キーワードは「人情」…「通天閣と新世界」がホンマ新世界になった!

写真拡大 (全6枚)

大阪のランドマーク・通天閣を中心に広がる街・新世界は、道頓堀(どうとんぼり)と並んで、大阪を代表するスポットだ。数々のドラマや映画の舞台にもなってきたこの街は、時代と共にめまぐるしく変わり続けてきた。新世界の今を12年間伝え続けてきた「情報発信人」に、街の変遷とその魅力について聞いた。

テーマパークだった新世界

新世界と聞いて、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるだろうか?

通天閣、ビリケンさん、串カツ、王将の坂田三吉、大衆演劇、ふたりっ子、じゃりン子チエ…。こんなありきたりなことしか思い浮かばない。新世界は大阪人ですら、知ってるようで知らない街なのだ。

そもそも、なぜ街の名前が「新世界」なんやろう。

新世界の歴史は、1903(明治36)年に開催された第5回内国勧業博覧会から始まる。内国勧業博覧会とは、外国の新技術の紹介と国内の技術交流により国内産業の発展を図ることを目的とした、今で言うところの「万博」である。農業館、林業館などの国内パビリオン(当時はそういう言い方をしていなかったが)や、諸外国の産業や製品を展示する参考館などが建ち並んだ。また、ウォーターシュートやメリーゴーランド、パノラマ世界一周館などの娯楽施設も作られ、内国勧業博覧会始まって以来の入場者数を記録した。

9年後の1912(明治45)年、博覧会跡地に誕生したのが、新世界である。当初は「新巴里(パリ)」「第二千日」「新市街」などの仮称で呼ばれていたが、アメリカで庭園の運営経験があった和田守菊次郎の提案を受け、「新世界」と命名された。徳川・江戸時代の「旧世界」に対し、最新文化や技術を駆使した新しい世界、という意味で「新世界」と名付けられたらしい。

街の中心には、凱旋門(がいせんもん)風のビルに鉄塔を組み合わせた展望塔・通天閣を建設、そこからパリの街に倣(なら)って、放射線状に街路網が作られた。通天閣の南側には、NY・コニーアイランドにあった遊園地を模したルナパークがオープン。ローラースケート場や動物園、直径約10メートルの円盤の外周に人が乗り、上下に波打ちながら回転する遊戯施設・サークリングウェーブなどが設けられた一大娯楽施設だった。

園内の噴水には、ホワイトタワーと呼ばれる北欧風の塔が作られた。塔の中には、アメリカで大流行していたビリケン様を祀(まつ)るお堂があり、このホワイトタワーと通天閣の間はロープウェーで結ばれ、大阪にいながらにして、パリからニューヨークへ旅をする趣向であった。

ルナパークの周りには、高千代館、浪花倶楽部、恵美須館など名前こそ純和風だが、ルネサンス風、バロック風、イスラム風、アールデコ風など様々な洋風建築の活動写真館や劇場が建ち並んだ。少し離れた場所には洋風の温泉施設もあり、新世界はテーマパークの先駆けであったことが想像できる。

その後、ルナパークの経営者が変わり、1916(大正5)年頃から洋風だった街並みが、次第に日本風に改められていく。ルナパークは1923(大正12)年に閉園し、その跡地は、映画館や芝居小屋、大衆食堂、カフェなどに変貌した。同じ頃、新世界の西側に南陽新地という花街が生まれ、洋風のアミューズメントパークを目指して計画された新世界は、日本的な歓楽街へと姿を変えていった。

戦後、復興を果たすものの、1961(昭和36)年以降は西成区釜ヶ崎で、日雇い労働者らによる暴動が相次いで勃発。隣接する新世界も、風評被害を受けイメージが悪化した。1970年代から90年代にかけては、怖い街、危ない街というイメージが強くなり、訪れる人も少なくなっていった。

時代に順応し、姿を変える街

新世界を訪れた8月初旬、大阪メトロ堺筋線恵美須町駅の地下通路には熱風が吹いていた。ここ数年の大阪の猛暑は、異常を通り越している。地上に出ると地表から立ち上る熱で、通天閣が揺らいで見えた。この暑さの中、多くの外国人観光客が通天閣本通商店街を歩いている。

新世界は、ここ20年で大きく変貌を遂げた。外国人が観光に来るやなんて、本当に「変わったなぁ」と思う。

この街の変遷を伺うため、新世界の情報を、12年間毎日ブログで発信している新世界町会連合会会長の近藤正孝さんに、話を聞いた。

関:新世界、随分変わりましたね?

