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81年前の岡山空襲を16歳で経験した97歳の男性がいます。当時、国民学校で働いていたその男性が、炎から守らなければならなかったのは天皇の肖像写真でした。その写真に最敬礼をした人が目の前で焼夷弾の直撃を受けた光景が今も忘れられないといいます。

【写真を見る】「命より大事なもの」とは…97歳が語る岡山空襲、天皇の肖像写真「御真影」と目の前の惨劇 81年前の記憶

(笠井博さん(97))
「空一面火の玉みたいなのが花火と同じように降ってくるわけです。なんとも言えん不気味な音をたてながら落ちてくるんです。『ヒュー』という笛の吹くような」

16歳だった少年の耳にこびりついた音です。

岡山空襲の夜、いたのは、爆撃の中心点から直線距離で1.5キロほどの場所でした。岡山市北区の笠井博さん、97歳です。第一岡山中学校を卒業後、現在の鹿田小学校にあたる鹿田国民学校で、教員不足を補う代用教員として働いていました。

1945年6月29日の未明、宿直の笠井さんを起こしたのは、つけたままにしていたラジオでした。

(笠井博さん(97))
「サイレンに似たような音がラジオからワーっと鳴ってそれで目が覚めて」

138機のBー29が岡山市を襲いました。校門の前で呆然とする笠井さんは駆け付けた先輩教員の声で我に返ります。

(笠井博さん(97))
「先輩の先生が『御真影はどうしたのか』と言われて」

「御真影(ごしんえい)」。天皇の肖像写真を敬いこう呼んでいました。
子どもたちが深々と頭を下げるのは、この御真影や教育勅語が納められた「奉安殿」と呼ばれる小さな建物。全国の学校に設けられていました。

(笠井博さん(97))
「その先生がそこから出されて『安全な場所に安置しないかん』と言われて、とにかく御真影は頭より下げちゃいけませんので神様と同じ天皇陛下のお写真ですから、頭より下げることはできない頭の上へ捧げ持って」

「御真影を仮置きする」思いもつかなかった

焼夷弾が降り注ぐ中、逃げ惑う人の波。しかし…

(笠井博さん(97))
「校門を出た瞬間に『御真影じゃ』と誰かが叫んだとたんに一つの流れになっていた動きがピタっと止まってみなさん最敬礼です」

振り返れば渡り廊下は火の海に。必死で御真影を運ぶ笠井さんの目に自転車にまたがった30代後半くらいの男性がとまりました。

(笠井博さん(97))
「またがっていたのを降りられたのは見ました。自転車を持ったまま最敬礼されていました。とにかく一瞬の出来事です。爆弾が直撃した。その方の後ろ頭にポンと当たったんです。落ちてきたのがドーンと。目の前で焼夷弾が男性に直撃したのです」

(笠井博さん(97))
「ペタッと、自転車も倒れました。その方も自転車の下敷きみたいになって倒れられましたよね、たまらない思いですね。気の毒だったなあ、助けることもできなくてという気持ちは今もしますけどね、あの瞬間には御真影を地べたへ仮置きするなんてそんなことはとてもじゃない思いもつかなかったことです。持ったままですから」

「御真影がどうなったか」心配する校長

その後、友人と2人で代わる代わる御真影を持って道路や水田の中を夜明けまで西へ向かった笠井さん。今村地区で民家に預け、学校の焼け跡に戻ると待っていたのは校長でした。

(笠井博さん(97))
「『御真影はどうしたんなら』と手ぶらだったですからね。校長先生にしたら、私たちが無事なことよりも御真影がどうなったかそれをものすごく心配しておられたと思います」

「『お預けして帰ってきました』と言ったら、『良かった良かったありがとう』と言われました。命より大事なものです」

多くの建物が焼けた後の熱波の中、家族と会うため手拭いで口を覆い、市街地を内山下方面へと向かった笠井さん。

(笠井博さん(97))
「歩いていたら道のど真ん中に柱の焼け残りみたいなのが1本だけポーンと転がっていた。あら、なんで道の真ん中に。近づいてみたら、人の体でした。人間でした。焼け焦げて生焼けになったような姿で倒れとられるのを見たときは本当にあー無残じゃなという気持ちでいっぱいでしたね」

命より大切なものがあった時代

その時、目にした遺体とともに今も繰り返し思い出されるのは御真影に最敬礼をして焼夷弾の直撃を受けた男性の姿だといいます。

(笠井博さん(97))
「教育というのはここまで徹底していたんだなと思いますね。神様が人間の形をしてこの世に現れているのが天皇陛下だという教育を幼稚園・小学校の頃から教えられてくると、もうそれが染み込んでしまうから、『申し訳ないけど私らも任務があるからと、放っておいて行くけどごめんなさい』というような、今でこそそうやって言葉になりますけど、言葉にはならなかったですね」

命より大切なものがあった時代。「あの時はそうするしかなかった…」戦争は、81年が経った今も笠井さんに自問自答を強いています。

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