ソ連軍の「日本人狩り」→モンゴルに抑留…満州にいた667人が送り込まれた死亡率32.1%"地獄の収容所"の実態
※本稿は、井手裕彦『モンゴル抑留』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■民間人の死亡者が軍人の倍近く
死没者一覧表によって、シベリア・モンゴル抑留の中でも最も悲惨だった抑留先の一つだと断定しても過言ではないのが、スフバートルである。
まず死亡者の所属だ。死亡者145人の内訳は、民間人が80人で55.2%を占める。軍人が42人、残り23人は「原所属部隊」が空欄で所属先がわからない。まさか民間人の死亡者が軍人の倍近くにのぼっているとは……。あり得ない事態だった。
民間人死亡者80人のうち最も多かったのは華北交通社員の40人。満鉄社員の31人が続く。華北交通社員は山海関で、満鉄社員は綏中で、ソ連軍がモンゴルに渡す捕虜の人数の穴埋めのために無差別に行った「日本人狩り」によって拉致されてきた人たちである。
死亡者の最年少は19歳の満鉄社員の千葉敏雄。最高齢はいずれも50歳の華北交通社員の長沼重輝、満鉄社員の川村文二、柴田良五郎。最年少も最高齢も両社の社員が占めていた。
後に私は、旧厚生省が作成した収容所の概要資料を入手した。陸軍大尉、町野吾郎が帰還してきた函館引揚援護局で行った報告をもとに作成されたものだ。町野は、スフバートル収容所の大隊長をウランバートル中央監獄に投獄された宮田から引き継いだ。
資料によると、収容所に入所した日本人抑留者は計667人で、うち山海関民団が200人、綏中・承徳民団が145人。半数以上が民間人という異例の収容所だったのである。
■死亡率30%の実態は
もう一つ、私の目を引いたのは、死の理由である。死因の中で最も多かったのは、31.7%、46人を数えた回帰熱だった。日本ではなじみがない病気である。私もモンゴル抑留を調べるまでこの病名を聞いたことがなかったが、肺結核の37人や栄養失調症の21人を上回り、回帰熱がもたらす黄疸が死因とされたものも13人いた。
回帰熱は虱(しらみ)やマダニにかまれることで感染する。アフリカや中東、中南米などで患者の発生が報告されているが、日本国内では2011年以降に北海道でマダニによって感染した患者が2人確認された以外はここ数十年、発生はない。
初期の段階で適切な抗生物質を投与すれば、数日で劇的な症状の改善が見込める病気だと、今の日本では位置づけられている。
発熱期と無熱期を数回繰り返すのが特徴で、発熱期は頭痛、関節痛、咳を伴う発熱、悪寒がみられる。髄膜炎、結膜炎、肝臓や脾臓の腫大、黄疸が現れることもある。
抗菌薬の投与による治療が有効とされるが、国立感染症研究所のウェブサイトなどによると、治療を行わない場合の致死率は病原体の種類や健康状態によっては30%にもなるとされている。
■捕虜の間で伝染病が広がった理由
予防は虱やダニに接触しないことが一番で、収容所の不衛生な環境の中で虱が増えたのが蔓延の原因だった。私はてっきりモンゴルの風土病かと思っていたが、現地の人に聞くとあまり聞かない病気だという。
ただ抑留とは関係ないものの、かつて監獄のモンゴル人の受刑者の間で広がったことがあるといい、「不潔病」だったことは間違いない。

スフバートル収容所の不潔な環境については、モンゴル厚生省国家衛生監査部指導員が行った以下の調査報告が国立中央公文書館に残っている。
スフバートル輸出基地(モンゴル当局は収容所をこう呼んだ)の捕虜住宅は狭く、非常に汚い。ストーブも修理せず、暖房はなく、日当たりも悪い。洗面所もなく、トイレは修理も新設もされず、汚水を捨てる穴もない。
食堂がないので、捕虜はベッドで食事し、調理場は非常に狭く、暗く、汚い。医療の場も隔離室も洗濯場もない。捕虜は勝手に自分の服を洗い、ベッドの上に吊しており、下着もない。
スフバートル市の医師や厚生省の責任者らが何度も要請したが、基地の責任者は改善せず、捕虜は最低の生活をしている。これが捕虜の間で伝染病が広がった一因である。
モンゴル当局も認めるほど、劣悪な収容所だったのである。
■誰も彼も汚れ放題、ほこりだらけ
この収容所を抑留者自身はどう感じていたのか。華北交通列車段の一員だった米岡隆吉は帰国後、「華交互助会」に寄せた回顧録で「地獄のスフバートル」と評している。
