細川たかしの「黄金時代」から美空ひばりの死まで…80年代「演歌の大ヒット曲」が生まれた時代的背景

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スージー鈴木の『Now And Then』第24回(後編)

80年代に流行した日本の音楽を語るとき、昨今では山下達郎や松任谷由実を筆頭とする「シティポップ」が挙がることが多い。一方で、五木ひろし『おまえとふたり』や八代亜紀『雨の慕情』、竜鉄也『奥飛騨慕情』など、メガセールスを記録した演歌が数々生まれた時代でもある。〈「80年代はシティポップだけの時代」は、盛大な勘違い…なぜ売れた?「エイティーズ演歌」の知られざる魅力〉に続く後編では、1975年にデビューした演歌界のレジェンド・細川たかしの功績から紹介していこう。

細川たかしの黄金時代

1982年と1983年は、「ミスター・エイティーズ演歌」が仁王立ちする--細川たかしである。黄金時代と言っていいだろう。

何といっても『北酒場』(82年)、『矢切の渡し』(83年)で両年のレコード大賞を連覇しているのだ。

この2曲で使われているのが「メジャー演歌音階」である。専門的には「ヨナ(47)抜き長音階」。長調の主音(キーが「F」の『北酒場』ではFの音)を「ド」として、長音階「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の4つ目と7つ目、「ファ」と「シ」のない「ド・レ・ミ・ラ・ソ」の5つの音だけで構成されているのだ。キー「C」で記譜するとこうなる。

また私が弾いてみた。こちらは聴くだけで、ちょっと楽しくなってくる。

これは一般に「(メジャー)ペンタトニック・スケール」と言われる音階で、演歌だけでなく、ブルースやら、世界の民謡で使われているシンプルで土着的な音階である(『アリラン』も『蛍の光』も)。『矢切の渡し』は完全に「メジャー演歌音階」、『北酒場』もほぼほぼ、この音階だ。

そんな音階を細川たかしが、あのカラッとした声で歌うことで、『おまえとふたり』『奥飛騨慕情』『さざんかの宿』の「マイナー演歌音階」とは対極の、何というか、大陸的なおおらかさを醸し出している。

特に『奥飛騨慕情』と『北酒場』は、それぞれ「エイティーズ演歌」の極北、極南といっていいだろう(あっ『北酒場』の方が極北か、「北」だけに)。

中森明菜並みに売れた芦屋雁ノ助

さて、細川たかしの2曲について、より売れたのは『矢切の渡し』(約103万枚)の方で、『北酒場』(約77万枚)を大きく超えているのだが、個人的な印象は『北酒場』の方が断然強い。

タイトルこそ「ザ・演歌」といった感じだが、サウンド的には、かなりポップス寄り。そういえば修学旅行のバスの中で、みんなで歌って盛り上がった記憶もある。

そんな私の1982年はまだ高1なので、カラオケの場など、憶測の域を出ないが、歌自慢の酔客が『奥飛騨慕情』を1人切々と歌った後、店の客が『北酒場』を全員で朗らかに唱和するイメージが思い浮かべることが出来る。

さて、実は『北酒場』の前年=1981年、同じく「メジャー演歌音階」の都はるみ『大阪しぐれ』が大ヒットしていたのだが(約115万枚)、五木ひろし同様、フィジカルの強みを活かしてビブラートを効かせた「はるみ節」よりも、カラッとサラッとした「たかし節」の方が、間口が広く感じる。

演歌のメジャー化、ポップ化、カラッとサラッと化--このあたりが「細川たかし黄金時代」のポイントなのだろう。

なお、この「メジャー演歌音階」の流れを汲んだのが、84年、チェッカーズと中森明菜の楽曲にはさまれながら、年間ベストテン級に大ヒットした芦屋雁之助『娘よ』。売上枚数約80万枚を叩き出したのは、何とも朴訥とした、ある意味、細川たかしよりも間口の広い歌い方が寄与したはずだ。こうして1980年代前半が暮れていく。

1987年の演歌大ヒットラッシュ

1985年〜1986年の年間ランキング上位に、演歌の顔ぶれは見つけられない。レコード大賞は中森明菜の2連覇、そしてチェッカーズ、さらにはおニャン子クラブ勢が押し寄せる中、さすがに「もう演歌じゃないだろう」という空気になったのか。

今や演歌界を代表するアンセムである石川さゆり『天城越え』が1986年にリリースされているが、驚くべきことに、たった5万枚にも満たない売上で、リアルタイムでは痕跡を残していない。

「エイティーズ演歌」、ここに終われり……。かと思いきや、翌1987年に、なぜか怒涛の大ヒットラッシュを迎える。

瀬川瑛子『命くれない』、吉幾三『雪國』、尾形大作『無錫旅情』、五木ひろし『追憶』というラインナップが、年間ランキングの上位にひしめくのだ。特に『命くれない』は、この年、もっとも売れたシングルとなる(約69万枚)。

