「今も足の指が曲がっているんですよ」――20代の山本智美さんは、父の仕事がうまくいかず幼少期から生活保護を受けていた。自らの家庭事情を察し、靴が小さくなっても「買って」と言い出せず、今でも後遺症ともいうべき影響が残っているという。

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 そんな山本さんを悩ませ続けてきた父とは、どんな人物なのか。貧困家庭の子どもとその支援に焦点を当てた書籍『大人は気づいてくれない 貧困脱出への伴走型支援』(岩波書店)から、埼玉県の学習支援事業「アスポート」による山本家の支援エピソード一部抜粋し、お届けする。なお本文中の人名は全て仮名。


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「父は外づらがいい」家族を悩ませてきたモンスターファーザーの素顔

「公務員は給料分、もっと働かないとね」。中学時代の山本智美さんの父は、アスポートの支援員、田中正樹さんが家庭訪問をすると、陽気になり、よくしゃべった。政治談議が好きで、公務員や経済政策を批判し、世の中への不満をぶちまけた。

「話が途切れなかった」と話す田中さんから見ると、「明るいお父さん」。20代になった智美さんは「父は外づらがいいから」とつぶやき、当時を振り返る。「中学校では家庭の事情を誰にも打ち明けなかった。親友にも先生にも」

 貧困にあえぐ家庭は複雑な事情が折り重なることが多い。家族で秘密を抱える場合、閉じた家の中は外から見えにくい。田中さんは「そこから子どもを引っ張り出すのがわれわれの仕事」と言う。

 だが、家庭訪問を何度重ねても見えてこない事情が山本家にはあった。

 田中さんが訪ねると、智美さんも食卓で父の横に座り、一緒に話を聞いた。その脇で母の京子さんは黙って夕食を準備し、他の兄弟も近寄ってこないのが、田中さんからすると不思議だった。智美さんは「仕方なく私が父の機嫌を取っていたんです」と話す。

 父は精神的な起伏が激しく、知らない農家の人と仲良く話して野菜をもらったかと思えば、近所の人とは衝突した。役所の窓口や食事中の店で急に大声で相手に食ってかかる姿を智美さんは冷めた目で見ていた。

「何か言えば、すごい勢いで反論されるから我慢していた。いつも父の言いなりで、ものすごいストレスでした」

 父は近くに多く住む外国人ともよくけんかした。京子さんは「昔、お金絡みで外国人とトラブルがあって、精神的な病気がひどくなった」と話す。

 智美さんが暗い顔で言う。

「父が頭から血を流して玄関で倒れていた時は本当に焦りました」

みみず腫れになるほど強烈に叩かれた

 暴力は家庭にも向いた。智美さんは父から母へのDVを見て育った。自分への虐待で鮮明な記憶は、中学時代、ハエたたきで強烈に脚をたたかれたこと。

「ハエたたきの形でみみず腫れになった。あれは痛かった……。家からの閉め出しは定番だった。小さい頃から、冬の夜でもよく外に出されました」

 子どもたち全員が父による閉め出しを経験した。玄関の鍵をかけられ、家の中に入れなかった。

「一晩はなかったけど……。寒い日、はだしに短パンで放り出されるのは、かなりヤバかったですよ」

 弟が家の前にいた時、近所の人が閉め出されていることに気づき、父に「また同じことをしたら、警察に通報します」と注意してやっと収まった。

「でも、暴力の後は突然、優しくなるんです。小銭をくれて『ジュースでも買ってこい』なんて。こういう心理のサイクルがDVの特徴なんですよね」。父の闇を探ろうと、智美さんはスマートフォンでDVについて調べていた。

「田中さんが来るのはありがたかったんです。父の機嫌が良くなって、その時は暴力を振るわないから」

 “外の風”が入ることは、田中さんが気づかないところで効果を発揮していた。

「中3の時が一番、家庭が大変でした」

 10年ほど前の夏、ついに両親が離婚した。どんな夫婦生活だったのか。母の山本京子さんが語る。

「向こうは中退したけど、高校が同じでした。卒業後に再会し、男女のグループで車に分乗して海に向かいました。あの人はいきなり事故を起こして」

 波乱を予感させる出会いだった。母は軽傷だったが、父は入院し、その後、プロポーズされた。

結婚してすぐ、後悔しました。式は挙げずに記念写真だけ撮り、費用は衣装代も含めて全部、私の貯金から。すぐ離婚すればよかったんですよね。でも、次々に子どもが生まれて……」

 話を聞いていた智美さんが叫ぶ。「そしたら、私、生まれてない!」。ただ「生まれて良かったと思うことはあんまりないけど……」とも付け加えた。

離婚後、父の暴力はより激しくなっていき……

 父は実家の自動車修理業を手伝いながら、いくつかの会社に勤めた後、自営で修理業を始める。若い頃から精神的に不安定で生活保護を受けていた。両親は離婚した後も、互いの家を行き来した。父は食事に来たり、母を呼び出したりした。

 智美さんは「両親は円満離婚」と話す。「もめることなく離婚した」という意味合いだった。「でも、何で会うのかと思った。前と変わらないなら、離婚した意味がない」

 慰謝料や養育費の約束もなく、両親は籍を抜いた。「母にはそんな知識がないから」とこぼす智美さんに、京子さんは「嫌だと言うと何をされるか分からない。あの人にはお金がないし」と言葉を濁した。

 中途半端な状態だったが、智美さんは高校受験に向けて熱心にアスポートの無料塾に通った。同じ日に近くの自治体で開かれる教室も掛け持ちし、支援員の田中正樹さんに送迎してもらって、2カ所に連続で参加することもあった。当時の口癖は「おなかすいた」だった。

「お菓子が楽しみでした。特にクリスマスはたくさん出たから良かった」

 智美さんは田中さんとはよく顔を合わせたが、父の暴力のことは口をつぐんでいた。そのため、田中さんは「離婚した後も子どもへの影響はそんなにないのかな」と感じ、家庭内の秘密を見抜くのは難しかった。智美さんが振り返る。

離婚した後、母への暴力はますますひどくなっていったんです」

「警察に行くなら行け!」壁には包丁が突き刺さり…“DV家庭”で育った20代女性が振り返る、学生時代の「残酷な記憶」〉へ続く

(岩波書店編集部/Webオリジナル(外部転載))