苛烈な性格のイメージがある信長だが…(anyes/PIXTA)

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2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」において、羽柴秀吉・秀長兄弟が仕える主君・織田信長(1534~1582年)は俳優の小栗旬さんが演じています。威風堂々とした様で、迫力があると話題になっています。

ドラマに登場する信長は、賞罰に厳しいキャラとして描かれている感がありますが、実際の信長の統治下では、本人が直接手を下したものも含め、どのような罪を犯した人に対し、どのような刑罰が行われていたのでしょうか。

信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記で、史料としての信頼性が高いとされている『信長公記』などから紐解いてみましょう。(歴史学者・濱田浩一郎)

「狙撃者」の首から下を土に埋め鋸で…

まず、信長の命を狙った「暗殺者」の事例を紹介します。

元亀元年(1570年)5月、信長は都から岐阜に戻ろうとする途上、近江国(現在の滋賀県)の千草越え(千草街道)を通過します。そこには信長の命を狙う者がいました。杉谷善住坊という人物です(善住坊の詳しい経歴については不明です)。

善住坊は近江国の前守護であった六角承禎から依頼を受けて、信長を殺そうとしたのでした。ちなみに六角承禎は永禄11年(1568年)、信長の上洛の際に織田軍に敗退。近江を追われていました。

さて、善住坊は刀や槍・弓矢ではなく、鉄砲で信長を狙撃しようとします。20数メートル離れた場所から、2発の弾丸で信長を狙ったのでした。しかし鉄砲の弾は、信長の身体をかすっただけで、信長の命に別状はありませんでした。信長は自分の命を狙った者がいるということで、その者に対する憎しみを滾(たぎ)らせていたと思われます。

その後、善住坊は逃亡していましたが、浅井・朝倉滅亡後の天正元年(1573年)9月頃、約3年の逃亡生活の末、近江国高島で捕縛されます。善住坊を捕縛したのは、元々は近江国の浅井(あざい)氏に仕え、その後、信長に降伏していた武将・磯野丹波守員昌(かずまさ)です。

員昌は善住坊を9月10日に岐阜に連行。善住坊は同地で尋問を受けます。菅屋九右衛門・祝弥三郎の2人が「御奉行」として、善住坊に「千草山中において鉄砲で(信長を)打った子細」を尋ねたとのこと。

善住坊は罪を認めたのでしょう。残酷な刑罰が科されました。直立のまま土中に埋められ、首を鋸で引かれるという酷い処刑方法で殺害されたのです。こうした残虐な処刑により、信長は「日比の御憤を散ぜられ」(日頃の怒りを晴らし)満足したと記載されています。

自分を殺そうとした人間への鬱憤、恨みが相当溜まっていたことは間違いないでしょう。

厳しい刑罰の裏に信長の「合理的思考」?

信長の統治下では、罪を犯した者に対する刑罰が厳格に行われたと考えられています。具体例を2つ紹介します。

天正7年(1579年)頃のこと、京都下京の木戸番をしている男の「女房」の恐るべき犯罪が明らかとなります。その女は、多くの女性を騙し、和泉国堺に日頃から売り飛ばしていたというのです。

その話を聞き付けた京都所司代の村井貞勝は、早速、その女を捕縛、糾明します。すると、何とその女はこれまで「80人ほどの女性を売ってきた」と自白したのでした。『信長公記』にはその直後に「則、成敗なり」と書かれています。人売り女は直ちに処刑されたとみられます。

同じ年の10月には、山崎の町人による不正が発覚します。その町人は先年、訴訟を抱えておりましたが、その訴訟は明智光秀と村井貞勝の前で裁かれ、既に決着が付いておりました。はっきり書かれていませんが、どうも敗訴したと思われます。

彼は何とかして挽回したいと思ったのでしょう。信長に直訴します。直訴するのは良いとしても、そのやり方がいけませんでした。文書を偽造し、自分に有利なようにして、信長に訴えたのです。

信長は村井貞勝に今回の件について尋ねます。村井は信長に前回の判決について言上。すると信長は「曲事」(くせごと。「けしからん」の意)と怒り、ついにその町人は「成敗」されるのでした。

これらの事例は、信長が直接、罪人を「成敗」したものではありませんが、信長の賞罰に厳しい性格が影響していたことは想像に難くありません。そこには、戦乱の世を終わらせ天下を平定することをめざした信長なりの合理性があったと想定されます。

「人売り女」がきわめて悪質であることはいうまでもありません。また、「裁判資料の偽造」についても、それにより公正な裁判を歪め、政権の信頼と権威を損ない、ひいてはせっかく統一と安定に向かい始めた天下が乱れる元凶となり得ると考えれば、重罪ととらえることも可能でしょう。

ただし、先述した善住坊も含め、いずれのケースでも、処刑が行われる前に尋問が行われていることが分かります。尋問せずにいきなり処刑ということはあまりなかったと思われます。

弁明も聞かず、いきなり…

しかし、中には、信長本人が、尋問等をいっさいせず、直接「手討ち」にしたケースもあります。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』には、15代将軍・足利義昭のための二条御所を造営する最中、一兵士が戯れにした行為が信長を激怒させたことが記されています。

信長は自ら建築の指揮を担っていましたが、ある「一兵士」が戯れに「一貴婦人」の顔を見ようとしました。女性が被っている被り物を少し上げようとしたのです。

信長はすぐにそれを見付けると、皆がいる前で自ら「彼の首を刎ねた」のでした。

人売り女が処刑されるのはまだ仕方ないとしても、ただ女性の顔を見ようとしただけで首を刎ねられるのは、余りにも可哀想です。

フロイスによると、二条御所の造営期間は驚くべき短期間だったと言います。それには信長のこのような振る舞いや監督・指揮も関係していたでしょう。

信長としては、作業中に余計なことをしたら、このような目に遭うぞということで、見せしめのため「一兵士」を直接処刑したのでしょうが、明らかにやり過ぎでしょう。叱責するくらいで良かったのではないでしょうか。



■濱田浩一郎
歴史家・著作家/株式会社歴史研究機構代表取締役、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を歴任。

著書『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか多数。