「お産難民」が激増?出産費用無償化が招く地方の分娩施設“存続危機”… 産婦人科医が警鐘
改正健康保険法(健康保険法等の一部を改正する法律)が5月29日、参院本会議で可決・成立した。6月5日の公布から2年以内に分娩費用を無償化する新制度が施行される。正常分娩の費用の全額が公的保険で賄われ、厚労省側は今後、全国一律の価格を検討することになる。
地方で急激な少子化が進んでおり、都市部と地方で分娩費用に差異がある中での新制度の導入は、「医療機関の存続に関わるものだ」と、現場の不安材料となっている。「無償化」という魅力的な言葉とは裏腹に、産婦人科医の危機感は高まっている。(ライター・松田隆)
出産に関しては現行制度では通常の分娩は保険適用外であり、代わって出産育児一時金が50万円支給される現金支給のシステムとなっている。そのため、医療機関により費用がまちまちで、特に都市部と地方との間では大きな差が生じている。土地価格や人件費の違いから差異が出るのは当然である。
2022年度の都道府県別の出産費用の平均値は、最も高い東京都は60万5261円で、最も低い熊本県は36万1184円となっている。その差は実に24万4077円。東京都では、熊本県の1.68倍ほどの金額が出産にあたって必要となる。
なお、全国平均は出産育児一時金の50万円に近い48万2294円となっている(厚生労働省「第167回社会保障審議会医療保険部会 出産費用の見える化等について」から)。
このように地域によって差異が生じることが避けられない状況で、分娩費用の保険化を通じて無償化を進めれば、経営への影響は避けられない。
仮に通常の分娩で必要な費用を保険で50万円に設定したとしよう。東京都で年間100件扱う産院は従来の制度で6052万5200円入るべきところが5000万円と、実に1052万5200円の減収となる。これでは産院の経営が成り立つはずがない。
逆に、現在出産費用が50万円を切るような地方では新制度で収益が増える計算になるが、事態はそう単純ではない。年々進む少子化は、地方の分娩取扱施設を直撃している。出産の単価が上昇しても、分娩数の減少により減収傾向に歯止めがかからないことは十分に予想される。
さらに、保険適用により全国一律の費用が定められれば、これまでのように値上げで経営を維持することは難しくなる。経営の自由度が著しく制約され、閉院に追い込まれることも懸念される。
日本産婦人科医会では、新制度の内容によっては自宅から50km以内に分娩のための施設がない、いわゆる「お産難民」の激増が予想され、世界一安全とされる日本の周産期医療体制が崩壊しかねないと警鐘を鳴らしている。
※関連記事:「出産費用ゼロ」で妊婦の負担軽減のはずが…“産める場所”がなくなる? 産婦人科医会は「周産期医療体制崩壊の危機」と警鐘
出生数激減…地方の惨状
こうした中、4月に日本産婦人科医会の記者懇談会の場で、「持続可能な周産期医療体制の実現に向けて:地域で産める場所を次世代へ」をテーマに地域の産婦人科医が現状を報告する機会が設けられた。
この場で北海道・函館市の「えんどう桔梗マタニティクリニック」の遠藤拓(ひらく)副院長は、同市の現状を説明した。有名な観光地である函館市であるが、人口の減少は顕著である。1985年1月には32万2047人だった人口が、2026年5月には22万8525人と23万人を割り込み、最盛期の約71%となっている(函館市・人口・世帯数の推移)。
「(出生数は)20年ほど前には商圏(※)で2500程度あったものが、現在は1000を切っています。激減です。ここ数年に関しては(毎年)10%程度減っています。日本全国、少子化が進んでいるのでそうした傾向はわかっていましたが、この3年間はちょっと聞いたことがないというぐらいのスピード感で進んでいる感じです」(遠藤氏)
※医院が患者を受け入れる地域のこと
「えんどう桔梗マタニティクリニック」のこれまでの分娩数は400から500で推移しており、2023年は427件、2024年は競合する医院の閉院もあって437件に増えたという。しかし、2025年からは減少傾向となっている。
「去年(2025年)は360になり、今年(2026年)は320ぐらいになると予測を立てています。都市部も減っていると思いますが、私からすると『これはちょっとやばい未来が来るな』と、身をもって感じています」(遠藤氏)
同院では2023年度にスタッフ20%削減、残業時間削減を行い、2024年度には分娩費用値上げ、無痛分娩割合の増加、競合の閉院による流入で分娩数を上げて利益を確保できたが、2025年度は「限界点」に到達しているとする。
固定費は既に底を打ち、圧縮不可能となっている。産婦人科における「市場」全体の出生数減少が医院を直撃し、もはや限界に達しているということである。
青森は25年で出生数が半分以下に
地方の出生数が激減する中、5月18日、青森市で「まつくらレディースクリニック」が開設された。松倉大輔院長によると、同市では20年ぶりの有床診療所の新規開業となるという。もっとも、青森での出生数減少も顕著である。
