【 NRF APAC 2026 レポート Vol.2】FOMOからFOBOへ AI導入のリアル
【 NRF APAC 2026 レポート Vol.2】FOMOからFOBOへ AI導入のリアル
本記事はRokt松田誠氏による寄稿です。記事のポイントAIの急速な進化に伴い新たな選択肢への恐怖が広がるなかでも、投資を躊躇して競争の土俵にすら上がれなくなるリスクの方が大きいとされるエージェント型AIが普及する時代において顧客接点を中抜きされる危険性が高まっており、自社で構築するロイヤルティプログラムこそが最大の防衛線となるどのAIツールを選ぶかよりも前に、全社が一枚岩となってデータ基盤の整備を進めることこそが、あらゆる未来に対応できる後悔のない投資である
2026年6月、シンガポール・マリーナベイサンズ。80カ国・1万1000名以上が参加した「NRF '26 Asia Pacific」が閉幕した。世界2500以上のリテールブランド、300の出展企業が一堂に会したこの場で繰り返し語られたキーワードは「多様性」「AI導入」、そして「人間とAIの境界線」の3つだった。本稿では、Roktが最終日に主催したラップアップセッションの内容をもとに、現地で語られた議論のエッセンスをお届けする。◆ ◆ ◆
ほぼ全セッションでAIが言及されたNRF APAC 2026。しかし今年の空気は、昨年とは変わっていた。KPMGグローバルのコンシューマー・リテール部門責任者、イザベル・アレン氏がウェルカムアドレスで提示したフレームが象徴的だ。「FOMO(Fear of Missing Out/乗り遅れへの恐怖)」から「FOBO(Fear of Better Options/より良い選択肢が出てくることへの恐怖)」へ。去年はChatGPTに乗り遅れるなと焦り、今年はClaudeが出てきた、UCPが出てきた。選んだそばから次が来る。これがFOBOの実態だ。特定のテクノロジーや組織体制に縛られてしまう一方で、より安価でより速い代替手段がこれほど急速に生まれている。その恐怖が意思決定の麻痺につながっている。しかし、待つことのリスクはより大きい。アレン氏はこう言い切った。「リスクは投資して失敗することではない。より大きなリスクは、待ち続けることで遅れをとり、土俵にすら上がれなくなることだ」。
Googleセッション
なぜ今投資すべきか。GoogleはAPAC担当VPのサプナ・チャダ氏がショッピング行動の変化を示した。AIを活用するユーザーは購買ジャーニーのタッチポイントが従来の4から平均12に増加し、プレミアム商品を選ぶ確率が非利用者の2倍になるというデータが提示された。AIはショッピングジャーニーを「縮小」ではなく「深化」させている。そのメッセージは明確だった。「今投資することで今日だけでなく将来にもわたって報われる」。顧客接点の中抜きを防ぐロイヤルティプログラムの重要性
ただしGoogleのセッションで印象的だったのはデータだけではない。「APAC消費者の39%がすでにAIを使ってオンラインショッピングをしており、さらに40%が将来活用したいと答えている」という数字は、AIがAPACリテールの「あらゆる会話の中心」になりつつあることを示していた。
DFIリテール・グループ セッション
DFIリテール・グループ(DFI Retail Group)のグループ最高経営責任者スコット・プライス氏は、FOBOの時代においても決断の重要性を強調した。アジアのコンビニエンスストア・スーパーマーケット・ドラッグストアなど7500店舗・12カ国を展開するDFIは、テクノロジーの進化が加速する中では、ビジネスチャンスが拡がる一方、「動かないこと」の代償も大きくなると語った。「FOBOの時代でも馬を選んで走れ。APACの競争速度では、決断して実行することが求められる」。一方でプライスが強調したのはAI導入の別のリスクだ。エージェント型AIが普及する時代に、小売業者が消費者との直接接点を「中抜き」される危険が現実になりつつあると警告した。「私たちはある意味でフレネミー(友でもあり敵でもある存在)だ」クイックコマースのプラットフォームを活用しながら、そのプラットフォームが顧客データを握ることへの緊張感をそう表現した。ロイヤルティプログラムを通じた消費者との直接関係こそが、この時代の最大の防衛線だという認識は、複数のセッションで共通していた。AI導入の混乱に対する小売業界の認識と自律購買への備え

モロコ x イオン × パクビュー セッション
