一見さんお断り、現在はソープ街に――。全国各地に存在する遊郭だが、沖縄の「辻遊郭」は他地域とは異なる独特の成り立ちを持っていた。かつて「美妓三千人」とうたわれ、政財界の要人から庶民までが集った社交場の実態とはどのようなものだったのか? 沖縄生まれ、沖縄育ちの作家・神里純平氏の新刊『あなたの知らない 怖い沖縄』(彩図社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)

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 全国各地に遊郭なる場所は存在する。その発祥についてはだいたい同様だろう。

 沖縄の那覇にも辻という遊郭があり、現在はソープ街としてその姿を残している。しかし、この辻遊郭の成り立ちは他地域の遊郭とは違った独特のものである。

琉球王国時代に遡る辻遊郭の歴史

 琉球王国には、国王が即位するたびに中国から冊封使一行がやってきた。

 冊封使とは、中国の皇帝が琉球王国を承認したと伝えるために派遣されてくる使者たちのことである。当時の琉球王国は、中国との貿易により莫大な利益を上げていたので、琉球側のもてなしは国をあげての一大行事だった。

 辻遊郭の始まりは、中国からやってくる彼らのため、辻の一角に私娼を集めたことにある。1672年の出来事だというから、その歴史は古い。

 冊封使一行は総勢400〜500人にものぼり、半年以上も那覇に滞在するのが常だった。長期の滞在になる上、精力を持て余した若い兵士も多かったので、琉球王国は一般の婦女子に危害が及ばないようにと考えて、辻に私娼を集めたらしい。

 しかし、この辻も時代が下り、今から400年ほど前に薩摩が侵攻してからは、首里や那覇の男たちに独占されるようになった。

 その後、明治政府により廃藩置県が行われて、琉球王国は沖縄県になった。それから数十年が経つと、辻は「仲島」「渡地」にあった2つの遊郭と合併され、「美妓三千人」とうたわれるほどの一大歓楽街となった。遊郭でありながら歌や踊りなどの芸能が演じられる宴会場としても栄え、「華の島」と呼ばれることもあったようだ。

 客層は政財界の要人や教育界の指導者から、自営業者、農業・漁業の従事者まで幅広く、ありとあらゆる階層の男たちが出入りする社交場となっていた。

女性社会だった辻遊郭

 ここからが特筆すべきところだが、当時営業していた300軒あまりの遊郭を運営していたのは、すべて女性だった。

 正確には、納税に関する手続きや今でいう保健所などの官公庁へ提出する書類の作成事務の仕事に3、4人の男が関わっていたが、経営者を含め、運営に関わる者はすべて女性だった。

 南国特有のゆったりとした情緒も色濃くあったようだが、規律はとても厳しかったようだ。儒教の影響を強く受けたことで「義理、人情、報恩」が生活の根本となっており、女性たちの結束は非常に固いものだった。

 ここで働く女性たちは「ジュリ」と呼ばれた。体を売ることで生計を立てていたが、辻のジュリたちはある種の「規範」を持って生活していた。

 ジュリたちは何事も控えめに振る舞い、客の前での高笑いやお酒を含む飲食は一切禁止。囲碁が趣味の客には囲碁に対する見識が必要とされたし、琉歌を詠む客には、返歌の知識をもちあわせていないと勤まらなかった。

 日常生活に支障がなければ、質素でつつましく暮らすことが理想とされていたため、2、3人の馴染みのお客がたびたび訪れてくれれば、それ以上の営業行為はしなかったようだ。「一夜妻になることは恥」という教育を経営者が行っていたため、面識のない者に自分を売ることはほとんどなかったらしい。今風の言葉で言うと「愛人」ということになるのだろう。

 そのような背景があったため、お客であるはずの男側がジュリをものにすることは、とても難しかったようだ。

男には誠実さが求められた

『シマの話―風俗・明治の沖縄』(佐喜真興英/沖縄書籍販売社)という本に「承諾、紹介なければ如何程の財産あるとも、容易に楼に登る事を得ず」とあるように、ジュリを愛人として迎え入れるためには、遊び人の知人などに仲介の労を頼み込むことが一般的だった。

 だが、たとえ紹介があったとしても、男には誠実さがいちばんに求められた。地位やお金にものを言わせてジュリをものにしようとすれば、門前払いを食らわされるのが常だった。

 多くの苦労の末にジュリを手に入れても、男側にはエチケットが求められた。金銭の授受にしても、ことが終わりジュリが寝た後に、そっと枕の下、座布団の下、お盆の下などにお金を置くというのが約束事になっていた。

 そんな辻遊郭には、前述したようにさまざまな階層の男たちが訪れていた。そのためか、現在の常識では考えられないほど、その存在を黙認されていたようである。

 たとえば、大正時代から昭和の初めの頃までの那覇の中流家庭では、「弁当開き」という風習があった。結婚式を間近に控えた花婿が、仲の良い地元の先輩や友人を辻遊郭に招き、高級料理やお酒でもてなす行事のことである。

 弁当開きにおいて、先輩たちは結婚生活の大変さや沖縄の男性としての在り方・心得を教え、友人たちとは挙式の際の余興の打ち合わせなどを行い、飲めや騒げやの大騒ぎをしていた。

結婚式を終えた新郎は…

 しかし本番は、宴が終わり、先輩や友人が帰宅してからである。花婿は、「ミームクジュリ」と呼ばれていた特別なジュリの部屋へと向かうのである。結婚生活を円滑に進めるために、ミームクジュリに夜の手ほどきをしてもらうのだ。

 その後に結婚式をあげると、花婿は再び件の先輩友人一行と辻遊郭へと向かい、前回と同じミームクジュリから二度目の夜の指導を受ける。

 これだけでも現代の感覚からすれば信じがたいが、その費用はすべて花嫁の実家の負担だったというのだから驚かされる。

「現在は人身売買の温床に…」沖縄で続いた「妻公認の女遊び」のその後〉へ続く

(神里 純平/Webオリジナル(外部転載))