課せられた労働は、工場に集められた放牧のラクダと羊の毛のほこりを落とし、毛の質によって階級別に選別し、ソ連への輸出用に100キロの袋に梱包することだ。20人のチームで1日に32袋つくることがノルマとされた。
そのほか牛馬や羊の皮の塩漬けや乾燥など、米岡は「いずれもこのうえない不潔な仕事であった」としている。動物の毛にはさまざまな菌が付着。その菌から病気になった者もいる。にもかかわらず、手足を洗う水さえない。誰も彼も汚れ放題、ほこりだらけだった。
食料としてあてがわれたわずかな米と小豆、コーリャンを主食に、ジャガイモとキャベツにごく少々の肉でスープをつくり、命をつなぐ。コーリャンは精白していないのでそのまま排泄される。腹の足しにならず、口に入るものなら草でも虫でも食べた。
回帰熱について、米岡はこう記している。
「虱が大量に発生して、毎夜、暗い灯りのもとで何百匹もの虱を殺した。力が弱った者は虱をとる元気もなく、一晩中うなり続け、朝になると静かになり、死んでいった」
高熱が続き、脳の機能に影響が及ぶ人も出る。列車段の助役だった猿渡新はある日突然、荷物をリュックに詰め、「帰国することになりました」と挨拶して外に出ようとする。
皆が引き留めて寝かせたが、翌日亡くなった。列車段では同じく助役の永田鐵、社員の木谷秀治、久米俊義も回帰熱で命を落としている。
■「下痢が止まらず、骨と皮だけに」
米岡自身も回帰熱にかかり、スフバートル病院に入院した。栄養失調のためか、朝起きると片方の目が見えなくなり、心配したが、数日後に治ったのでほっとしたという。
どのくらい知人が死んだのかわからず、死者に対する人間らしい感情が薄れていく。その中で米岡は入院中、隣のベッドにいた歩兵第240連隊の花岡郁郎のことは覚えている。
花岡は結婚1週間で召集され、口には出さなかったが、新妻を思っている様子がうかがえた。
「下痢が止まらず、骨と皮だけになって死んでいった」
スフバートル病院の死没者一覧表によると、花岡は29歳、死因は発疹チフスだった。

凍土になった墓地の墓穴掘りは、弱った抑留者には酷だった。1日中掘っても飯盒一杯分の土も掘れない。古タイヤを何本も持って行き、燃やして土を柔らかくして掘り進めた。米岡も夜間の墓穴掘り作業の指名を受けた。
難作業を逃れるため、名も知らない抑留仲間にパン一切れで代わってもらう。この人は翌日から寝込み、数日後には亡くなってしまった。
「何と言ったらいいのか」
米岡は言葉を失っている。
作業大隊の中で3分の1は死に、病人で動けずの作業休になった者を除くと、正規の作業ができる者は50人ほどになった。米岡が「地獄」と評したのも不思議ではない。
■モンゴルの対応が遅すぎた
ところで、死没者一覧表に記された145人だけでは作業大隊の30%にはならない。墓地区画図をみると145人以外に連番の印を変えて氏名を記していた死亡者があった。
病院の開設前にスフバートル収容所内にいたまま亡くなっていた抑留者で、51人いた。私が遺族に記録を届けた独立歩兵第24大隊伍長の藤本至や第11軍野戦貨物廠伍長の山本小太郎がこの中にいる。
死亡者は抑留者が収容所に入って1か月後の1945年11月16日から出ている。それから病院の開設まで2か月かかったのは、モンゴルの対応が遅すぎたと言わざるを得ない。
さらに墓地区画図には死没者一覧表作成後、帰還までに病院で亡くなった2人の死亡者の氏名も書き込まれていた。民間人(所属不明)の柳梅男と第5練習飛行隊の高橋行夫である。
ただし高橋はウランバートルから帰還途中に亡くなった死亡者なので、差し引かなければならない。柳のみがスフバートルの作業大隊の所属者だったと考えられる。
死没者一覧表の145人に病院開設前に亡くなった51人と柳を足し合わせれば197人になるが、これだけにとどまらない。スフバートル病院で収容しきれなくなった患者をアムラルト病院などウランバートルの医療施設へ運んでいたからだった。
私は2025年6月、スフバートルまで足を運び、現地に残っていた病院跡の建物を確認した。ウランバートルへ向かう道路沿いからコンクリート塀でさえぎられた敷地にあり、外壁が一部、崩れている。案内してくれたモンゴル赤十字社の地元支部の人によると、だいぶ前から使われていないという。
■手狭な病院から見える収容の実態
