『銀河の一票』が指し示した新しい“公共” 松下洸平のスパークに見たあるべき政治家の姿
誰のための政治だろうと思う。この人たちはいったい誰のために、何を目的として、ここまで一生懸命に、身を粉にしてがんばるのだろうと思っていた。その理由がわかった気がした。
参考:『銀河の一票』が最後まで美しかった理由 誰も“いないこと”にしなかった珠玉の群像劇
『銀河の一票』(カンテレ・フジテレビ系)最終話では疑惑の真相が明かされ、アスファルトに星が輝いた。
流星(松下洸平)が語った真実。2週間前、古書店「マリヴロン」に届いた手紙の意味ありげな文面と音声データ、そこからわかる事実は決定的な証拠を示していた。同じ頃、五十嵐(岩谷健司)は雫石(山口馬木也)と会っていた。5年前、当時、厚生労働大臣だった鷹臣(坂東彌十郎)は、医大教授の新座値利から治験について取引を持ちかけられた。瑠璃(本上まなみ)の命を奪った悪性心筋血管芽腫は、治療法が確立されていなかった。
ぜんそくの既往歴を持つ瑠璃は治験を受けられなかったが、プロトコルを変更して受けられるようにする。その代わりに多額の科研費と学部長昇進を融通してほしい。賄賂であり、治験のルールに反する要望を、鷹臣は受け入れた。瑠璃を救うために。
過去の出来事が掘り返されたのは2カ月前。教授会の離反で追い詰められた新座は、マリヴロンで鷹臣に事態の収拾を訴えたが鷹臣は断る。鷹臣の意向を伝えたのが雫石で、新座が自死を選んだことで、雫石の中で何かが壊れたのだろう。疑惑を追及する茉莉(黒木華)を鷹臣は切らざるを得なかったが、それは茉莉のためでもあった。
「全体のために使うべき権力を個人のために使ってしまったこと」
今作を貫く宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と対比されるような台詞だ。人々の幸福のために権力はある。個人の幸福を政治家が優先してしまったら、世界はそのぶん幸福になれない。疑惑が公表されれば、鷹臣だけでなく茉莉にも影響が及ぶ。選挙戦の最中ならなおさらだ。
政治を“きれいなこと”にするためにクリーンファイトで挑むあかり(野呂佳代)とチームのメンバーは、疑惑を勝ちあがるための武器にしなかった。だが、決壊は別の場所で起きた。
悪役がいない。きれいなことを掲げて明るいほうへ進むドラマに、苦しむ人はいても、自分から人を傷つける人はいない。悪に堕ちた人間もそうする以外なく、むしろそのことでよりいっそう苦しんでいる。単純な性善説より一歩踏み込んだ人物造形が施され、それは現実の近くにある手が届きそうな“理想”を描いていく。そうやって明滅する光点がつながり、星座のように銀河が姿を現した。
雫石の告白。あかりの祈り。流星のスパーク。解釈改憲への言及は、声高に叫ばれる憲法改正への危惧を率直に示していた。人命救助を権力を得る道具にした鷹臣を糾弾し、自身も砕け散りながら、暗闇に向かってこの国の未来を憂い、目の前のあなたを信じて語りかける流星に政治家のあるべき姿を見た。
『銀河の一票』最終章は、選挙戦の混乱と喧騒、極限状態の緊張と歓喜を映さず、世界と私たちの関わり方を洞察するものだった。何も変わらない、のではない。変わらないように見えて人の心は変わっているし、世の中はすごいスピードで変化している。政治も同じだ。取り残されているのが政治家か、それとも有権者なのかは、よく考えなければならない。だからこそ投票に行く意味はある。
作品について一言。三権のうちの立法と地方自治に関するイシューを取り上げた今作は『エルピス-希望、あるいは災い-』(カンテレ・フジテレビ系)を継承する作品だった。『エルピス』は冤罪をめぐるメディアと司法、背後にある政治との緊張関係を摘出したが、『銀河の一票』は、政治参加を通して私たちが暮らす社会の幸福のありようを問いかけた。
国民主権のこの国で、権力に向けられた視線がそこにはある。結局のところそれは「全部ただのPower」(「おーへい」より)なのだが、力の所在に関して、「見る」ことに端を発する支配と被支配が『エルピス』なら、今作は「参加」という全人的な関与が社会に与えるインパクトという点で、スコープの設定がより広角である。
『エルピス』で主人公の恵那(長澤まさみ)は、事件の核心に近づくにつれて、自身の内なる欲望に翻弄される。人は権力に接近するほどに、おのれが何者かを厳しく問われるのかもしれない。真実を独占的に報じるメディアと性加害は「見る/支配する」という欲望によって地続きであり、客体と主体が分かちがたく結びついていることを示唆していた。
『銀河の一票』の茉莉は、選挙戦を通じてルサンチマンが祈りへ昇華されていく。それが何によってもたらされたかというと、あかりとのシスターフッドではあるが、本質的にはチームあかりや対立候補を含む人々、社会との関わり合いである。別の言葉で言うと「居場所があること」だ。そういう意味で公共の役割は大きい。民主政への参加である選挙が触発の場となっていることは見逃せない。
最後に、なぜ茉莉が屋上から身を乗り出したかについて、茉莉という人は人格の内部に公共の領域が大きく、幼い時分からそのように育ってきたので、自分という人間が人の役に立てず、それどころか誰かを犠牲にして生き続けていることに深い虚無を覚えてしまうのだろう。そういう茉莉に、元養護教諭で多感な年代の生徒と接し、自ら傷ついた経験のあるあかりが手を差し伸べたのは偶然と思えない。
(文=石河コウヘイ)

