「最低な男だとわかっているのに、まだ好き…」憧れから始まった恋愛に29歳女が執着するワケ
港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:付き合ってない男との旅行。28歳女が2泊予定を切り上げ、1泊で帰ってきた意外なワケ
Customer3:恋人だと思っていた上司に騙され、全てを失いそうな水原桃子(29歳)
― あれ。ルビーがおとなしいな。
今夜の客である水原桃子(29)の話に登場する男はどうやらかなりのクズなのにと、BAR・TOUGH COOKIESの店長であるともみは不思議に思った。
『恋愛関係だった部下の桃子を騙して利用し、彼女のデザインを盗んだ。そのうえ、盗作したのは桃子の方だと、権力を行使し働けなくすると脅している。さらに別の女性との二股まで進行中』
という、桃子が話し始めてからまだ5分もたたない間に得られた情報を全て、聞いたままに信じるとするならば、桃子の恋人上司とやらは、クズのデパートと言わんばかりの男のようで。
いつものルビーなら、「アタシがシバキに行く!」とでも吠えて、桃子の隣に座りこみ、桃子を励ましながら一緒に飲み始める…というのがお決まりのパターンのはずなのに。
今日のルビーは大人しくカウンター内の端に立ち、グラスを磨きながら(しかもすでにピカピカで、磨く必要はないはずのグラスを)ともみと桃子の話に口出しをしてこないのだ。
らしくないルビーを気にしながらも、ともみは桃子に聞いた。
「恋愛関係の始まりは…どちらからだったんですか?」
桃子はぎゅっと唇をかみしめた後、絞り出すように言った。
「私が…ずっと憧れていたんです。彼のブランドはVérité/N(べリテ・エヌ)というんですけど」
そのブランド名はともみも知っていた。芸能界にいた頃、衣装で借りたこともあった気がする。おそらく10年以上売れ続けている人気のレディースブランドだ。
俳優やモデルにも愛用者が多く展示会などの写真はよくSNSにあがっているし、メディアにも頻繁に取り上げられているからデザイナーも有名人で、その顔もぼんやりとだがわかる気がする。確か名前は…。
「永井さん…彼のデザインのファンだったので、別のアパレル会社からVérité/Nに転職しました。本当は専門学校を卒業してすぐに彼のアトリエで働きたかったんですけどその時は求人がなくて。でも3年前に同じ業界の知り合いから永井さんがアシスタントを募集しているからどうかって言われて」
もう夢のようで飛びついちゃったんですよね、と悲しそうに微笑んだ桃子に、ともみは豆皿程の大きさのガラスの器にチョコレートを置いて差し出した。
「よかったら、どうぞ」
3cm×2cmくらいの長方形で薄いプレート形。店で出すには丁度いいと光江に教えてもらった、東京の老舗ホテルのオリジナルチョコレートだ。
ビターとミルクを1つずつで2枚。ビターの方はカカオ64%で甘みと苦みが絶妙に調整されている。
「なめらかなチョコレートに仕上げるには、長時間練り過ぎないことが大切らしいけど、やたらとこねくりまわしたらダメになるのは、チョコも人間関係も同じってことだねぇ」
ふいに光江の言葉が浮かんできたが、美味しいとチョコをかじった桃子に意識を戻す。
「確か永井さんだからブランド名にNがつけられていて…Véritéはどういう意味でしたっけ?」
何かで読んだか誰かに聞いたのか。ともみがうろ覚えの記憶を手繰り寄せたその質問に、桃子の顔が歪んだ。
「…真実。Véritéはフランス語で真実とか真価とかいう意味です。フェイクに溢れる世の中とか…トレンドに揺らぎ続けるファッション業界の中で、真実を探し続ける。真の価値を提供するブランドでありたい、的なコンセプトみたいで」
― それは、また。
人を騙し、デザインを盗み、二股するような男のブランドが『真実』とは皮肉なものだ。ともみがそう思った時、ルビーが、うさんくさ、とつぶやいた。
「真実を探し続けるとか言ってる時点で、僕、真実が何かわかってないんですってことを自分で発表しちゃってんじゃん。つか、そういう一見意味ありげだけど、実は何言ってるかわかんないコンセプトかます奴って大体詐欺師説」