平屋で面積は50〜60平方メートルほど、日本のクリニックくらいの規模だ。アムラルト病院が一部3階建てで、三つの診察室や手術室と計36の病室を備え、地方の総合病院並みだったのと比べると手狭すぎる。
当時はスフバートル病院の隣に伝染病専用棟があったというが、それでも増加する患者に対応できなかったに違いない。
というわけで、私はスフバートル収容所からウランバートルへ送られた抑留者についても追跡することにした。手にとったのが、アムラルト病院の薬剤助手だった加倉井文子が帰国後、刊行した『男装の捕虜』の巻末に記した「還らぬ人六百三十五人の死亡調書」である。
終戦時、26歳だった文子は満洲国協和会熱河省喀喇沁左旗本部事務長だった夫の寛とともにソ連軍に抑留された。夫と別れられず、男装して日本人抑留者の梯団に加わる。モンゴルに入ってからはアムラルト病院で寛が事務長、文子が薬剤助手として働くことになる。

ちなみに喀喇沁左旗の「旗」とは、清朝が蒙古族を統治するためにつくった行政制度だ。基礎的な自治体に当たり、牧地ごとに指定された。
いくつかの「旗」をまとめて上部行政機関の「盟」が置かれる。満洲国でも、内モンゴルの徳王政権でも清朝時代のこの「盟旗制度」が踏襲されていた。
■入所者667人の死亡率は32.1%
帰還の際、寛は病院の許可を得て死亡者に関する記録を行李に詰めて持ち出したが、ソ連国境で没収される。文子が身につけていた死亡者台帳だけ、日本に持ち帰ることができた。
死亡者台帳の記載内容をまとめた「還らぬ人六百三十五人の死亡調書」は生年、最終所属、死因、入院日、死亡日だけでなく、入院前の収容所が記されている。貴重な記録だ。
私は、635人から入院前の収容所がスフバートル収容所だった死亡者を拾い出してみた。すると16人を見つけることができた。
それに加えて、国立中央公文書館から持ち帰った死亡診断書や死亡調書などの中にもスフバートル収容所から運ばれてきた抑留者がいないか、くまなく調べた。
ウランバートル東部のアムグロン収容所医務室の死亡調書の中に1人、元の収容所を「スフバートル収容所(宮田部隊)」と記された死亡者がいるのを見つけた。陸軍准尉の田中二郎(26歳)である。
ほかにも外蒙古死没者名簿の摘要欄に「スフバートル」と所属収容所が書かれるなどしていた死亡者が13人いたが、これは不確かな情報のため算入していない。
田中二郎までを足すと死亡者は214人になる。入所者667人からみた死亡率は32.1%と驚くべき高率だ。では残りの67.9%、453人は無事に日本に帰国できたのだろうか。そうではなかった可能性がある。
■「運が悪かった」だけでは
米岡の回顧録によると、1946年夏が過ぎ、戦争でたまっていたラクダや羊の毛の選別作業に片がつくと、抑留者たちに次々と転属命令が出される。国営農場やウランバートル市内の建築現場などだが、「暁に祈る」事件の羊毛工場収容所の「吉村隊」へ行かされた者もいた。

こうした転属先へ移された後、スフバートル出身者がどうなったのか、米岡は、そこまでは書いていない。
ただ『華北交通株式会社社史』の「山海関勤務従事員の外蒙抑留」の項目には、スフバートルから転属後の華北交通社員について、次のように記されている。
一部の者はかの悪名高い「暁に祈る」事件の吉村隊に配属された。そのため飢餓と病気で倒れる者が続出し、山海関の抑留者のうち、ナホトカを経由し昭和22年11月15日函館に上陸したのは終戦時の約半数に過ぎなかったといわれる。
地獄の収容所に入った人は次の転属先も地獄の収容所だった……。そのことを「運が悪かった」のひと言だけでは片づけられない。
----------
井手 裕彦(いで・ひろひこ)
ジャーナリスト
1955年、福岡県生まれ。京都大学文学部卒業後、78年、読売新聞大阪本社入社。社会部記者、論説委員、編集局次長など経て2020年退社。在職中からシベリア抑留の実態解明に傾注し、ロシア、モンゴルで新たな資料を発掘。日本政府に情報提供するとともに遺族に記録を無償で届けている。在職中は公益通報者保護法の検討会委員など政府審議会委員なども歴任した。退社後は北海道に在住。著書『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』(集広舎)は135万字という大著で23年度のシベリア抑留・記録文化賞を受賞。
----------
(ジャーナリスト 井手 裕彦)
