梅宮アンナさん(撮影:本社・奥西義和)

写真拡大 (全2枚)

19歳でモデルデビュー以来、カリスマ的な人気を博している梅宮アンナさん。2024年に乳がんのステージ3Aで闘病していることを公表し、現在も自らの体験を日々発信されています。そんな経験を通して、梅宮さんは「乳がんになって、私はやっと生きがいを見つけた」と語ります。そこで今回は梅宮さんの著書『フルコース がんと私と家族の日々』から一部を抜粋し、赤裸々ながん闘病記をお届けします。

【写真】乳がん診断から約2年…積極的に発信を続ける梅宮アンナさん

* * * * * * *

右胸が縮んでいる

2024年5月下旬。いつもと変わらない朝のはずだった。

でも、その日は違った。

目を覚ましたら、シャワーを浴びて鏡を見る。それが私の毎朝のルーティン。タオルで濡れた体を拭いて、ふっと鏡に目を向けた、その瞬間、息を呑んだ。そこには昨日までとは明らかに違う自分の姿が映っていた。

右胸が縮んでいる――。

カップ数でいうと、Cカップから、Aカップぐらいにシューッと。それに乳首のあたりがえぐれて、なんだかデコボコもしている。

「え、私の更年期障害って、こうなんだ」

真っ先に、そんなことが頭に浮かんだ。

当時の私は51歳で、更年期らしい症状はほとんどなかった。体がほてったり、のぼせたりするホットフラッシュが出たこともなければ、唸り声を上げちゃうような頭痛を感じたこともない。「女性ホルモンの減少で、乳房が小さくなることがある」という話を聞いたことはあった。だから、自分の縮んだ胸を見て「ああ、これが私の更年期か」と妙に納得した。

けど、それだけで片付けてしまうことに、わずかな違和感もあった。

仕事をしても、ママ(クラウディア)とランチに出掛けても、ネットフリックスで映画を観ても、「ほんとに更年期障害なのかな」「ちゃんと診てもらったほうがいいかな」。ふっとした瞬間に不安がよぎる。そんな気持ちは日増しに大きくなって、段々、自分だけでは抱えきれなくなった。

気づけば娘の百々果にLINEを送っていた。

「ねえ、私のおっぱい、なんか違うんだよね。右と左が」

百々果はアメリカのカリフォルニアで暮らしていた。向こうは仕事中だったはず。

だけど、すぐに返事がかえってきた。

「えっ、どれくらい?」

「一個はシリコン入ってる感じ」

「えっ」

自分の胸の写真を送った。

「ママ、それマズいよ。病院へ行ったほうがいい」 

百々果の言葉は短かったけど、重かった。明らかに動揺している。でも、私にさとられないよう冷静なふりをしているのもわかる。だからこそ響いた。

百々果の反応を見て、更年期障害で片付けることはやめた。

私ひとりで生きてるわけじゃない

自分を安心させようとしていただけ。臆病なマインドは一気に吹き飛び、「病院の診断でハッキリさせよう」と考えるようになった。

私には娘とママがいる。自分だけで不安を抱え込んで、何も言わず、何もしないで大事になったら、ふたりはどうなるのか。それを考えていなかった。


『フルコース がんと私と家族の日々』(著:梅宮アンナ/文藝春秋)

私ひとりで生きてるわけじゃない。家族を安心させないと。

すぐさま病院に電話をして、マンモグラフィとエコーの予約を入れた。パパ(梅宮辰夫)も通っていた戸山にある「国立国際医療研究センター」だ。私も人間ドックでお世話になっている。

毎年、マンモグラフィは受けていたけど、こんなに緊張したことはなかった。

これまでの検査では異常が出たことはない。でも、今回は右胸が明らかに縮んでいる。安心できる結果が出るとは思えない。それでも、心のどこかで医者の先生には「更年期障害ですね」と言ってほしかった。

検査技師の人たちは、何百、何千、ひょっとしたら何万もの女の人たちの胸を見てきたわけだから、私の胸だって、パッと一瞬見ただけで良いか悪いかわかるはず。「どうですか?」と聞きたい衝動をグッとこらえる。