この4曲を、音階的に見比べれば、『命くれない』は例の復古的「マイナー演歌音階」なのだが、それ以外は、5つの音しか使わない「演歌音階」ではなく、「ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ」と7つの音すべてを使う普通の=つまりはモダンな短音階である。

「フォーク演歌」という感じの『雪國』、「グループサウンズ演歌」(?)の『無錫旅情』、そして五木ひろし『追憶』には「ニューミュージック演歌」というか、安全地帯『ワインレッドの心』(83年)あたりが、そこはかとなく漂ってくる感じがする。

ネタ消費されながらも生き延びていく

ただ、それ以上に重要だと思うのが、これらの「87's=エイティーセブンズ演歌」のヒットを促した「ネタ感」である。ネタとしてイジられ、ネタとしてもてあそばれることで売れたという構造が、明らかにあったのだ。

具体的に言えば、当時全盛の物まね番組で、頻繁に見た。今ざっと検索したら、栗田貫一はフジテレビ系『ものまね王座決定戦』のシリーズで、どうも『命くれない』『雪國』『無錫旅情』3曲すべての「本人物まね」をしているようだ。そして五木ひろし『追憶』といえば、やはりコロッケである。

ロック化、そしてJポップ化していく音楽シーンの中で「エイティーズ演歌」も、シーンとの距離感から、いよいよ「ネタ消費」されながら生き延びていくのであった。

そして1988年、1989年と、年間ベストテン級大ヒットに顔を出さず、「エイティーズ演歌」は終わりを告げる。

1989年の美空ひばり『川の流れのように』なんて、今となっては「昭和を代表する特大ヒット」と思われているふしがあるが、売上枚数は42万枚と、ここまで紹介してきた「エイティーズ演歌」と比べて、リアルタイムではそれほどではなかった(なお、シングルとしての発売日は「1989年1月11日」で、昭和ではなく平成)。

そして90年代以降、吹き荒れるJポップ化の波の中で、演歌は微妙に形を変えながら、何とか生き延びていくのだが、ここで紹介した「エイティーズ演歌」の大ヒットと並べられる水準にまで売り上げたのは、ある意味で芦屋雁之助『娘』の続編的な大泉逸郎『孫』(99年)ぐらいである(公式データ上でミリオンセラーを達成)。

ちなみに音階は「マイナー演歌音階」。モーニング娘。『LOVEマシーン』の時代に『奥飛騨慕情』と同じ音階で大ヒットしたのだから、ある意味すごい。日本最後の「ミリオン級演歌」となるのだろうか。

マイナー演歌音階の曲が売れた理由

以上「エイティーズ演歌」の流れを追ってみた。繰り返すが、私の個人的「演歌」定義に従ったもので、かつ大ヒットに絞った論立てであることを、ここで再確認しておく。

しかし、とにかく「1980年代=シティポップの時代」「1980年代=サザン・ユーミン・達郎の時代」という矮小化と、その結果としての「演歌ウォッシング」に対して、「いや、演歌もかなりの存在感だった」と感じていただければ、慣れない演歌と格闘しながら書いた本稿の意味もあるものだ。

ただ「ザ・演歌」「ザ・大ヒット」の話しかしていないので、少しだけ補足すれば、例えば(先述『ワインレッドの心』に加えて)、もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』(80年)など、本稿の定義でいう「演歌」ではないものの、当時のカラオケの場で映える境界的=「演歌ポップス」的大ヒット曲が、いくつもあったことも、ここで確認しておきたい。

最後に。もしかしたら若い方は、なぜ松原みき『真夜中のドア』(79年)の直後の時代に、そして竹内まりや『プラスティック・ラブ』(84年)の前後の時代に、なぜ、こんな古臭い曲が、特に「マイナー演歌音階」の曲が、大ヒットしたのか、不思議に思うかもしれない。

もちろんその背景には、カラオケの主戦場がスナックやクラブで、つまり中年をターゲットしていた場だったことが大きいのだが、加えて、ある意味当たり前、でも鮮烈な事実を確認すれば、例えば1980年代のど真ん中の1985年における中年=40代は、昭和10年代生まれ。つまりはほぼ全員「戦争体験世代」なのである。

超高齢化社会の演歌なんて、どうでしょう?

今の私より若い世代、でも幼少期に何らかの形で戦争を体験している1980年代の中年が、仕事や生活や人生にまつわる想いを託しながら、切々と歌った、もしくは全員で朗らかに唱和した「エイティーズ演歌」--。

そう思うと演歌を敵視していた当時の自分を、ちょっと悔い改めたくなってくる。たまには演歌をちゃんと聴いてみようかと思ってしまう。さらには、そろそろ久々に、演歌の大ヒットが出てきてもいいのに、とも。

「2020's演歌」の大ヒット--どんな曲だろうか。そうだ。超・高齢化社会を受けて『娘よ』『孫』に続く『ひ孫』なんか、どうだろう。

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【前編を読む】「80年代はシティポップだけの時代」は、盛大な勘違い…なぜ売れた?「エイティーズ演歌」の知られざる魅力