近藤:でしょう?僕はこの街で生まれ育ったんですが、学生の頃は「ようそんなとこに住んでんなぁ、女の子が行ったら危ない街なんちゃうん」と、よう言われたもんです。

戦後の新世界は、映画館や劇場、旅館や料亭があって、芸者さんを上げて男の人が散財して遊ぶような街やったと聞いています。僕が生まれた1960年代になると映画の街で、東宝敷島、東映、大映、日活の映画館がありました。今風に言えばシネコンですね。いつも最新映画が上映されていて、渡哲也や松坂慶子が舞台挨拶に来てはったのを覚えています。

それから、カラーテレビが普及して映画産業が斜陽化し、映画館だった建物がパチンコ店に変わっていきました。バブルの頃は、この狭い新世界にパチンコ店が10〜12店舗あったんです。最初は個人店主の店も多かったのですが、法律改正などもあり、中小のパチンコ店では対応することが難しくなってきたんです。同じ頃、常連さんの高齢化や、新世界が観光地化していくのと相まって、パチンコ屋が姿を消していきました。今では新しく出店してきた大手1店舗が残っているだけです。

パチンコ店がつぶれて、映画館だった建物に串カツ屋が入り始めたのが2000年ごろです。映画館の箱はそこそこ大きいですから、パチンコ店になるのは分かる。けれど、その大箱が飲食店の串カツ屋になったのは、意外と言えば意外でした。もともと新世界には、八重勝など老舗の串カツ屋がありますが、そうしたカウンター形式の店とは違う、テーブル席の串カツ屋が増え始めたんです。

串カツ屋がなぜ、そんな大箱での商売を目論んだのかというと、新世界に来るお客さんの層が変わったから。観光客やファミリー層を狙ってやり方を変えないと、商売が成立しづらくなったんです。

そして大箱の串カツ屋が、力士の看板や立体的なねぶたの看板を出したりと、派手な看板を作り始めました。あれは店の見た目を変えて、街そのものを変える戦略やと思います。そして、競うように他の店も派手な看板を作り始めた。結果、「映える」街になって、SNSで発信され、どんどん人が来るようになった。今や道頓堀より派手でしょ?(笑)

観光客が来るきっかけは?

関:観光客が来るきっかけは何だったんですか?

近藤:いろんなことが重なったんやと思います。1996(平成8)年、新世界を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」で、改めて全国から注目されるようになりました。翌年、スパワールドや複合娯楽施設のフェスティバルゲートがオープンし、それまで新世界に来たことがないような若い女の子も、来るようになったんです。

さらに2005(平成17)年、現在の高井隆光社長が通天閣の経営に参画してから、通天閣が変わりました。それまでの通天閣は登って降りるだけでしたが、高井さんはビリケンさんをキャラクター化し、新幹線や飛行機に乗せてPRに使うなど、新しいことをやり始めた。今では滑り台(タワースライダー)もありますし、今年の夏からはバンジージャンプのようなアトラクション(ダイブウォーク)も体験できます。最近でこそ通天閣に大勢人が並んでいますが、そんなこと考えられないような時代もあったんです。

関:インバウンドのお客様はいつ頃から増え始めたんですか?

近藤:2015年頃からですね。国内、海外のお客様に共通して言えることですが、昔は新世界を目指して来られていた。でも今の新世界は、大阪、関西そして日本の観光スポット、周遊コースのひとつなんです。そう捉えないと、今の新世界は見えてこないと思います。

劣等感がブログを続ける原動力に

関:新世界に関するブログを毎日書き続けて、この9月で12年目を迎えられたとのことですが、ブログを続ける原動力は何ですか?