血液検査もして、結果がわかるのは、2週間後の6月13日。そのときに、針生検で細胞も取ることになった。より正確な診断をするためらしい。

ドイツで感じた強烈な痛み

結果が出るまでの間、私はドイツのデュッセルドルフに行っていた。

以前から、パッケージのデザインに興味があって、友だちから「ドイツで『インターパック』の国際展示会がある」と誘われていたからだ。一般の人はなかなか参加できない、またとない機会。

ちょっとマニアックだけど、私は何かに興味を持つと、根っこから知りたくなる。そうなったときの行動力と決断力は自分でも驚くぐらい。もし就職の履歴書を書くなら、長所の欄にはこう書くはず。「猪突猛進」って。

いまさらキャンセルできるわけもない。右胸も縮んでいるだけで、幸いなことに痛みはない。まあ、大丈夫でしょ。

ためらうことなくデュッセルドルフへ飛んだ。

展示会は「素晴らしい」の一言で、私は大満足。華麗なデザインや使いやすさ、考え抜かれた包装用品の数々に感動するばかり。

でも、甘かった――。突然、右胸に強烈な痛みが走った。

胸が収縮して、周りの皮膚が引っ張られているような感じ。いや、なんだろう、右胸が渦を巻いて、私の体全体が無理矢理ねじ込まれていく……。そんな痛みだ。

何をしようにも、痛くて動けない。じっと我慢したところで治まることもない。

日本から持ってきたロキソニンを飲むと、少しは楽になるけど、それもほんの束の間。痛みが出たら、また飲む。瞬く間に手持ちのロキソニンが無くなり、現地のドラッグストアで痛み止めを買う。それでも、痛みは止まらなかった。たぶん、100錠以上は飲んだと思う。

「私の体、どうなっちゃうの……」

感じたことのない恐怖に襲われる。異国のドイツにいたことで、なおさら不安にもなった。これはマズイ……。

仕方なく、急遽、日本へ帰国することにした。

「申し訳ないんだけど、私、帰ります。なんだか、おっぱいの調子が悪いんで」

一緒に来ていた友だちにそう伝えると、みんなキョトンとしていた。

乳房専用MRIを受診

結果がわかるまでにはまだ1週間近くあった。この時間がひたすら長く感じる。

右胸が疼くたびに「早く教えてよ!」と声を上げたくなる。

このころの私は「心ここにあらず」だったと思う。家でスマホをいじっていても、いつのまにか「胸の痛み」「検査方法」なんて検索して、数時間がたってしまう。

そのときだった。知人の紹介で「A」クリニックを知ったのは。乳房専用のMRI検査をやってくれるらしい。

「マンモグラフィのように痛くありません」

そう宣伝していた。

マンモグラフィは乳房専用のX線検査のことだ。乳房全体を機械の板で平たくして圧迫しながら撮影するので、強い痛みを感じることがある。

MRIはうつ伏せになって機械に胸を入れるだけ。痛みはない。そのうえ血液検査もないし、造影剤も打たなくていいらしい。

「A」クリニックは、保険のきかない自費診療だった。だから、お金も全額自己負担。たしか、3万円はしたと思う。

でも、医者からの紹介状が必要ないから、大病院みたいに予約待ちをしなくていい。パッと気軽に受けられる。当時の私には、それが何よりもの魅力だった。

とにかく一刻も早く、胸の異常が何なのかを知りたい。藁にもすがる思いで、Aクリニックに飛び込んだ。

「がんではありません」

数日後、Aクリニックから検査の結果が送られてきた。

「判定B」同封されていた医師からの診断書にはこう書かれていた。

「嚢胞です。がんではありません」

本当なら「がんではない」の一言にホッとするところだ。でも、私はなんだか安心できなかった。本当にそうなのかな。信じて放っておいていいんだろうか。自分からすがるように受けた検査だったけど、かえって心がかき乱された。

