自分だけ逃げてしまったのである。
ここで信長の怒りは頂点に達したらしい。信長は「伊丹城の人質を成敗するように、詳細に命令を出した」(太田牛一『信長公記』、中川太古訳)という。その「成敗」の内容が、この世のものとは思われないほど残忍だったのである。もちろん、『豊臣兄弟!』で描写することなど到底できない。
『信長公記』によれば、人質には幼子を抱える者も妊娠している者もいて、みな声を惜しまずに泣き悲しんで目も当てられず、それを見て涙を流さない人はいなかったという。人質のうち、最初に村重の身内の女性30人余りが京都に護送され、斬首された。もちろんそのなかには、『豊臣兄弟!』で山谷花純が演じている村重の24歳年下の美人妻、「だし」もいた。
「だし」は天性の美貌と貞淑さの持主だったと、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に書かれている。また、同書によれば、村重の近親者36人は死刑判決を記した板を立てた荷車に乗せられて市中を引き回され、はなはだしい恥辱を受けたのちに、全員が斬首されたという。
だが、これは信長の「成敗」のなかで一番穏やかなものだった。
五百数十人を4つの小屋に押し込めて……
続いて、人質のなかでも地位のある者の妻子が選びだされ、処刑された。みなそれなりの身分の者の妻女だから美しく着飾っていたが、それを猛々しい武士が受け取り、幼い子を連れていれば抱かせたまま柱に括りつけ、磔にした。それから次々と鉄砲を撃ち、さらには槍や薙刀で刺して、122人の妻女たちを皆殺しにしたという。その際、彼女たちが悲しんでいっせいに叫ぶ声が「天にも届くほど」だったと『信長公記』は記す。処刑を目撃した人は同情の涙を禁じ得ないだけでなく、20日も30日も、殺された女性たちの顔が浮かんで、消えなかったという。
しかし、有岡城の人質としては、これでもまだマシな死に方だったのだ。人質にはほかに中級武士の妻子や侍女、その下で働いていた男性(若党)ら五百十余人がいた。内訳は380人が女性で、残りが男性だったという。その人たちは、まとめて殺された。では、どんな手がとられたか。
平屋の小屋が4軒建てられ、五百十余人は4つに分けてそこに押し込められた。続いて乾燥した草や柴、木材が大量に集められて家の周りに積まれ、火が点けられたのだ。
『信長公記』によると、風が吹いて火が廻るにつれ、人質たちは魚のように躍り上がっては跳び上がり、悲鳴は煙とともに空に響いたという。「地獄の鬼の呵責もこれほどかと思われた」と書かれている。また、『日本史』によると、生きたまま殺される人たちの悲鳴や叫喚に、周囲は恐怖に打ち震えたという。
織田信長は自分を裏切った者、とりわけ卑怯な手を使った者に対しては、このように容赦がない人物だった。それにしても『信長公記』の筆者の太田牛一ならずとも、「地獄の責め苦もこれほどまでか」と思わずにはいられない。だが、この報復が荒木村重にとってよほど堪えたか、といえば、堪えたとは言い切れない。
というのも、村重は本能寺の変で信長が斃れた後も数年生き、堺(大阪府堺市)などで茶人としてそれなりに重用されたのだ。自分のせいで惨殺された数百人のことは、心の重荷にならなかったのだろうか。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