ぼそぼそとではあるが、一気にまくしたてたルビーに桃子が目をまん丸にして驚き、ともみが、すみません、と説明する。
「ルビーは…なんというか、共感性が人よりだいぶ高いというか、桃子さんに感情移入しちゃってるんだと思います。ご気分を害されていたら申し訳ないです」
桃子が首を横にふる。
「いえ、実は何言ってるかわからないって、その通りだな、と。確かにうさんくさいですね。ふふっ」
桃子はルビーの表現がツボに入った様子で笑い始め、グラス拭きに戻ったルビーの顔にもうっすらと笑顔が浮かんでいる。まだいつもより勢いはないけど、うん、ルビーはそうじゃなきゃ。そう思いながらともみは桃子の笑いが落ち着くのを待った。

「最初はただの憧れでした。学生の頃からずっと憧れていた永井さんのアシスタントになれて。彼の仕事を近くで見れるだけでも夢見心地でしたし、パリやロンドン、ミラノコレクションの度に同行させてもらいました。そうやってずっと一緒にいるうちに…」
「…好きになっちゃったのかぁ。ま、いい男と言えばいい男っぽいしねぇ」
切り込んだルビーに、デザイナーを知ってるのかとともみが聞くと、検索したらしい携帯画面をずいっと見せられた。
「ともみさんには物足りないだろうけど、まあイケメンだよね」
と、ルビーにいたずらっぽく笑われ、大輝と比べたら物足りないでしょ?とからかわれたのだとわかったが無言でスルーして携帯を受け取った。
―さっきまでの大人しさはなんだったんだろ。
なぜか突然調子を取り戻してきたらしいルビーの様子を不思議に思いながら、ともみは男性の顔を拡大する。
切れ長の瞳にすっきりとした鼻筋。肩につきそうな黒髪。全身写真もあったが手足も長くスタイルもいい。ただ美しいかと思うかと言われたら、否。
ファッションや雰囲気でイケメンに見せられるタイプだと、ともみは画面の中の男性に厳しい評価を下しながら、その名前にも目を止めた。
― 永井達也(ながいたつや)
さっきから桃子は男性を名字で呼び続けている。憧れの人として出会い、師匠になった敬意から、恋愛関係になっても呼び方を変えられなかったとしたら…ともみは桃子の性格の真面目さ、奥ゆかしさを想像しながら聞いた。
「さっき彼には本命の彼女が別にいて、知らぬ間に二股をかけられていたと仰っていましたけど、桃子さんが彼と恋人になった…と思ったきっかけはあったんですか?」
ともみは別に二股が悪いとは思わない。ただしそれは…二股をかけていることを相手に隠さず関係を始めること、そして、罰を受ける覚悟を持つという“責任”を、きちんと背負うことが大前提だ。
「私は…さっきも言った通り、もうずっと憧れの人だったので。一緒に働き始めてすぐ、面倒見も良くて優しいことも知って。気が付いた時には永井さんに恋をしていたと思います。
でも、私なんかが彼女になれるなんて思ってもいないどころか恐れ多くて。永井さんがモテることは知っていましたし、ウワサになる人たちはモデルさんとか女優さんとか、華やかな人ばっかりで。
私なんかが気持ちを伝える勇気なんて持てなかった。距離を縮めてくれたのは…永井さんでした。確か入社して半年がたった頃から週に2〜3回、その日の仕事が終わると、私のデザインを永井さんが添削してくれるという時間が持てるようになったんです。
気持ちを伝えてもらったのは、永井さんに初めて褒めてもらえた日だったから。夢みたいだったあの日のことは…忘れたくても忘れられません」
ともみは、今の桃子の状況を考えると、男は桃子の才能を利用するために距離を縮めたのではと想像した。
「私の夢が、いずれ自分のブランドを持つことだっていう話もバカにせずに聞いてくれて。あの日、見てもらったデザインは、春風の中で揺れることをイメージしたワンピースで。
ずっと寒かった季節に春の風が吹くと、イヤなことやつらいことを吹き飛ばしてくれる気がして、私、春が大好きなんです。だから春風の中で感じる、新しいことが始まる予感がするあのワクワク感をワンピースに落とし込みたくて、風に抗わない線、というテーマでドレープの入ったワンピースを書いたんです。
