橋上監督代行

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 まさにデッドヒート。いきなり混セが到来した。Xで巨人ファンは「優勝あり得る」と歓喜に湧いている。《橋上監督代行で優勝するかもな》、《橋上さんを胴上げしたい》、《橋上さん、マジで超有能なんじゃない?》──。早くも《リーグ優勝したら来季は橋上秀樹監督か》など“続投”への期待をにじませる投稿も多く、「鬼が笑う」どころではない気の早さだ。7月13日現在、セ・リーグの順位は首位が阪神で勝率5割5分1厘。2位は巨人で5割3分1厘。3位はヤクルトで5割0分6厘──という具合になっている。(全3回の第1回)

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 振り返れば巨人の監督だった阿部慎之助氏が暴行で現行犯逮捕されたのが5月25日の夜。翌26日、阿部氏は会見に出席し、監督辞任を表明した。

橋上監督代行

 まもなく橋上秀樹オフェンスコーチが監督代行に就任。同日午後6時から東京ドームで開かれる交流戦初戦・ソフトバンク戦で指揮を執ることに──まさに非常事態の中、“橋上政権”はスタートした。

 5月24日、翌週から交流戦という“セ・リーグ最終試合”で巨人は阪神に敗れた。阪神は28勝17敗1分、勝率6割2分2厘で首位をキープ。2位のヤクルトは28勝18敗、勝率6割0分9厘で、首位の阪神を0・5ゲーム差で追う。

 一方の巨人は24勝22敗で勝率5割2分2厘。順位こそ3位だとはいえ、4・5ゲーム差の阪神はもちろん、ヤクルトの背中も遠い。プロ野球ファンの間では「今年のセ・リーグは阪神とヤクルトの優勝争いになりそうだ」という声も決して少なくなかった。担当記者が言う。

「当時の巨人は『勝率5割を維持できるか否か』という状態でした。しかも監督が現行犯逮捕されるというプロ野球史上類を見ない異常事態が発生し、橋上監督代行は初戦のソフトバンク戦を3対8と大敗。精彩を欠く形で3連戦も1勝2敗と負け越し、『巨人はチーム全体が動揺している。これでは強いパ・リーグを相手に先が思いやられる』という雰囲気になりました。しかし意外なことに、ここから橋上巨人の快進撃が始まったのです」

橋上巨人の快進撃

 日ハム戦は2勝1敗と勝ち越し、さらにオリックス戦は何と3連勝。ロッテ戦も1勝2分と土が付くことはなく、楽天戦も2勝1敗。最終の西武戦こそ1勝2敗と負け越してしまったが、終わってみれば10勝6敗2分、勝率6割2分5厘で交流戦4位という好成績を収めた。

 1位西武、2位ソフトバンク、3位日本ハムに続く4位はセ・リーグの最高順位。一方のヤクルトは6勝11敗1分で8位、阪神は6勝12敗で9位とパ・リーグのチームに苦戦したのとは対照的だった。

「交流戦が終わると、巨人は34勝28敗2分、勝率5割4分8厘でセ・リーグの首位。阪神とヤクルトは共に34勝29敗1分、勝率5割4分0厘で2位に並びました。交流戦前とは状況が一転し、橋上巨人の快進撃で巨・阪・ヤの3チームが激しく争う“混セ”が到来したのです。ただし不思議なこともあり、巨人は交流戦が終わってから断トツの最下位である中日と合計6試合戦いましたが、なぜか2勝4敗と大きく負け越しました。いずれにしても失速は免れ、7月7日の阪神戦では劇的な逆転勝利を収め、単独首位に浮上したのです」(同・記者)

 交流戦の前と後では全く違うチームになった。変わったことと言えば、監督の交代だけだろう。こうして“橋上名将論”が一気に盛り上がった。

野村監督によって“開眼”

