無給、強盗被害、標高3000m超… 36歳元Jリーガー、過酷な南米で闘い手にしたものとは?
【元柏MF澤昌克のペルー“帰還”|後編】今夏ペルー2部ウニオン・ウアラルに加入、1部昇格を目指し奮闘
昨年、Jリーグの柏レイソルでプレーしていたMF澤昌克が、半年間の浪人期間を経て、南米のペルー2部ウニオン・ウアラルに8月に加入した。
デビュー戦で2得点を決めるなど、1部昇格請負人としてピッチに立つ澤。36歳になったベテランは、なぜキャリア3度目となるペルーに渡ったのか。そして今、どんな環境でプレーしているのか。前編に続き、その背中を追った。
アンデス山脈が国内の南北に連なっているペルーは、各チームの本拠地によって標高や気候が違うため、南米の中でも過酷なリーグと言われる。さらに1部なら飛行機の移動も多いが、2部はバス移動が多く、中にはバスで13時間、あるいは飛行機移動の後、バスで山道を6時間移動して敵地に向かうこともある。
標高2000メートル、3000メートル以上の高地での試合も頻繁にある。高地となれば酸素が薄く、攻撃で息を切らした後にボールを奪われ、相手にカウンターを食らえば、すぐに自陣には戻ってこられない。試合前日や試合直前の食事も、消化の良いものでなければ標高の影響で下痢をしてお腹を壊してしまうため、食事にも細心の注意を払わなければならない。
「遠征に行く時には、バスでいかに快適に過ごすかが大事になってきます。真っ直ぐの道を13時間行くよりも、カーブが続く山道を6時間うねうね行くほうが疲れるんです。山を越えないといけない場所も多いので、酔わないよう、疲労を溜めないようにして、いかに翌日の試合に臨めるコンディションを保つことができるかを考えています。過去には標高約4400メートルの場所で試合をしたこともありましたが、その時はさすがに高山病で頭が痛くなり、前夜全く眠れないまま試合に臨んだこともありました」
ペルーでは1部と2部で戦術が違う。それはピッチコンディションが影響しているという。1部のチームはパスをつなぎ、時に1対1で個人技を仕掛けてくる南米らしいサッカーをするチームが多いが、2部は中盤を省略し、ロングボールを蹴ってくるチームが多い。
「1部だとグラウンドの状態がいいのでパスもつながるんですが、2部の試合はボコボコのグラウンドで試合をすることが多いんです。パスをつなごうとしても、芝が深いところだとボールの勢いが止まってしまうし、デコボコのグラウンドだとボールがイレギュラーしてしまい、思ったところに行ってくれない。そうなると、後ろでしっかり守りを固め、ロングボールを前に蹴ったりしてカウンターで攻めるほうが確率が高い。グラウンドが悪いため、どうしてもそういうサッカーになってしまうんです」
本田圭佑の兄らと学んだスペイン語、“無給”から這い上がる
環境に即したサッカー。日本とは比べものにならないほど劣悪なピッチに時に足を取られることもあるが、日頃から体のケアも入念に行うなど、高いプロ意識は経験の少ない若手のお手本にもなっている。
チームメートとは流暢なスペイン語でコミュニケーションを取る。スペイン語はリーベル・プレートの下部組織時代に学んだ。現在、本田圭佑の代理人を務める本田の兄、弘幸氏も同じリーベルの下部組織に所属しており、彼とも同じクラスで机を並べていたという。
「当時、チームには20人くらいの日本人がいたんですが、ちゃんと授業に出ていたのは僕と本田くんともう1人の3人だけでした。最初の頃は外で友だちと会う時も、辞書を持っていかないとコミュニケーションがとれないようなレベルでしたが、リーベルでは高校生よりも上の年代の選手は練習後、学校に行く代わりにチームの事務所などで仕事の手伝いをするんです。その時に現地の人たちと会話をする機会が多く、電話番もしていたので、それで語学力が磨かれました」