そしたら、君の描く線には独創性があって命があるって。風に抗わない線、というのがすごくいいコンセプトだと褒めてくれて。でも…後になって、このコンセプトを永井さんに盗まれちゃって。私に無断で…自分のアイディアとして発表しちゃうっていう地獄を見たわけなんですけどね」

裏切られたことを地獄だと表現し、自虐的な笑みを浮かべたままその目に涙をにじませながらも尚、男がくれた言葉を“忘れられない”と語る。その桃子の表情に、恋の喜びのかけらが、ほんのわずかだけれど残っているように見えたからだ。
― 彼女はまだ、彼への気持ちを…恋を捨てきれていないのではないか。
疑問を浮かべたともみが言葉を選んでいると、ルビーが呑気な声を出した。
「風に抗わない線、かぁ。風に身を委ねるとかだとありがちな表現だけど、抗わないってすごくイケてるコンセプト。桃ちゃんって才能あるんだねぇ。アタシ、桃ちゃんの作った服を着て踊ってみたくなっちゃった」
あ、私ポールダンサーやってるんだぁと、いつの間にか生ビールの入ったグラスを手にし、よいしょ、と桃子の隣に座った。
いつものペースを取り戻したどころではないルビーの豹変に、ともみは呆気にとられたが、桃子は“ポールダンサー”という自己紹介に驚きつつも、同席されることも、桃ちゃんと呼ばれることも、あっさりと受け入れている。
「裏切りはともかくとして……どうやって付き合うことになったの?」
ルビーが聞いた。
「その日に、水原さんだった呼び名が桃ちゃんになって。オレは桃ちゃんに才能を感じてるし、その才能を育てて伸ばしてあげたいと思う。でもそれとは別に、仕事の上司と部下というだけではなく、1人の女性として桃ちゃんに惹かれてる、って言われました」
「…惹かれてる。それから?」
「ずっと一緒にいても疲れないアシスタントは初めてだし、オレたちはプライベートでも相性がいいと思う。桃ちゃんはオレのこと、男としてはどうかな、と言われて」
「…それから?」
「私も男性としても好きですと答えて、付き合いが始まったんだ…と思います」
「あ〜出たよ、肝心なことは何も言わない系オトコ。そりゃ本命がいたからだろうけど、付き合おうとか、恋人になってとか…実は言われてないでしょ?」
ルビーの問いに黙ってしまった桃子が、ベリーニがほんの少しだけ残るシャンパングラスの柄をグッと握った。その緊張を和らげようと次のお酒はどうされますかと聞いたともみは、ふとルビーが自分を心配そうに見ていることに気がついた。
― なんで、ルビーが私をそんな目で見るの?
でもそれはほんの一瞬で、ルビーの視線はすぐにともみから離れ、黙ったままの桃子に戻った。
「桃ちゃんだって本当は、とっくに気がついてたでしょ。女性として好きだとは実は一度も言われてなかったりしない?ってことは、その男は最初から、桃ちゃんの才能が欲しかった。
もしかしたら自分の才能に限界を感じ始めてたとか?そんな時に桃ちゃんの才能をみつけた。で、うまく自分に懐かせて、プライベートでも支配して、アイディアをどんどん盗もうと思った。ってことでアタシの読み的には、その男は一度も、桃ちゃんに恋をしていないと思うんだけど」
「…ルビー、その言い方はダメ。やめなさい」
すみませんと桃子を見たともみに、いえ、と小さく答えてから桃子は続けた。
「私にはそんな才能なんて…彼が私を利用したいと思う程の才能があったとは思えません。だから多分最初は…」
「純粋な恋だったと思いたい?それに自分に才能がないって本当に思うの?じゃあなんで今、そんなに怒ってるの?」
「…怒ってるっていうか…」
「アタシには怒ってるように見えるし、桃ちゃんはまず、自分が本当は何に怒ってるのかをはっきりさせた方がいいと思う。そもそも盗作されたと思うなら、会社に訴えればいいだけなんじゃないの?全て渡して証拠がないっていうけど本当に?探せばきっと何かはあるはずでしょ?」
「だって彼が社長で彼の会社なんですよ?それでも…大きな会社じゃないけど、コンプライアンス担当のスタッフもいるし法務部もあるから、その人達にも訴えにいきました。
