《美輪明宏さん死去》「世の中の不条理と戦ってゆく同志のような存在…」“一番の追っかけ”“第2の母”と慕う假屋崎省吾さんが追悼「私の心の中には、ぽっかり大きな穴があいた」
シャンソン歌手、俳優という華やかな舞台に立ちながらも、自身を「時代の目撃者」だと称した美輪明宏さん(91)が老衰で亡くなった。10歳の時に地元の長崎市で被曝し、15歳で上京。後に妖艶で類まれなシャンソン歌手としてデビューした。
【画像】「チャーミングなポーズを」假屋崎さんのイベントで招き猫のポーズをとる美輪さん
寺山修司氏の舞台にも数多く出演し、俳優としても活躍。昭和初期から自身のセクシュアリティについて公に語ったことで、多くの著名人たちの心の支えともなった。華道家の假屋崎省吾さんもそのひとりである。
ブログでは「私がカミングアウトできたのも美輪さんのおかげ」
美輪明宏さんが自身のセクシュアリティについて公にしたのは1957年以降のことだった。シャンソン「メケ・メケ」を、中性的で艶麗なファッションを身に纏ってカバーすると、作家の三島由紀夫氏が「天上界の美」と絶賛。当時のマスコミも「神武以来の美少年」や「シスターボーイ」などと囃し立てた。
芸能界でそんな美輪明宏さんを慕う者は少なくないが、華道家の假屋崎省吾さん(67)もそのひとりだ。訃報をうけ、假屋崎さんが「集英社オンライン」の取材に書面でコメントした
假屋崎さんが美輪明宏さんを初めて知ったのは、小学生の頃だった。
「テレビで『老女優は去り行く』という歌を聴いたのがきっかけで大ファンになりました。
その後、私が20代後半、母の死をきっかけに渋谷の『ジァン・ジァン』に毎月2日間、欠かさずリサイタルを聴きに伺うようになってから、公認の追っかけになり交流が生まれました。
『たけしの誰でもピカソ』や『オーラの泉』など、多くの番組で共演しましたが、美輪さんの音楽会、お芝居には、必ず初日と中日、 そして千秋楽にと欠かさず駆けつけ、おそらく最多の追っかけでした」
假屋崎さんにとって美輪さんは、ただ追っかけの対象だっただけでなく、精神的支柱でもあったようだ。現在は閉鎖しているブログで同性のパートナーと同居していることをカミングアウトしており「私がカミングアウトできたのも美輪さんのおかげ」とも記している。
「招き猫のようにポーズをとって記念写真を撮っていただきました」
美輪さんは、假屋崎さんが2000年から17年間続けて開催してきた目黒雅叙園での個展に3回も来場してくれたのだという。
「巨大な招き猫とコラボした作品のある部屋では、招き猫のようにポーズをとって記念写真を撮っていただきました。とてもチャーミングな一面をお持ちでした。
節分の時は千葉のお寺で一緒にかみしも姿で豆まきをさせていただき、終了後にはご住職からお寿司とタンシチューが振る舞われ、美輪さんのお隣でいつもご一緒するのが楽しい思い出でした」
生前の美輪さんは、假屋崎さんのことをこう評したのだという。
「美輪さんは私のことを、秀吉の絢爛豪華さと利休の侘び寂びの世界を同時に兼ね備え、 時代を超越した美の表現者だと評してくださいました。また、作品集の出版の際『美をつむぎだす人』と称して推薦文を送っていただくなど、 感謝してもしきれないご恩を賜りました」
そんな假屋崎さんが美輪さんと最後に会ったのは、6年前のことだった。
「直接お目にかかったのは6年前で、美輪さんが毎年開催されていて何度も伺っていた、 新橋の第一ホテルでのクリスマスディナーショーにゲストとして呼んでいただいた時でした。一世一代の豪華な花を舞台に生け、トークショーをご一緒させていただきました。
その後もお電話では何度もお話しして、去年のお誕生日のお祝いの花をお送りした際、お礼の電話をいただき、話をしたのが最後です」
「第二の母、この世の中の不条理と戦ってゆく同志のような存在」
美輪さんは今年5月15日に91歳の誕生日を迎えていた。その日も假屋崎さんは花を送っていた。だが、毎年くれる「お礼の電話」が今年はなかったのだという。
「91 歳で天界に召されて、私の心の中には、ぽっかり大きな穴があいたような気持ちです。 命の恩人、第二の母、この世の中の不条理と戦ってゆく同志のような存在であった美輪明宏 さん、心から感謝申し上げます」
美輪さんの事務所によれば、この1年は仕事をセーブし、体力の回復に努めていたものの、約3か月前に体調を崩してからは自宅で静養していたのだという。
最後の言葉は「ありがとう」という感謝の言葉だった。美輪明宏さんには公式携帯サイト「麗人だより」があるが、性的マイノリティだけでなく、多くの男女に慕われてきた。
美輪さんが残した相手を思いやる言葉や愛のメッセージは、後世にも語り継がれることだろう。
取材・文/河合桃子 集英社オンライン編集部ニュース班