思わず、診断書をゴミ箱に捨ててしまった。

ママがそれを拾い上げて、

「よかったじゃない。これ以上調べなくていいから」

なんてのん気に胸を撫で下ろしている。

私は食ってかかった。

「でも、おかしいじゃない。血液検査もやってない、生検も取ってない。私はいまも痛みを感じているのに……、それで嚢胞って。納得できないよ」

このころには頭の片隅で「がんかもしれない」とは思っていた。

疑念以上、確信未満だったけど、右胸の形が変わって、半月もの間、強烈な痛みが引かないのは、どう考えてもおかしい。

Aクリニックの検査結果を見て確信した。やっぱり、私が求めていたのは、耳当たりのいい安心なんかじゃない。自分の体の中で、何が起きているか真実を知ることだ。

カジュアルな告知

6月13日。再び国立国際医療研究センターに行った。

あの日のことは忘れもしない。

マンモグラフィとエコーの結果を聞き、針生検を受けるためだ。

ようやく診断が出される。

私は最悪の結果になる覚悟ができていたけど、心配だったのはママもついてきたこと。ママは何か問題があっても、なんでもいいほうに考える。

右胸の形が変わったことや痛みがあることを伝えても、「そんなの気にしなくていいわよ」の一言。親にこんなこと言うのはどうかと思うけど、いつも「お花畑」にいるような感じ。そんなママに耐えられるかな。

もう一人、マネージャーもついてきた。

彼とはかれこれ30年近い付き合いだ。以前、私が所属していた大手芸能事務所時代からの担当で、その後、フリーになって、私が立ち上げた事務所でマネージャーをしていた。「アンナに何かあっては、今後の芸能活動が……」なんて心配したんだと思う。

診察室には女医さんが待っていた。

たしか、検査のときにもいた先生だ。ほんわかした雰囲気で優しそう。

「先生、今日は母が一緒でも大丈夫ですか?」

「あ、全然どうぞ、ぜひご一緒に」

あまりにも軽い口調で「ご一緒に」なんて言われたので、「あれ、がんじゃないかも」と思った。そして、私、ママ、マネージャーの3人が並んで、女医さんの説明を待つ。

緊張の瞬間……。

「えーと、がんがあります」

いきなりだった。

えっ、そんなにカジュアルに言うんだ。それが、私が最初に感じたこと。なんだか明るいな。でも、「やっぱりな」とも思った。

浸潤性小葉がん

「部位は右乳房で、ステージ3Aです。右腋窩(腋の下)リンパ節に転移もあります」

ステージ3A、リンパ節転移……。次々と深刻な病状が告げられる。あまりにもサラッと言うので、驚くタイミングを逃した感じ。

正直、ママには直接聞かせたくなかった。隣に座っているママがどんなリアクションをとっているのか、怖くて見られない。「かわいそうなところにママを連れてきちゃったな、ひとりで来るべきだったな」。そう後悔した。

マネージャーは、相当ショックを受けていた。こういうときって意外に女よりも男の方が弱いのかもしれない。

診察室がシーンと静まり返る。

「アンナさんの乳がんは、希少がんにあたる浸潤性小葉がんになります」

シンジュンセイショウヨウガン?

聞いたことのない病名に頭の中で「?」がいくつも浮かぶ。

ママはローマ字で「shinjunsei syouyou gan」と、病名を一生懸命メモに取っている。

先生の説明によると、浸潤性小葉がんは乳房を構成する組織の小葉に発生する乳がんの一種らしい。「希少」というだけあって、発生率は乳がんの中でも、たったの5〜15%ほど。歳を超えた女性に発症することが多いとか。

自分でも不思議とパニックにはならなかった。

「ええ! なんで私が、がんになるの!?」というよりも、「ああ、やっぱり私の番が来たか」。そんな感じだ。なぜか。そういう性格だからとしか言いようがない。おかげで幼いころから、人生の重大局面では、けっこう冷静でいられた。

※本稿は、『フルコース がんと私と家族の日々』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。