月収10万円から"訪問マッサージ"で76億円企業…全国で「最期の2年」を激変させる社長が"忘れられない別れ"
■創業はたった一人、自宅の一室で
万が一、寝たきりになったとしたら、本人も家族もそこに、先に進める“何か”を見出せるものだろうか。半信半疑で、品川区五反田のビルの一角にある「フレアス」本社を訪ねた。47都道府県で「訪問鍼灸マッサージ」を展開、寝たきりの高齢者に寄り添う“訪問マッサージ”を事業の柱に据えている。
迎えてくれた社長の澤登拓さんは57歳、スラリとした長身で、立ち姿はバレーボール選手のよう。甘いマスクに穏やかな笑顔を称え、あたたかな包容力を感じさせる。
創業は2000年、澤登さんが1人で、山梨県南巨摩郡の自宅の一室を拠点に、訪問マッサージ事業をスタートしたのが全ての始まりだった。

■不遇だった10代
澤登さんがここに至る“種”は、不遇だった10代に撒かれていたのかもしれない。
小学校高学年で十二指腸潰瘍になり、胃を部分切除したことで、虚弱で体調不良に苦しむことになる。“荒れる”中学ではひ弱な少年はいじめの対象となり、高校では周囲に心を閉ざし、不登校に。そんな教え子を見かねた教員の働きかけで高校を卒業、大学進学も叶い、中国語を専攻した。
転機は19歳、大学のカリキュラムで中国での生活を経験したことによる。初めて生きることが楽しいと思え、大学を休学して語学留学に踏み切った。せっかく北京にいるのだから漢方薬に頼ってみようと治療を受けたところ、体調が驚くほど好転し、気功の効果も相まって念願の健康をようやく手にしたのだ。ここでようやく、不遇を嘆きマイナス思考だった青年は、前向きに生きる喜びを知ったのだ。澤登さんは、はっきりと思った。
「日本にはきっと、自分のように困った人がいっぱいいる。僕がこうして中国で出会えたものを、日本に持って帰ろう」
大学で漢方を学び、22歳で帰国した。日本で活動するには日本の国家資格が必要だったため、東洋医学に近い鍼灸マッサージを学ぼうと専門学校に入学、あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師の国家資格を取得した。
卒業後に就職したのは、町の接骨院。朝から晩まで手が腫れるほどマッサージをしても、給料は月に10万円。「見て覚えろ」という徒弟制度の下、技術指導もなく、勤務初日に鍼を打つよう命じられたが、緊張のあまり、鍼を抜くのを忘れてしまうようなありさまだった。
■「半年ぶりにぐっすり眠れました」
希望が見出せない仕事に行き詰まっていた澤登さんは偶然、「訪問マッサージ」という仕事の存在を知る。医療保険を使って、高齢者に在宅でマッサージをするものだ。澤登さんは新しい分野の仕事に強く惹きつけられ、開業を決意。10万円の給与だったため自己資金がなく、自宅の応接間を事務所にしてスタート。2000年、31歳のことだった。

2000年は幸運にも介護保険制度がスタートした年で、大きな追い風となった。ケアマネジャーという職種ができ、おかげで寝たきりの高齢者とのパイプができたのだ。対象は自身で病院に行くことが難しく、麻痺などで寝たきりか、それに準ずる人たちだ。
こうして澤登さんは、紹介された高齢者に在宅でマッサージを行うこととなった。効果は、目に見えて表れた。脳梗塞で寝たきりになり、痛みのあまり眠れなかった高齢男性が、マッサージで生活が一変した。本人にとって、どれほどの喜びだったか。
「あなたのマッサージで、半年ぶりにぐっすり眠れました。ありがとうございます」
うれしかった。自分の手で、寝たきりの高齢者に喜びを届けることができたのだ。
かつて、10代だった自分の苦しみには何一つ“光”が届かなかった。目の前の寝たきりのおじいさんも、同じだった。先の見えない暗闇で苦しんでいる存在に“光”を当て、少しでも楽になれる“希望”を届ける。これこそ、中国で元気になれた自分が、「日本に持って帰ろう」と決意した、一つの形だった。
■忘れられない別れ
澤登さんには今でも忘れられない、利用者との思い出がある。寝たきりの90代男性を、80代の妻が“老老介護”していた家だった。

