“霊視商法”で120億円超を集金、代表者は実刑判決…解散命令を受けた「明覚寺事件」が“忘れられた”理由
2026年6月22日、世界平和統一家庭連合(以下:旧統一教会)に対する解散命令をめぐり、最高裁が教団側の特別抗告を棄却した。2025年3月に東京地裁が解散を命じ、2026年3月には東京高裁もその判断を維持していたが、これで一連の裁判手続きは終結したことになる。
日本では、宗教法人でも重大な法令違反があれば、法人格や優遇措置を失う解散命令が出されることがある。旧統一教会は、その3例目である。過去の例では1995年のオウム真理教がよく知られている。
だが、この2つの事案の間にあたる2002年1月にも、法令違反を理由に解散命令を受けた宗教法人があった。その名は「明覚寺」という。
ところが、この明覚寺については、インターネット上に残る情報が極めて少なく、代表者の顔写真もほとんど見つからない。2026年6月現在で、ウィキペディアにも独立した項目さえない。これはネット情報に限った話ではなく、第三者が明覚寺事件だけをまとめた単独のノンフィクション書籍も存在しない。
なぜ、解散命令まで受けた宗教法人の事件が、まるで「タブー」であるかのように語られてこなかったのか。明覚寺は何をやらかしたのか?(ライター:ミゾロギ・ダイスケ)
霊視商法は「本覚寺」から始まった明覚寺にまつわる一連の事件には定着した呼び名がないため、本稿では便宜上「明覚寺事件」と呼ぶ。
「明覚寺事件」を分かりにくくしている最大の理由は、霊視商法を始めた宗教法人と、後に解散命令を受けた宗教法人が別だったことにある。
実際に解散命令を受けたのは「宗教法人明覚寺」である。一方、霊視商法を始めて、被害や訴訟で先に社会問題化したのは、一文字違いの、茨城県大子町を拠点とする「宗教法人本覚寺」だった。
1987年、真言宗醍醐派の末寺として大子町に宗教法人「本覚寺」を設立したのは、西川義俊(ぎしゅん)という人物だ。西川は大手製薬会社勤務を経て訪問販売へ移り、1984年に千葉県野田市で水子菩薩(ぼさつ)を扱う販売会社を設立。その後、京都の真言宗醍醐派の寺に通って僧侶となり、本覚寺を拠点にした。
1988年に真言宗醍醐派を離脱し、独立寺院として活動を始めるが、その前後から霊視商法に手を染めていく。
霊視商法とは「霊感商法」の一類型で、「霊が見える」「因縁が分かる」などと脅し、除霊や供養の名目で金銭を支払わせる悪質な商法である。
宗教不信の時代に表面化した本覚寺訴訟1989年秋には『サンデー毎日』(毎日新聞社)が「オウム真理教の狂気」と題した告発キャンペーンを開始し、翌1990年2月には、オウム真理教が「真理党」を結成して麻原彰晃(しょうこう)ら25人を衆院選に擁立した。
1992年8月には、霊感商法でも問題視されていた旧統一教会の合同結婚式に日本の著名人が参加し、同教団への批判があらためて高まっていた。こうした宗教問題が相次いで注目を集めるなか、本覚寺の名も、社会問題として本格的に表に出るようになった。
1992年11月2日、本覚寺の霊視商法で高額な供養料を支払わされた被害者らが、同寺を相手取って第一次訴訟を起こしたのである。
休眠していた法人「明覚寺」を本山に据え、120億円規模へ訴訟を起こされる少し前の1992年3月、西川は休眠状態だった和歌山県の宗教法人「明覚寺」を取得し、支配下に置いた。既存の宗教法人を、いわば居抜きで使うようなかたちで、本山に据えたのだ。
本覚寺と明覚寺は別法人だったが、人事、資金、研修、マニュアルの面では実質的に一体のグループとして動いていた。企業にたとえるなら、明覚寺が本社、本覚寺はその傘下の中核子会社に近い関係だった。さらに、西川らは明覚寺を中心に、全国各地に系列の寺を次々に開設し、霊能者役を配置した。いわば詐欺のフランチャイズ化である。
霊視商法を広げるため、経験者にマニュアルを作らせ、相談者をどう不安にさせ、どの段階でいくら出させるかを組織で共有した。模擬相談の研修も行っていた。各系列寺院の担当者には入信者数や供養料のノルマが課され、成績順位は位階や給与にも反映された。こうして系列寺院は全国27カ所に及び、集めた供養料は120億円以上に達したとされる。
悩み相談から100万円単位の高額供養へ西川が生み出した霊視商法のシステムを簡単に説明しておきたい。
まず、新聞折り込みや配布チラシで悩み相談や供養相談を呼びかけ、「相談料(お布施)3000円」などと書いて寺へ誘導する。ここで最初に出てくるのが「入信教師」と呼ばれる僧侶姿の担当者である。
入信教師は「鬼業即知法(きぎょうそくちほう)」と称する姓名判断を行い、相談者の名前や運命に因縁があると語り、水子や先祖の霊が災いをもたらしていると説明する。そして、そのままでは不幸が続くとして、悩み相談の延長のように供養や3日間の「浄霊修法会」への参加を勧める。
次の段階では、「導師」と呼ばれる役割の担当者が出てくる。導師は、相談者に家系図を書かせ、それをもとに先祖や水子の因縁を語る。さらに「流水灌頂(るすいかんじょう)」と呼ばれる儀式を行い、紙に書いた文字のにじみ具合で供養すべき霊を特定すると称した。