慎重論も根強かった。モロコ(Moloco)・イオン・パクビュー(Pacvue)が登壇したセッションでは、小売業界がAIによる混乱を楽観視している実態も示された。15の異なる産業セクターにわたる調査で「今後1年でAIによる大きな混乱を予想する」と答えたリーダーは67%だったが、小売業界では36%ともっとも低かった。顧客との直接接点こそAIに代替されない強みだという認識があるからだと考えられる。そのうえでセッションが示したのは、「今すぐ全力で動く」ではなく「準備を整えて待て」という姿勢だ。パクビューのアジア担当マネージングディレクター、ネイト・シュリラ氏はAIによる購買代行への期待について興味深い視点を示した。「消費者の30%がAIに購入代行してほしいと回答」というデータが一人歩きしているが、アンケートでの回答と実際の行動は全く違う。クレジットカード情報をWebサイトに入力することに人々が慣れるまでどれだけかかったかを思えば、AIによる自律購買が一夜にして普及するとは考えにくい。「先走る必要はない。でもゴーサインが出たら飛び出せる準備はしておけ」。それが彼の結論だった。重要なのは、AI導入を組織全体で推進することだ。Deloitteが提示した「パイロットがスケールしない5つの理由」が示唆に富んでいた。コアシステムから切り離された環境での実験、システムごとに異なるAIエージェントが乱立する複雑性、顧客ジャーニー全体の断絶、季節性ピーク負荷の未考慮、そしてトークン消費量に基づくコストの爆発的増大。これらはいずれも「バラバラに進める」ことから生まれる問題だ。現場の課題から学ぶ組織全体の当事者意識とデータ整備

フェアプライスグループ セッション
フェアプライスグループ(FairPrice Group)のチーフカスタマーマーケティングオフィサー、カレン・チャン氏が語ったAI導入のジャーニーは、この問題を正面から扱っていた。シンガポール最大の食料品小売業者として約65%の市場シェアを持つフェアプライスは、「明日の店舗」と名付けたAI実証店舗をコング・デジタル・ディストリクトに開設し、9つのAIイニシアチブを同時に走らせてきた。スマートカートは年内に全島展開する予定で、成果が出ている。一方でVision AIによる万引の検知は想定外の問題を生んだ。トートバッグや大きなリュックを持つ客が商品をバッグに入れるたびに誤報が発生し、店長が「アラート疲れ」に陥った。「在庫が少ない」と「品切れ」を区別するAIも、20年のキャリアを持つ店長が「私のカンの方が正確だ」と手動で上書きし続けた結果、機械の学習が止まってしまった。現場の教育とトレーニングがAI展開のスピードに追いついていなかったのだ。そして組織としての問題も浮き彫りになった。チャン氏はこう語る。「AIはCIOの責任だと思っていた時期があった。しかしそれではスケールは絶対に無理だ。ボード・CEO・CFO・マーケティング・店舗現場、全員が当事者でなければならない。『村全体が必要だ』という古い言葉は、今も真実だ」。
良品計画 セッション
良品計画(MUJI)のサプライチェーン担当マネージャー、後藤翼氏のセッションは、データ基盤の整備がいかに困難かを正直に語った点で際立っていた。世界40カ国・4100店舗以上を展開しながら、グローバル拡大の過程でシステムが高度にサイロ化し、散在・矛盾した商品データから唯一の真実を確立することが極めて困難な状況に陥っていたという。その状況を打開するためにマスターデータ管理プラットフォームを導入した結果、データ工数を30%削減、データ処理速度が80%向上した。しかし後藤が強調したのは数字よりも本質的な変化だ。「シンプルさとは、確固たる哲学に裏打ちされたとき、高度にスケールできるものだ」。そして重要な警告も発した。「データが整備されていない企業はエージェントに【見えない】存在になる」AIエージェントが商品を検索・推薦する時代に、商品データが整備されていなければそもそも候補にすら上がらない。どのAIツールを選ぶかより先に、データ基盤を整えること。それが唯一、どの未来にも対応できる「後悔のない投資」だというKPMGのメッセージと重なる。複雑性を解消するチャネルレスな視点と共通の準備
ネスレ日本の飲料事業グループ責任者、島川基氏のセッションも同じ問題の別の側面を照らした。10年以上前にD2Cへ大規模投資を行い、700万人のファーストパーティデータを蓄積したネスレ日本は、やがて自らが作った複雑性に苦しむことになった。100〜200 SKUだったWebサイトは2000SKUまで膨れ上がり、ブランドチーム・コーポレートチーム・Eコマースチームがそれぞれ異なるKPIで動くサイロが生まれた。島川氏はその教訓をこう言い表した。「私の妻はチャネルという言葉を一度も使わない」消費者にとってチャネルなど存在せず、フリクションレスなジャーニーがあるだけだ。複雑性を解消し、戦略をリセットしてはじめてデータが本来の力を発揮し始めた。動くタイミングの判断は各社に委ねられている。しかし「準備」だけは今すぐできる。その準備の本質は、どのAIツールを使うかではなく、データ基盤の整備と組織の一体化にある。複数のセッションが共通して指し示した方向だ。松田 誠(まつだ・まこと)Rokt合同会社 日本マイクロソフトでOffice 365を始はじめとした各種ソフトウエア・サービスのビジネスをリード。ケルヒャーでコンシューマービジネスの責任者を担当した後、2019年にRokt合同会社に入社。ビジネスデベロップメントとして日本市場におけるRoktビジネスの立ち上げと拡大に従事している。
写真:Rokt提供