吉田玉助(文楽人形遣い)

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太夫、三味線が床(ゆか)から語り、奏でる中、主(おも)遣い、左遣い、足遣いの三人で一体の人形を躍動させる人形遣い。近年、その主遣いとして大きな役をこなし、今後ますますの活躍が期待されるのが、吉田玉助(57)だ。祖父、父も人形遣いという家に生まれ、40年近く「吉田幸助」として活動後の2018年4月、五代目として現在の名を襲名。“同い年”の国立劇場の閉場までカウントダウンが進む中、文楽への情熱や思い出を語ってもらった。

母のピアノと父の文楽が“子守唄”

三代目吉田玉助を祖父、二代目吉田玉幸を父に持つ玉助さん。一般的に文楽では、修業が厳しく好きでなければ続かない世界だけに、できれば子には継がせたくないと考える技芸員が多い。玉助さんの兄も文楽に興味は持たず、別の道に進んだ。しかし、祖父が亡くなった1年後の同じ2月に生まれた玉助さんは違った。

「人形だけでなく、文楽全体の雰囲気が好きでしたね。子守唄代わりじゃないですけど、(かつて文楽を上演していた)朝日座の客席でよく寝ていました。楽屋から見る文楽の風景、膠や大道具の匂いに、知らず知らず惹かれたのだと思います。当時、「ヤングおー!おー!」というテレビ番組内で桂文珍さん、月亭八方さん、桂きん枝さん、林家小染さんが”ザ・パンダ”というユニットを結成していたのですが、彼らが三味線の真似をしていた際には「文楽、取り入れてんねや」と興味を抱き、菓子箱に糸をつけて三味線代わりにしてベンベンベンと一人で遊んだりもして。ロボット文楽人形ごっこみたいなこともしました。NHKの『新八犬伝』や『プリンプリン物語』など、テレビでも人形劇が流行っていた時代でしたし」

玉助さんのもう一つの子守唄は、ピアノ。母がピアノの教師をしていた。

「音大で学び、レオニード・クロイツァーという有名な先生のもとに通っていて。音楽活動をしていた時代に作曲家の神津善行さんと一緒に写った写真が残っています。その後、大阪に嫁いできたのですが、文楽は食うや食わずの厳しい時代でしたから、母がピアノを教えて生計の足しにしていたんです。ただ、音大受験の生徒さんばかりだったのでレッスン風景がとても怖くて、やりたいという気持ちにはなりませんでした」

文楽入りにあたって、父に反対される玉助さんを応援してくれたのが、その母だ。

「父は『いかん』と言っていたけれど、そこを母と二人で頼み込んだんです。あまりにしつこいので父が(初代吉田玉男)師匠に相談したところ『入れさせたらええやないか』と言われ、『しゃーないな』ということで、中学3年生で研究生として、“吉田幸助”の名で父に弟子入りしました。まずは2年間、家の鴨居に人形の足を吊ってそれを足遣いと同じように手で持ってじっとしている、ということを、今日は10分、次は15分といった具合に延ばしながら訓練しながら、少しずつ足遣いとしての仕事を覚えていきました。足遣いは色々な人の足を遣い、終演するまで劇場にいるのですが、親父は自分の役が終わると先に帰り、僕が帰るころにはウィスキーを飲んで出来上がっている。そこから2時間くらい、説教される毎日(笑)。基本がきちんとしていないと後々しんどくなるので、ものすごく厳しく徹底的に教えてもらいましたね。あと、『文楽に入ったからにはちゃんと麻雀を覚えなあかん』。今はほとんどないですが、昔は楽屋でよくやっていたんですよ。僕が(のちに人間国宝となった三代目吉田)簑助師匠や(二代目吉田)文昇さんやうちの親父に勝ってしまって、皆さんご機嫌斜めになったことも(笑)」

幸助の名で修業していた若手時代   提供:吉田玉助

父で師匠の吉田玉幸と    提供:吉田玉助

そんな玉助さんの一つの転機は、『鳴響安宅新関(勧進帳)』の弁慶の足を遣ったこと。

「(吉田)文吾兄さんがその頃、弁慶をよくなさっていて、『誰か足おらへんかな』となった時、今の(桐竹)勘十郎兄さんが僕を推薦してくださって。『勧進帳』の弁慶は人形も大きいので、綺麗に遣うのは難しく、足遣いの卒業試験のような位置づけ。大変な役だけに、知らないお客さんからお花やご祝儀をいただいて、びっくりしました。それがターニングポイントになりましたね。修業の身で大事なのは、なかなか役がつかなくても腐らず、“こさえているんだ”という感覚で勉強することなんです」

修業への向き合い方を、見ている人は見ている、ということだろう。勘十郎は自身が襲名披露を行った『絵本太功記』の大役、武智光秀の左にも、地方公演で玉助を起用。勘十郎の師匠である前述の簑助が、「弟子の勘十郎のためによくやってくれた」と食事に連れて行ってくれたという。