若手時代から通訳を付けたことは一度もなく、まさに現場での叩き上げ。地元メディアの取材対応にもスペイン語で積極的に応じ、今ではジョークも交えるほどだ。ペルーには日本からの移民の子孫である日系人が多く住んでいるが、そんな環境の中でもスペイン語が堪能な澤は有名な存在だ。日系ペルー人のミュージシャンとテレビ番組で共演したり、番組で寿司を握ったりと、言葉が話せることで、その活動の範囲はグラウンド外にも広がっている。
ペルーでは、無給から這い上がってきた。05年のスポルティング・クリスタル時代は基本給がなく、試合に出場し、勝った時にもらえる勝利給のみの契約。06年のコロネル・ボロネーシでも月給約2万円からのスタートだった。
「他の選手と市場とかに出かけても、僕があまりにも何も買わずに節約していたら『お前はフルーツジュースすら買わない。なんでそんなにタカーニョ(スペイン語でケチの意味)なんだ?』って言われてしまったこともありました。ある時チーム内で、みんな給料はいくらだという話になって、僕が一番安かった。それで主力のベテラン選手がオーナーのところに僕を連れていって、『なんでチームで一番得点を決めている選手が一番安い給料なんだ? そんなのおかしいだろ』と言ってくれて、上げてもらえたんです」
実績のなかった当時は、結果を残してより良いクラブへと移籍することが目標だった。そんながむしゃらな姿勢が実を結び、ペルー国内のトップクラブまで駆け上がり、2008年に日本の柏へ移籍した。
自宅前で強盗に遭っても…ペルーへの愛着は失われず 「40歳まではプレーしたい」
2度目のペルーでの選手生活は文字どおり、主力の“助っ人”としてプレーする日々だった。14年から17年まで4年間、かつてプレーしたデポルティボ・ムニシパルに所属。07年に10得点を決め、リーグの最優秀外国人選手賞に輝いていた澤は古巣に復帰した際、サポーターからも「よく戻ってきてくれた」と温かく迎えられた。
そして1年でチームを2部から1部に昇格させると、その後も3年間プレー。リマは治安が悪く、自宅前で強盗に拳銃を突き付けられ、娘のランドセルや財布を盗まれたこともあったが、それでも帰国しようと思ったことはなく「何年もプレーして、ここで最後までやって引退したいと思えるくらい愛着のあるチームでした」と振り返る。17年シーズンを終え、再び柏に戻る際には、空港まで見送りに来たサポーターたちから「いつでも戻ってこい!」と、拍手で送り出されたのだという。
そして今年、3度目のペルー。ベテランの域に差しかかった澤は、ウアラルへの入団時にこう話した。
「先のことは分からないが、体が動くなら、40歳まではプレーしたい。汗をかいて必死にプレーしたい」
その一方で、グラウンドを離れればペルー人の妻を持ち、2人の子供の良き父親でもある。義父からも「マサはカセーロ(家庭人)だからな。孫たちの面倒も見てくれるし、本当にいい父親だよ」と言われている。サッカー教室に通う息子が無邪気にプレーする姿を見て、「この年まで好きなサッカーだけをしていてお金がもらえる訳ですからね。本当にありがたいことですよね」と目を細める。
今シーズンも残り1試合。すでに優勝の可能性はなく、勝てばプレーオフ進出に望みをつなぐことができ、1部昇格のためにはさらにそのプレーオフを勝ち上がらなければならない。目標達成のためにはまだ長い道のりとなるが、澤は「若い選手たちに、1部昇格の喜びを味わわせてあげたい。これからプレッシャーのかかる試合が増えてくるが、経験の少ない選手たちが多いので、自分がムニシパルで1部に昇格した時の話をしたりして、自信を持ってプレーできるよう、持っている本来の力を発揮できるようにしてあげたい」と、先を見据える。プロ15年目。地球の裏側で現役を続けるベテランは、慣れ親しんだ異国の地で歓喜の雄叫びを上げる日を夢見て、ゴールを目指し続ける。(福岡吉央 / Yoshiteru Fukuoka)
