世界的スターに訪れた“師弟の断絶”…博愛を歌った「ウイ・アー・ザ・ワールド」とマイケルの孤独
映画『Michael/マイケル』でも描かれた、マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの師弟の絆。マイケルはクインシーのプロデュースで「オフ・ザ・ウォール」や「今夜はビート・イット」、「スリラー」などのヒット曲を生み出した。だが、1985年にリリースされた、誰もが知るチャリティ・ソング「ウイ・アー・ザ・ワールド」で、その強固な関係にひびが入ることになる……。
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アフリカの飢餓を救うためのチャリティ・ソング

1985年1月28日、「ウイ・アー・ザ・ワールド」を歌うスターたち。ライオネル・リッチーやシンディ・ローパー、ボブ・ディランにレイ・チャールズなど、錚々たる面々だ。
Photo by Mohamed Amin/Camerapix/Getty Images
マイケル・ジャクソンが遺した偉大な仕事のひとつに、USAフォー・アフリカの「ウイ・アー・ザ・ワールド」がある。すでに稀代のエンターテイナーだったマイケルに、ソングライター、社会活動家という新たなステータスが加わった一曲である。
しかし、制作過程において、プロデューサーのクインシー・ジョーンズとの間にすれ違いが生まれたことも見逃せない。壮大な人類愛を歌ったプロジェクトの裏側で強固な師弟愛の崩壊が起こってしまったからだ。
「ウイ・アー・ザ・ワールド」が生み出されるそもそものきっかけは、ボブ・ゲルドフの呼びかけに集まったイギリスのミュージシャンによる「バンド・エイド」の「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」だ。
1984年11月25日・26日に録音され、12月3日にリリースされた同曲は世界的に大ヒットし、それによってアフリカの貧困問題がクローズアップされるようになった。
これにアメリカの公民権運動にも積極的に関わっていた歌手のハリー・ベラフォンテが触発され、同様のチャリティプロジェクトの発足を提唱した。ベラフォンテは名物マネージャー、ケン・クラゲンにコンタクトを取り、プロデューサーにはクインシー・ジョーンズ、そして楽曲をライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが手掛けるという骨格が決まった。
その後、クラゲンがさまざまなアーティストに呼びかけた結果、最終的にはボブ・ディラン、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、ブルース・スプリングスティーン、シンディ・ローパーなどの総勢45名に及ぶ面々をノーギャラで集めることに成功した。
ちなみに、マイケルの好敵手と目されていたプリンスも参加する予定だったが、結局姿を見せなかった。理由は諸説語られているが、今となっては知る由もない。
クインシー・ジョーンズが目論んだ黒人歌手と白人歌手の連帯によるアンセム
さて、多くのスーパースターが同時に集まれる日は、たった1日。1985年1月28日に行われた「アメリカン・ミュージック・アワード」の授賞式当日の夜だ。そこですべてのレコーディングが行われたのである。
一筋縄ではいかない個性豊かな面々。歌う順番、立ち位置からソロパートの振り分けに歌い方のディレクションまで、レコーディングは難航を極めた。シンディ・ローパーのアクセサリーが絡まったり、ボブ・ディランが歌い方を忘れたりするなどのアクシデントもあった。
その様子の一端はドキュメンタリー『ポップスが最高に輝いた夜』でかいま見ることができる。
ともかく、ソロパートを歌った黒人歌手と白人歌手は、それぞれ12名と13名。クインシーの盟友トム・ベーラーによる渾身のボーカルアレンジメントである。黒人と白人がともに、世界がひとつになることを祈ることで、アカデミックな(今の言葉にすれば「意識高い系」)白人ミュージシャンだけのバンド・エイドによる「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」から、コンセプト、スケール両面で上回ることもできた。
超一流のパフォーマーたちは驚異的な集中力を発揮し、この突貫工事とも呼ぶべきプロジェクトは成功を収めた。すべての作業が終わると、ダイアナ・ロスは「これが終わってほしくない」と号泣したという。アフリカの飢餓救済という崇高な理念のもとで、成熟した大人が子供のように無我夢中に取り組んだ様子が伝わる感動的なエピソードだ。
こうして、クインシー・ジョーンズの目論見通り「ウイ・アー・ザ・ワールド」は黒人と白人が分かち合うゴスペルソングに結実した。「レット・イット・ビー」や「明日に架ける橋」のようなアンセムを、黒人のクリエイターが新たに生み出した瞬間だった。
より高みを目指すマイケルと、クインシーのすれ違い
しかし、そうした成功の陰で、ひとり忸怩たる思いを抱えていたのがマイケルだった。彼は、これがライオネル・リッチーとのデュエットであり、後から呼ばれたスターたちが彼らのバックコーラスをするという構想を描いていた。マイケルはクインシーにもそう伝えていたという。
もっとも、こうしたマイケルの考え方はクインシーには傲慢だと映っていた。ここから、ふたりの間の「すれ違い」が浮き彫りになる。
後に自叙伝で、「私はマイケルを思いとどまらせる必要があった」とまで書いていることからも、これを機に両者の間には埋めがたい距離が生じたのは事実だろう。
「スリラー」で世界的なヒットを記録して以降、上昇気流に乗っていたマイケルがここで発したエゴは、引いた目で見ると、あまりにも青いものに見える。ミュージカル映画『ウィズ』(78年)で出会って以降、マイケルをプロデューサーとして見守ってきたクインシーには、それが増長と映ったかもしれない。もしかしたら、年長者の嫉妬のような感情だってあったかもしれない……。
ふたりの心の中を知ることはできないが、このときに師弟によるのっぴきならない人間臭い激突が起こったのである。
だが、今にも溢れ出しそうな自我を抱えたマイケルが書いた「ウイ・アー・ザ・ワールド」を聴くと、優しいメロディーと歌詞のなかに静謐な緊張感が漂っている。
マイケルが自伝『ムーンウォーク』で、クインシーとの曲作りを「僕の最高の部分を引きだしてくれる」と語ったように、クインシーがマイケルに甘い顔をせず管理統制したからこそ、蠢くマイケルのエゴが「ウイ・アー・ザ・ワールド」のスパイスとなっているのだ。
「僕はもっとできる」と考え続けたマイケルの熱量を、駒として配置するクインシーの冷徹さ。この対立が、皮肉にも「ウイ・アー・ザ・ワールド」を永遠のアンセムとした不可欠な原動力になったのである。
こうして博愛主義と社会正義のもと、人種や年代を超えた多くのミュージシャンが参加したUSAフォー・アフリカにおいて、クインシーとマイケルの長年に渡る師弟愛(ブラザーフッド)に終止符が打たれた。
師弟のほろ苦いすれ違いこそが、「ウイ・アー・ザ・ワールド」の儚さと美しさを際立たせているのである。
(石黒 隆之/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)