「チャンスは急に来るんです。主遣いになって、主役級の役どころをもらうのも同じこと。油断して勉強しないでいると、『あかんな』とレッテルを貼られて干されてしまう。僕の場合、『義経千本桜』の主馬小金吾という役をいただいてから徐々に役が上がっていきました」

なお、『勧進帳』では文吾の足遣いのほか、当代の勘十郎や玉男の弁慶の左遣いも経験した玉助さん。昨年11月には大阪の国立文楽劇場で、ついに弁慶の主遣いを初めて勤めた。弁慶の手に遣う“たこつかみ”を勘十郎が、大きめの足を玉男が貸してくれた。

「太夫に(竹本)織太夫くん、三味線に(鶴澤)藤蔵くんと、次世代の布陣でやらせてもらって。東京では長いことやっていないのですが、その時の公演では花道がつき、弁慶が歌舞伎と同じように飛び六法で引っ込みました。東京でもぜひ、花道がついた状態でやりたいですね」

玉助さんが弁慶の主遣いを勤めた『勧進帳』       提供:国立劇場

≫自分の身体と向き合って

自分の身体と向き合って

人形遣いの修業と並行して、玉助さんがしばらく学んでいたものがある。日本舞踊だ。

「文楽に役立つのではないかということで、初めは山村流の山村梅園先生、その後、母が昔通っていた正派若柳流の若柳吉三次先生、のちの鵬翁先生に習って。今は行っていないのですが、20代から30代の10年間ほど通いました。日本舞踊を習う技芸員はあまりいないのですが、文楽にも『蝶の道行』のような舞踊作品がありますし、以前、博多座で急に『二人禿』の禿の役がついた時にも踊りの経験が役に立ちました」

身長が180センチ近くある玉助さん。だからこそのダイナミックな動きが魅力だが、特に足遣いの頃は苦労も多かった。

「足遣いは後ろに引いた片足の膝を曲げ、腰を落として人形の足を持つのですが、僕がやると後ろの膝が90度くらいにしないと邪魔になる。それだけ曲げても『邪魔やその足。足切れ』と叱られたり、『お米を横にして食え』とからかわれたり。文楽には170センチぐらいがベストかもしれません。特に、朝日座は小さい劇場でしたから、余計に邪魔だったでしょうね。朝日座、国立劇場の小劇場、国立文楽劇場と、時代があとになるほど大きくなっていて、そのせいか、今は“体のこなし”ができる人が少なくなってきています」

さて、主遣いは公演中、舞台下駄と呼ばれる、高さが20~50センチもある高下駄を履いて人形を遣う。そうすることによって人形の位置が高くなり、足元にいる足遣いが動きやすくなるのだ。しかし、高身長の玉助さんなら、必ずしも下駄を履かなくても問題ないのでは。にもかかわらず、時には膝を曲げながら下駄を履くのはどうしてなのだろうか?

「初めて勉強会で1時間ぐらい下駄を履いた時には、腰が痛くなりました。それくらい高下駄を履くのって難しいんですよね。でもやっぱり下駄を履くと腰が据わるというか踏ん張りが利くというか、身体が必要以上に動かないから安定する気がします。だから、他の人より少し低いけれど、下駄はやっぱり履くようにしていますね」

(左)ずらりと並ぶ舞台下駄。人によって高さが違う (右)やや低めの玉助さんの下駄。吉田玉誉さんのもの(向かって右のもの)と比べると一目瞭然だ。    提供:吉田玉助

ボーカロイドや『刀剣乱舞』『戦国BASARA』ともコラボ

玉助さんの活動を特徴づけるものの一つに、若者文化を意識した新しい試みがある。玉助(当時幸助)さんが遣う文楽人形が初音ミクの曲で踊る「メルトの舞」。ボーカロイドが歌う中で人形が演じる短編映画「ボーカロイドオペラ葵上with文楽人形」。2018年の国立文楽劇場での「吉田幸助改メ五代目吉田玉助襲名披露公演」時には演目の『本朝廿四孝』が戦国時代ということで、玉助さんが遣う人形と「戦国BASARA」のキャラクターがコラボしたポスターなどが作られた。さらに2021年、2022年には、国立文楽劇場で上演される『小鍛冶』や『紅葉狩』に「刀剣乱舞-ONLINE-」の小狐丸や小烏丸と同じ名前の刀が登場することから、玉助さんが文楽人形に「刀剣乱舞」の小狐丸や小烏丸の“拵え”をして劇場ロビーに展示するなど様々なコラボが展開した。