 この“橋上名将論”がXなどのSNSで取り沙汰される際、「橋上代行は“野村学校”のOB」との言及が目立つ。

 プロ野球史上でも屈指の名将として、今も高く評価されている故・野村克也氏の教え子という点に注目が集まっているのだ。

 ここで橋上代行の経歴を振り返っておこう。東京の私立高校・安田学園から1983年のドラフトでヤクルトに3位指名を受けて入団。そして野村氏は1989年のオフにヤクルトの監督に就任した。

 橋上代行は「web Sportiva」のインタビュー記事で、当時の野村監督から「己を知れ」、「自分がどういう駒だったら、野球選手として生き残っていけるかをしっかり考えなさい」と助言され、それが自身の野球人生を変えるほどのインパクトを与えたと振り返っている。

 練習方法から実際のプレーに至るまで何もかも変わったという。まさに野村監督によって“開眼”したと言える。(註)

 1996年のオフに金銭トレードで日ハムへ移籍。99年のオフに戦力外通知を受けると、阪神の指揮を執っていた野村氏から請われて入団する。

 引退後、2004年11月に楽天の2軍外野守備・走塁コーチに就任することが発表された。これは野村氏が監督としてチームの指揮を執ることを踏まえた招聘だった。実際に野村氏は2005年のオフに楽天監督となり、橋上代行は野村監督の“右腕”となった。

 さらに確認しておきたい重要な経歴がある。2011年11月、橋上代行は巨人から1軍戦略コーチとして迎えられた。当時、GMを務めていた清武英利氏の肝煎りで設立された「戦略室」の中核を担うことを求められたのだ。

ヤ、巨、阪の3球団でプレーした広澤氏

 この抜擢は「巨人がセイバーメトリクス(統計学に基づく野球分析)を本格導入しようとした最初の大きな挑戦」と位置づけられることもある。

 選手としてもコーチとしても“野村ID野球”の神髄を師匠から学んだ橋上監督代行は、まさに「戦略室」の責任者としては最適だったかもしれない。

 野球評論家の広澤克己氏は、明治大学野球部から1984年のドラフトでヤクルトに1位指名されて入団。橋上監督代行の1年“後輩”となる。広澤氏も野村氏の薫陶を受けたことは言うまでもない。

 その後、1994年のオフにFA宣言を行って巨人に移籍。この時は故・長嶋茂雄氏が巨人の指揮を執っていた。さらに99年12月に阪神へ移ると、2000年からは野村氏、02年からは故・星野仙一氏の下でプレーした。

 橋上代行と広澤氏の経歴には様々な共通点があり、多くの人脈が重なり合っているわけだが、広澤氏は橋上代行の指揮をどう見ているのだろうか。

「橋上代行が巨人の指揮を執るようになってから、『なるほど、これが橋上采配なのか』と印象に残った場面があったのかと訊かれれば、『今のところはありません』と答えざるを得ません。交流戦から巨人の好調が始まりました。基本的に今の巨人は若手主体のチームで、いわゆる“日替わりヒーロー”が相次いで誕生することで勝ち進んでいると総括していいでしょう」(同・広澤氏)

阪神の“トラウマ”

 若手主体のチームで、“日替わりヒーロー”の活躍と聞けば、ヤクルトを思い出す人も多いのではないだろうか。

 そうなのだ。今の巨人は、開幕でロケットスタートを成功させた時のヤクルトに似ているのだ。広澤氏は「若手中心だからこそ巨人とヤクルトには共通した弱点があり、阪神はもっと勝ち星を増やせるはずなのです」と指摘する。

 混戦で盛り上がるセ・リーグだが、チーム本来の実力という点では阪神のほうが巨人やヤクルトより頭一つ抜け出していると広澤氏は言う。

 では、なぜ阪神は混セから頭一つ抜け出すことができないのだろうか。

 第2回【「橋上巨人」快進撃のカゲで阪神が実力を発揮できないのはナゼか…セ優勝争い3チームで「4番を打ったレジェンド」が首をかしげる理由】では、阪神の伝統とも言える“トラウマ”について詳しくお伝えする──。

註:橋上秀樹のコーチングの原点は、野村の教えと「4年間の接客業経験」(web Sportiva:2018年10月8日)

デイリー新潮編集部