2000年の出生数は青森県が1万2961人、青森市が2883人であったが、2024年には県が5120人と60.5%減、市も1209人と58.1%減となっている(住民基本台帳に基づく日本人住民の集計)。
これに伴い、青森市の分娩取扱施設も減少している。2016年に総合病院3施設、有床診療所6施設であったものが、2026年には総合病院1施設、有床診療所3施設と半減している。松倉氏は、2032年には総合病院、有床診療所ともに1施設ずつになる可能性があるとの見通しを示す。
「青森県の医療連携システムに関しましては、青森県立中央病院がおよそ妊娠30週未満の、高リスクの症例を搬送して治療をしています。ここが周産期医療の要となっていて、青森県はもう、“たらい回し”できるほどの高度医療施設がほぼありません。
ただ、同病院は一般的な産婦人科の疾患、婦人科良性腫瘍、婦人科悪性腫瘍の手術も行っています。周囲の病院もかなり手薄になってきており、2次施設がないために患者が集中し、慢性的な医師不足になっています。
そして2次医療施設がなくなってしまったために、1次医療施設が県立中央病院を助ける形を考えていかなければならないと思います。通常なら1次施設は低リスクの妊婦さんを取り扱う形になりますが、中リスクの分娩も一部扱ってあげなければならず、それが青森県全体の医療の不利益になってしまうということがあります」(松倉氏)
求められる行政主導の支援
医療機関の閉院が続けば、日本産婦人科医会の石渡勇会長の言う「お産難民の激増」が現実のものとなり、世界一の安全性を誇るわが国の周産期医療体制が崩壊の危機を迎えることになる。すでに分娩費用の保険適用化を通じての無償化のための改正法が公布された以上、新制度の中で医療機関の維持を図っていくしかない。
遠藤氏は、地域内での機能分担と非競争的共存、都市部からの投資による持続可能な経済循環などを提案し、さらに「地域分娩係数(仮称)」の導入を提言する。これは分娩費用が保険化されたとしても、全国一律の価格では地方の固定費を賄えないことから、地方も都市部も、売上低下を緩和し経営を維持できる変動乗数(係数)の導入が不可欠とする。
「地域分娩係数、別に地方だけではなくて都市部も含めて、地域独特の人口だけでは図れない独自性、例えば北国だったら雪が多いとか、そういう要素を含めた地域の特性を生かした係数を出すことで、適正化して分娩費用を補填していただけるというのがよろしいのではないかと思います」(遠藤氏)
同氏は係数の算定ロジックとして、地方都市であれば、極端な分娩数減少、医療従事者の確保困難、広大な移動距離という課題があり、超低ボリュームでもアクセスを維持するため、高い乗数が必要になるとする。また、都市部は分娩数低下、激しい競合、高額な土地代と生活コストという課題を抱えるため、過大な固定費や差別化コストを相殺するための係数調整を必要とするものである。
もっとも、この案に、医会関係者のA氏は「地域により分娩費用が変わるようだと、他の医療の世界もそれを望み、収拾がつかなくなり現在の医療体制が崩壊しかねません。難しいでしょうね」と懐疑的である。さらに「仮に正常な分娩の保険費用を(出産育児一時金と同じ)50万円に設定したら、東京の分娩取扱施設は全てなくなるでしょう」とA氏は加える。
こうした状況の中、松倉氏は有床診療所を支えるヒト・モノ・カネの観点から行政主導の支援の必要性を強調する。
「施設を維持していくための財政支援、人材確保の支援、地域連携の仕組みを行政主導で行っていただきたいと考えております。
分娩を扱う有床診療所は人口減少地域においても、いなくなったら困る存在です。道路、水道と同じく失われる前に支えるという発想が必要で、分娩インフラが脆弱であると認識されれば、ますます人口減少、分娩数の低下が起こって地域が衰退していき、自治体の消滅が起こっていく可能性があるということを理解していただいて、支援をお願いしたいと考えております」(松倉氏)
持続可能な周産期医療体制のため、松倉氏は現行の枠組みを超えた支援を求めている。
しわ寄せは若い世代に
分娩費用の保険化をめぐり、厚労省サイドでは、現物給付(保険分)の水準を現行の出産育児一時金(50万円)に多少上積みした程度とし、加えて現金給付を5~10万円程度、合計55~65万円のレンジで制度設計する方向で検討が進められているという。
従来の出産育児一時金に多少の上乗せをする程度の水準にとどまれば、周産期医療体制が抱える課題の解消には十分ではない可能性がある。
出産費用の無償化という国民ウケのする政策の裏で進む、地方の分娩取扱施設の窮状に向き合った上での新制度でなければ、その皺(しわ)寄せは、これから子どもを産み、育てる若い世代に及ぶことを念頭に置くべきであろう。
◾️松田隆
埼玉県生まれ。青山学院大学大学院法務研究科卒業。日刊スポーツ新聞社に約30年在職し、退職後にフリーランスとして活動を始める。2017年に自サイト「令和電子瓦版」を開設した。現在は生殖補助医療を中心とした生命倫理と法の周辺、メディアのあり方、冤罪(えんざい)と思われる事件の解明などに力を入れて取材、出稿を続けている。