近藤:劣等感やね。さっきも言いましたけど、昔は「危ないとこちゃうんか」「女の子連れて行ったらアカン」とか、本当によく言われたんです。確かに、その頃は道に寝そべってビール飲んでるような人もいました。そういう風景は、いくら地元の僕でも誇りに思えない、自分でもカッコ悪い街やと思っていたんです。

僕が「町おこし」にかかわろうと思ったのは、やっぱり少しでもこの街をよくしたかったから。その気持ちがあるから、ブログも続けることができているんやと思います。劣等感を克服する、が根本にあるんです。

もう一つ続けている理由は、「信用」です。毎日情報発信しているから、信用されると思うんです。それと、いつ、何があったのか、記録としてアーカイブ化しておけるのがいいですね。

関:近藤さんのブログでは、新世界で行われているアイドルやアニメ関連、ファッションショーなど、若者や女の子が参加するイベントを多く取り上げていらっしゃいますね?

近藤:今の新世界を発信するとなると、どうしても女の子や若者向けのイベントが多くなりますね。ライブスペース『芸術文化創造空間ONAIR L7』では毎月1回、『電脳ピーチカフェ倶楽部 萌え抜け』というアイドルイベントをやっています。新世界にある音楽事務所「CROSS CULTURE RECORDS」が主催するイベントで、アイドルの卵たちのパフォーマンスを見てお客様が投票、僕は特別審査員を務めています。

このイベントに出演した女の子に声をかけ、僕のブログで新世界のPRを手伝ってもらっています。若い人の視点でこの街の「今」を伝えたいですし、音楽フェスや地域イベント、祭りなどにも参加してもらって、一緒に街を盛り上げていってほしいんです。今年の夏祭りには、メイドカフェのメイドさんにも巡業に参加してもらったんですよ。

新世界の魅力は、非日常空間であること

関:改めてお聞きしますが、新世界の魅力とは?

近藤:歴史と人情、かな。新世界はどんどん変わっていく街やけど、人情が残ってるから逆にクローズアップされるようなところはありますね。それから、一回来たら「はまる」人が多いですね。特に20〜30代の女の子。にぎにぎしい看板満載の、明るく、賑やかな街で昼から飲める。遊ぶところもいっぱいあって、遊びたい、飲みたい気持ちになるそうです。

彼女らが何にはまるのか、ずっと考えてて…。最近、新世界ならではの非日常性かもしれんと思い始めました。例えば、非日常空間であるテーマパークには、何度も行きたくなるじゃないですか。もちろん新世界には住民も住んでいて、商店街もマンションもありますけど、ベタな大阪らしさ満載のテーマパークのような街なんちゃうかなと。

新世界はもともと、ルナパークというテーマパークでしたから、街が誕生した当時の形に先祖返りしているのかと思うと面白いですね。

様々なエンターテインメントが楽しめるが、ファッションという要素が少なかった新世界。そのイメージを払拭しようと去年12月20日、新世界初のファッションショー「新世界街歩きファッションショー」が開催された。

最優秀グランプリ「新世界ビジュアルクイーン」に選ばれた高橋美歩(MIHO)さんは、ショーに応募した理由を「新世界での写真がかっこいい」「「友達に自慢したい」と答えたという。子どもの頃聞かされ続けた新世界のイメージを払拭したい、街のイメージを変えたい。その思いで毎日ブログを書き続けてきた近藤さんにとって、最高に嬉しい褒め言葉となった。

「チャンスがある街。チャレンジできる街。夢をつかむ街。新世界」。15年前、近藤さんが町おこしの活動に参画したときに掲げたスローガンである。若者が夢をつかめる、チャンスがある、チャレンジできる街へと変貌を遂げつつある新世界から、これからも目が離せない。

参考文献『大阪新名所 新世界・通天閣写真帖復刻版』監修解説 橋爪紳也 創元社

※出典記載のない写真は、近藤正孝さんのブログ「 “新世界から最新地域情報を発信!”『新世界』情報ブログ」から転載

世界のVIPも絶賛! 大阪カタシモワイナリーのめっちゃ陽気な経営術