妻は夜中でも床ずれにならないよう、3時間おきに夫に寝返りを打たせないといけない。疲れ果てて起きられないと、夫が「何で、起きてこないんだ」と怒鳴ってくる。「私だって、辛いのよ」と毎晩、喧嘩になる。
これが、介護という現実なのか。あまりにも切なく、何かできないかと思いあぐねた澤登さんは、男性にリハビリを提案した。「リハビリなんかいい。俺は死ぬんだ」の一点張りの男性に、まずはマッサージをほどこした。何度か通ううちに次第に体の痛みが和らいでいった。痛みが取れることで心を開き、機能訓練を3カ月行ったところ、寝返りが可能になった。
「奥さんに、『ありがとう』ってすごく喜ばれて。もう、喧嘩しなくて済むって」
男性はさらに頑張り、座れるまでなった。座れれば、ポータブルトイレが自分で使える。
「何カ月ぶりに、おむつじゃなくて自分で排泄したって、男性がわーっと涙を流されて。ああ、これはいい仕事だって思いました」
■「治さない医療」がある
しかし、男性は肺炎であっという間に亡くなった。力になれなかったと打ちひしがれる澤登さんに、葬儀の場で妻は言った。
「あなたが来てくれた数カ月、おじいさんは昔みたいに穏やかな人間に戻りました。最後に、いい時間をありがとうございました」
その時、澤登さんは「治さない医療」があることに気づいた。
「麻痺は治せなかったけど、最後の時間をよりよく過ごす、お手伝いはできたのだ」
これが、自分の役割なのだ。自宅に出向き、楽しい話をしながらマッサージをする。そうすることで痛みが改善し、寝たきりの人でも“その先”が見える。“絶望”の時間を耐え忍ぶだけではなく、最後まで自分らしく生きる日々が目の前に開かれていく。訪問マッサージには何と大きな可能性があるのだろう。

だからこそ、利用者からのもう一つの言葉が澤登さんに鋭く突き刺さった。
「あなたのマッサージで楽になったけど、もっと早く来てほしかった」
「私は良かったけど、父にもあなたのマッサージを受けさせたかった」
自分の努力が足りなかった。二度と、利用者にこんなことを言わせたくない。心の中で固く約束した。大事なのは、早く届けること。だから、全国展開なのだ。
■上場を急いだ理由
澤登さんは福岡、沖縄、群馬、金沢、札幌と、かつての同僚や専門学校のつながりで、順調に事業所を立ち上げていった。しかし、13店舗目で「ご縁」もなくなり、はっきりと思った。これでは、「2025年問題」に間に合わない。「2025年問題」とは団塊の世代が後期高齢者になり、介護を受ける年齢になることだ。澤登さんはそれまでに、全国津々浦々に営業所を出すつもりでいた。
そこで2011年、「株式会社フレアス」として会社組織にしたが、それでも間に合わない。2019年に思い切って上場し、フランチャイズを始めたことで、47都道府県全てに「フレアス」が進出を果たすこととなった。こうして、「2025年問題」には間に合った。
上場までは100店舗以下だったのが、上場して6年で、全国441店舗に事業所が拡大したのだから、上場の意義は大きかった。
■福祉が利益を追求していいのか、という葛藤
背中を押してくれたのは、澤登さんが経営者として薫陶を受ける、稲盛和夫さんの「利他」の思想だ。澤登さんは稲盛さんの「盛和塾」の塾生だった。ここで福祉が利益を追求していいのかというジレンマに明確な答えが見えた。
「利他と経営が両立するものであるという稲盛さんの言葉で、僕は腑に落ちたんです。福祉であっても健全に、利益を上げていいんだと。それで上場したからこそ、スピーディーに全国展開ができたのです」

