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 経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回は株式会社東芝の業績について紹介したいと思います。
 三井財閥系の東京芝浦電気を前身とする東芝は、原発やインフラ設備・家電と、重電・軽電の両方を担う総合電機メーカーとして成長しました。同社は経団連会長も輩出し、日本を代表する企業となりました。しかし2000年代から消費者向けの事業が悪化すると粉飾決算を行い、頼みの綱である原発事業では不良案件を掴まされたことで、ボロボロな状態に陥りました。不正とガバナンスの甘さで凋落した東芝の歴史を振り返りたいと思います。

◆「日本初の製品」を数多く生産

 東芝は1939年に芝浦製作所と東京電機が合併して誕生した東京芝浦電気を前身とします。戦前から戦時中は電球や真空管、発電機などを生産し、戦後は日本初のテレビ放送機や電子レンジ、カラーテレビを開発して先端製品の国産化に尽力しました。60年代はテレビの量産で台頭しましたが、三洋電機や松下電器、シャープなどの競合も多く、家電全般における当時のシェアは2割程度だったと言われています。

 重電分野では1970年に敦賀原発の1号機から商用原子力発電所の事業を開始し、71年に運転を開始した福島第一原発の1号機では運用を担いました(設備はGE製)。同原発の3号機から設備及び運用の両面で東芝が担うようになります。

◆先端分野でシェアトップを握る

 1984年には社名を東芝に変更し、翌年には世界初のノートPC「T1100」を発売しました。また、80年代全般にかけて半導体事業に2,000億円を投じ、1MのDRAMでは世界シェアトップの座につきました。重電・軽電メーカーとして、国内外の電気インフラを支えたのです。

 90年代にはNAND型メモリでも台頭し、1994年から2000年の間はノートPCの販売シェアで世界トップの座を維持し続けました。国内では「dynabook」ブランド名で知られています。しかし米中勢の台頭を前にノートPCのシェアは落ち込み、DRAM事業からも撤退しました。2008年3月期に売上高は7兆6,653億円のピークを迎えるも、家電分野では海外シェアを伸ばせずに苦戦。国内事業も落ち込む中で不正に手を染めるようになりました。

◆「不適切会計」という名の粉飾決算

 東芝は2008年度から7年間、約2,200億円の利益を水増しして粉飾決算を行いました。同社は「不適切会計」のフレーズを多用していますが、紛れもない粉飾決算です。“不適切”という単語は不正した企業が使いたがる傾向にあります。内部告発をきっかけに証券取引所等監視委員会から開示検査を受けたことで不正が明らかとなり、2015年5月に第三者委員会が設置され、不正の調査が始まりました。

 パソコン事業ではバイセル取引を多用して利益を水増ししたほか、テレビ事業では「キャリーオーバー」と呼んで経費計上の先送りが常態化しました。海外勢の台頭で業績が悪化する消費者向け事業を中心に不正を行ったのです。当時の経営陣は「チャレンジ」という言葉に置き換え、不正を命じたと言われています。粉飾決算を行った結果、東芝は信用とブランド力を失いました。しかし、業績にとって大打撃となったのは後述する米国の原発事業です。

◆WH社の大幅赤字で債務超過に陥る

 消費者向け事業が難航していた東芝は原発事業に賭け、2006年に英・原子力事業のWH社(ウェスチングハウス社。正確には2社)を買収しました。東芝の原発は沸騰水型(BWR)である一方、WH社は加圧水炉型(PWR)です。世界の主流はPWR型であり、原発で海外展開を強化したい東芝はWH社を欲していました。しかし企業価値が2,000億円といわれるWHを6,000億円で取得しており、この時点で甘さが露になっています。