相談者の地獄はここから始まる。供養料は一気に100万円単位になり、何体もの霊の供養が必要だとされれば、そのたびに追加の金を求められた。寺側は、家族の不幸、子どもの病気、夫婦関係の悪化、事業不振などを霊のせいにし、「いま供養しなければさらに悪いことが起きる」と不安を強めていった。
それだけでは終わらなかった。相談者は寺に継続的に通わされ、個人面接を繰り返し受けさせられた。供養料の額にためらう相談者には、長時間にわたって説得が行われ、借金してでも払うよう求められたという。また、霊視商法の宣伝チラシを「護符」だとして買わせ、戸別に配る業務も強いられた。いわば、連鎖商法的な仕組みも組み込んでいたのだ。
強制捜査、逮捕、そして解散命令へここで確認しておきたいのは、西川らが明覚寺を本山に据え、霊視商法を各地の系列寺院へ広げていた時期が、本覚寺をめぐる民事裁判の最中だったという点である。すでに被害の実態が裁判で問われていたにもかかわらず、同じ手口による悪質な詐欺行為は続けられていたのだ。
オウム真理教による地下鉄サリン事件から約2か月後の1995年5月、1992年から続いていた本覚寺の民事訴訟は、本覚寺側が5億円を支払うことで和解している。しかし、それは明覚寺グループにとって、霊視商法をやめるきっかけにはならなかった。
だが、その詐欺ビジネスには構造的な無理があった。系列寺院を増やし、被害を広げれば広げるほど、不審に思う人、だまされたと感じる人が出てくる可能性は高まる。いつか破綻するのは目に見えていた。
そして、1995年の秋、被害者58人が本覚寺、明覚寺、霊能力があると称した関係者らを相手取って損害賠償訴訟を起こす。被害申告はさらに続いた。やがて事件は、民事だけではなく刑事事件にも発展する。
同年10月31日から11月1日にかけて、愛知県警が明覚寺グループの関係先を強制捜査し、系列にある名古屋市の満願寺の関係者らを逮捕した。1996年2月には西川義俊ら6人も逮捕され、同年3月までに逮捕・起訴された者は計11人に達した。
民事訴訟では、1999年1月に明覚寺側が約300人の被害者に約11億円を支払う内容で和解した。一方、刑事訴訟では、実行役ら8人の有罪判決が確定している。1999年7月には、名古屋地裁が西川ら中心人物に有罪判決を言い渡した。
これらを受けて、文化庁は同年12月、和歌山地裁に宗教法人明覚寺の解散命令を請求。和歌山地裁は2002年1月、明覚寺に解散命令を出した。
解散命令そのものは最高裁まで争われたが、同年12月に特別抗告が退けられて確定している。
その一方で、西川自身は刑事裁判で争い続け、2000年12月には『殉教の遺書――明覚寺詐欺事件の真相』(東宛社)という書籍を刊行し、一審判決を「宗教弾圧」だと主張した。だが最終的に、2003年4月、最高裁で西川の懲役6年の実刑が確定した。
果たして「明覚寺事件」はタブーなのか?最後に、明覚寺事件に関する情報がなぜここまで流布していないかを考えてみたい。何らかの巨大な権力が動いたわけでも、表に出せない理由でタブー視されているわけでもない。考えられるのは次のような理由である。
1:ネーミングの不統一
まず、関連する固有名詞が紛らわしい。解散命令を受けたのは「明覚寺」だが、先に訴訟で表に出たのは「本覚寺」だった。さらに「満願寺」も登場する。加えて、無関係な同名寺院も複数あるため、ネット上で検索しづらく、団体や事件が認識されづらい性質がある。
2:ビジュアルの乏しさとネット時代との相性の悪さ
オウム真理教には麻原彰晃の写真や選挙活動、街頭パフォーマンスなど、後年まで使われる映像や写真が大量に残った。旧統一教会にも、創設者の文鮮明の写真・映像が多く残っている。
これに対し、明覚寺には派手なパフォーマンスやプロモーションがなく、西川自身も外部に顔出しを避けていた。公刊された唯一の著書にさえ写真はなく、ビジュアル的に人々の記憶に残りにくかった。
しかも、事件はインターネット普及前に起きており、後年になって掘り返すにも、ネット記事や事件ブログで扱う材料に乏しかったのである。さらにそこから派生する粗悪なサイトや動画が量産されることもなかった。
3:事件のスケールと継続性の違い
明覚寺事件は悪質な霊視商法事件だったが、オウム真理教のような大量殺傷事件ではなく、旧統一教会のように政治との関係や二世問題をめぐって長く社会問題化したわけでもない。代表者らが有罪判決を受けた後、明覚寺が繰り返し話題になることはなかった。重大事件でありながら、後年に語り直される材料と継続性を欠いていたのである。
このように、明覚寺事件は忘れ去られた出来事である。だからといって、事件の重さが消えるわけではない。当時の霊視商法によって、全財産を失った人、人生を狂わされた人、長年の努力を無にされた人もいただろう。
明覚寺は消えた。しかし、不安をあおり、人の弱った心につけ込んで金を奪う同種の手口は、今も社会に残っている。
■ミゾロギ・ダイスケ
昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。大学の文学部を卒業。スポーツ雑誌、航空会社機内誌の編集者を経て独立。『週刊大衆』をはじめ、各媒体で執筆活動を続ける。犯罪、芸能全般、スポーツ全般、日本映画、スキー、プロレスなどを守備範囲とするが、特に昭和文化研究はライフワークだ。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