今や訪問鍼灸マッサージで業界シェア1位、月間利用者は1万5000人という実績を誇るが、澤登さんは、「早く届けないと」という利用者との約束は果たせていないことを実感する。全国で要介護者は700万人と言われる中、業界ナンバーワンであっても、利用者は1万5000人。まだまだ、足りていない。
「いまだに、健康保険を使って訪問マッサージを受けられるということを、知らない人が圧倒的だと思います。介護の現場でも知らないのです。医療保険を使うので、一部負担で済むんですよ。5000円ぐらいかかる治療ですが、本人は500円でいいんです。介護保険って使える範囲が決まっているから、その枠ではなく、医療保険で使えれば、寝たきりの高齢者へのサービスの選択肢が増えるんです。ケアマネさんにこんないいサービスがあるよと伝え、使ってもらうようになっていますが」
※編集部註:医療保険適用には医師の同意書が必要です
まずは、知ってもらうことだ。医療保険なのでCMを打つことができない制約の中、訪問マッサージを必要としている人全てに、どうやって届けるのか。澤登さんの“約束”は、いまだ途上だ。
■起業以来、最大の修羅場
そんな矢先の2025年、澤登さんは起業して以来、最大の修羅場を経験することとなった。老人ホームを建て、終末期の人のホスピス事業に果敢に乗り出した。意気込んでいたのだが……。
「医療依存度が高い人でも自分らしい環境で亡くなる場所を作ろうと、ホスピスを作ったんです。お酒も飲めるし、自由なんです。マッサージとの相性もとてもよくて、いい施設でした。5年で40棟作る目標を立てて、20棟を作ったところで、同業他社の不正が発覚したのです」
その結果、診療報酬が3〜5割下がり、事業推進どころか、維持もままならない。
「勝負しようとフルスイングしたら、転んじゃったみたいな。事業譲渡するしかありませんでした。今までで一番苦しくて、しんどかったですね。利用者をそのまま入居させてくれること、従業員もそのまま雇用することを条件にできたのが、不幸中の幸いでした」
2025年9月のことだった。いいサービスだっただけに、忸怩たる思いだった。何というタイミングだったのか、やり方もきっと悪かったのだと悔やみつつ、澤登さんは「我々フレアスは、何のために存在するのか」ということを一心不乱に考えた。
「やはり、最初の利用者さんとの約束です。早くこのサービスを届けるのだという思い。そして、プライドを持って働ける職場にしたいという理念。ここから、また始めようと」
■売り上げナンバー1は全盲の男性
介護業界の最大の問題は、人手不足だ。特にマッサージ師の数は、全国で12万人ととりわけ少ない。
「医師は毎年、9000人は生まれていますが、マッサージ師は1000人。辞めるのも毎年1000人なので、増えないんです。そこで苦心したのが、視覚障害者の採用でした」

フレアス誕生の地・山梨で3番目に採用したマッサージ師は、全盲の50代男性だった。視覚障害者の雇用において、澤登さんは「ライトサポーター」という視覚障害者のサポート役を作ることにした。訪問の際の運転、バイタルチェック、記録などを行う人間を補佐につけたのだ。
「全盲の方は経験もある方だったので、うまくいきましたね。我々にとって障害者雇用ではなく、戦力です。2人分の人件費がかかるけれど、それ以上の売り上げを出してくれる。社員の22.5%が視覚障害者で、売り上げ上位10人の50%は視覚障害者です。7年間、不動のナンバー1は全盲の男性です」
■障害があろうがなかろうが甘やかさない
2023年度に「障害者雇用ランキング」1位を獲得したが、「得意なことを、得意な人にやってもらう」ことをしただけのこと。その代わり、甘やかすなど“逆差別”もしない。
「できることはやりなさい、必要なことはサポートするからって。だから勉強してクオリティを上げ続ける努力も転勤も、障害があろうがなかろうが必要とされるものです」
視覚支援学校の高校を卒業して就職した、全盲の社員が入社式で宣言した。
「これまでは『ありがとうございます』と、お礼を言う人生でしたが、これからは『ありがとう』って言われる人生を送りたい」
現場に配属され、それはあっという間に現実のものとなった。彼は毎日、利用者に「ありがとう」と言われ、車の中はお礼のお菓子ですぐに一杯になる。フレアスに入ったからこそ実現した、まさに“逆転人生”だった。
■接骨院の初任給は150万円だった
何といっても人手不足の最大の要因は、鍼灸マッサージ師という職種があまりにも低収入だという問題だ。こんな都市伝説がある。
「医療関係者の会合にドクターはベンツで、柔道整復師はクラウンでやってくる。そこに、鍼灸マッサージ師は自転車で来る」
澤登さん自身、接骨院で得た初年度年収は150万円。だからこそ、業界の常識は覆されるべきだと強く思う。フレアスでは初任給は300万円超、平均年収は450万円。社会保障、退職金完備。18時以降の残業はなく、週休2日を保障、業界の常識である「きつい働き方」も覆した。
澤登さんが自宅の一室から、自分の腕だけでスタートした“訪問マッサージ”は今や、76億円企業にまで成長した。それだけ必要とされていたサービスだったのと同時に、業界の慣習に甘んじない企業努力あってのことだった。
フレアスの社員は3月末時点で726名、今年は28名の新卒社員を獲得したが、この毎年30名弱ほどの新卒社員が辞めないのだ。3年連続で新卒離職率ゼロ(※
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)