でも私が会社に属して永井さんのデザイン室で働いている限り、私が仕事場で勤務中に描いたそのデザインは職務著作…とかいうやつになって、自動的に会社に権利が帰属するそうなんです。
上司に指導を受けていた時間は勤務中にあたるし、私はデザイナーのアシスタントという職務なのだから、アシスタントの発案を使って永井さんがコンセプトを決めたり服を作ったりすることは、法的には問題がないと言われてしまって」
ルビーにあおられたかのように、桃子の言葉の熱が上がっていく。
「それに、デザインが描けてもそれを売れる服に落とし込めるかは別の才能だからと。たとえ自分のアイディアだったとしても、私がそれを服という形にできなかった可能性は大いにあるのだから盗作ではないと。
その上、私が永井さんにフラれたことを逆恨みして、盗作騒ぎを起こしていると噂が広まって。親切に指導してくれていた永井さんを裏切った女、ちょっと優しくされただけで勘違いして舞い上がったイタイ女だって。社内だけじゃなく取引先とか…業界にも噂がまわったみたいで。はれ物に触るような扱いを受けるようになってしまったんです。私にはもうこれ以上…どうしようもなくて」
その状況がともみには痛いほどわかった。火のないところに煙は立たないというのはウソだ。保身に走る権力者によって0が100となり、事実が捏造され、それがまことしやかに広がっていくことがあることをともみは実体験として知っている。
しかも桃子にとっては…保身に走り彼女を傷つけたのが、ただの権力者ではなく恋した男だった。うつむいたままの桃子になぜだか胸がざわついたともみは、ルビーを再度制した。
「ルビー、まっすぐな正論が通じないときだってあるんだよ?正義がいつでも勝てるとは限らないんだよ?」
ともみが諭すと、ルビーは、へぇ〜意外!と驚いた。
「ともみさんがそんなこと言うなんて。盗作するような男、しかも色恋仕掛けてだました相手から盗作するような男なんてただのクソじゃん。どんな手を使ってでもバキバキに復讐してやるべきじゃない?法的に戦えないなら、SNSにだってなんにだって晒してやれば…」
「ルビー!」
今度はともみが驚いた。自分の声が思いのほか大きくなってしまったことに。固まり自分を凝視する桃子に慌てて、今日何度目かの謝罪をし、小さく息を整えてからルビーを見た。

「その男がどんなに最低な男でも、桃子さんにとっては大切な人だった。だからルビーが彼を否定して、桃子さんの幸せな思い出を傷つけて奪おうとするのは間違っていると思う。復讐したところで…桃子さんが本当に欲しいものが手に入るとは思えないしね」
ルビーは黙ったままだ。桃子の目にじわじわと涙が浮かんで、こぼれ、ともみの胸のざわつきが痛みに変わった。
― 私は何を言おうとしているのだろう。
らしくないことをしようとしている自分を、もう一人の自分が驚きながら見下ろしている感覚で気恥ずかしい。それでも言葉を止めようとは思えなかった。
「桃子さん、あなたはまだ、彼のことが嫌いになりきれないんですね」
桃子の顔が泣き笑いに歪んだ。そして頷き、バカみたいですよね、バカなんですけど、と繰り返す。
報われず、憎しみさえ生まれても、想いは簡単には消えてくれない。その葛藤に足掻く桃子に自分が共感しているということに、ともみはまた驚きながら続けた。
「ゆっくり聞かせてください。桃子さんがなぜ彼を嫌いになりきれないのか。彼との…恋の思い出を教えてください。誰にどう思われるとかどうでもいいし、気持ちが混乱したままなら、それをそのまま話してくれてもいい。とにかく桃子さんの本心を聞きたいです」
盗作についての話はそのあとで、とルビーを睨んで念押ししたともみにルビーは大人しく頷き、桃子は涙で語り始めた。
▶前回:付き合ってない男との旅行。28歳女が2泊予定を切り上げ、1泊で帰ってきた意外なワケ
▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱
▶NEXT:5月20日 火曜更新予定