「これは、ひとえにご縁ですね。今から10年前、週刊アスキーの編集長だった福岡俊弘さんという方のご提案で世界ボーカロイド大会に出て、初音ミクの『メルト』という曲で文楽人形の踊りを披露したら話題になり、イベントや映像のお話が来るようになりました。『刀剣乱舞』の人形は、文楽の衣裳さん床山さんと一緒に『本来、女方の人形の胴体は短いけれど小烏丸だからちょっと長くしましょう』などとどこまでもこだわって作ったんですよ。だから時間がかかって、周囲には『まだやっているの?』なんて言われましたが、最後、飾る前に楽屋へ持ってきて整えていたら、皆に感心されました。飾るだけで、実際に舞台で遣うことがなかったのは残念でしたが……。今は歌舞伎でもアニメなど様々なものを題材にしていますよね。僕自身はそこまでしなくてもいいようにも思いつつ、あまりにも殻に閉じこもったら博物館に入ってしまうから、入り口は広げて、そこから古典を観てもらうことが大事だと考えています」

『刀剣乱舞』ファンにも話題沸騰だった小狐丸

その大切な古典として、5月の国立劇場の公演では第1、2部『菅原伝授手習鑑』で宿禰太郎、第3部『夏祭浪花鑑』で一寸徳兵衛を遣う玉助さん(8月に大阪でも上演)。『菅原伝授手習鑑』は宿敵・藤原時平に陥れられて苦難に見舞われる菅丞相(菅原道真のこと)とその周囲の人間模様を描いた作品で、宿禰太郎は時平の依頼で丞相暗殺を企みる悪役だ。

「祖父や父も遣い、その足や左を僕もやってきた役を、今回初めて主遣いとして遣います。猩臙脂(しょうえんじ)という濃い色合いの顔の人形で、『仮名手本忠臣蔵』に出てくる(善人の)寺岡平右衛門も同じ色なのですが、善人には見えないようにしなくては、と。(吉田)簑二郎さんが遣う父・土師兵衛と共に、(吉田)一輔くんが遣う妻・立田前を殺す『東天紅の段』は見せ所なので、どう面白く作れるか。続く『宿禰太郎詮議の段』では床(ゆか)が(人間国宝の鶴澤清治など)すごい方々なので、その中でさせてもらうのも楽しみです」

『夏祭浪花鑑』は主人公・団七九郎兵衛ら侠客とその妻達の義侠心溢れる生き様を描いた作品。玉助さんが遣う一寸徳兵衛は団七とは義兄弟の契りを交わす人物で、夏祭りの日に二人して色違いの格子柄の浴衣を颯爽と着て出る姿は実に絵になる。2017年の大阪公演でも、玉助さんはこの一寸徳兵衛を、勘十郎の団七を相手に勤めた。

「団七九郎兵衛は“文七”、一寸徳兵衛は“検非違使”というかしらを遣うのですが、この組み合わせは『菅原伝授手習鑑』の松王丸、梅王丸と同じなんです。文七も検非違使も主役級のかしらですから、勘十郎兄さんの団七九郎兵衛に見劣りしないようにしないといけません。2017年の時も、人形の高さや骨格の大きさを出すよう心がけてやっていました。あまり大仰にせず、スマートにカッコよく遣いたいですね」

現在、57歳。60代、70代と、人形遣いとしていよいよ輝いていく時期に差し掛かる。

「色男から荒事まで幅広く遣わせてもらっているので、その経験や踊りをやっていたことも生かして、骨格の大きい、色気のある人形遣いになれればと思います」

玉助さん(左)が一寸徳兵衛を遣った『夏祭浪花鑑』。右は桐竹勘十郎の団七。     提供:国立劇場

≫「技芸員への3つの質問」

「技芸員への3つの質問」

【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード

入門してすぐの頃、国立劇場の公演には師匠であるうちの親父が借りていた勝どき5丁目のマンションから通っていたんです。終演してから帰るのに使うのは、いつも最終の一つ前のバス。『鬼瓦』と言われていた親父は毎日、怖い顔でちゃんと料理を作ってくれていて。もうある程度飲んで出来上がっていて、『今日は遅いやないか』! 寄り道なんてしてないから『いつもと同じバスです』と答えて。親父の料理は特別美味しくはなかったと思うのですが、いい思い出です。

【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること

初代国立劇場は昭和41年、僕と同じ年に生まれたので、一緒に育っている感覚があったんです。最初に国立劇場を見た時は、その大きさと正倉院みたいなデザインにびっくりして、『どんな宝が入っているのか』と(笑)。劇場の45周年に三番叟を遣わせてもらった時は、自分を祝っているような感覚もありまして。簑助師匠が翁をなさるなど、記念にふさわしい配役の中でやらせてもらったのは、本当に栄誉なことでした。

今は劇場でも飲食は制限されていますが、新しい劇場ではあまり堅苦しくなく、お弁当を食べるぐらいの気軽さで、楽しく文楽を観ていただきたいですね。

【その3】オフの過ごし方

ちょっと前までは旧型のスクーターに乗っていたのですが、劇場側に危ないから止めるよう言われ、泣く泣く止めまして、大阪では車通勤です。最近は、オフは落語を聴きに行ったり歌舞伎などのお芝居を観たりしています。
 

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)