17年間で12人を出産、夫は経済力ゼロ、バッシングの嵐も…ヤマザキマリが語る、“あの有名歌人”と自身の“共通点”とは
歌人・与謝野晶子(1878~1942)は貧乏をしながら11人の子どもを育てたワーキングマザーでした。平均寿命が45歳の時代に、40歳を過ぎてから着物のファッションリーダーとなり、41歳からは女子も学べる学校の創設に奔走。「人生の後半こそ仕事を選ぶな」と言ったといいます。
【画像】ヤマザキマリさんの結婚式の様子。当時ヤマザキさんは34歳、夫・ベッピーノさんは20歳だった
ヤマザキマリさんが、与謝野晶子と自身のあいだに見出した“共通点”とは? 『週刊文春WOMAN 2026夏号』より、一部を抜粋の上ご紹介します。
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肝っ玉母さんだった与謝野晶子と私の共通点

ヤマザキマリさん
ひとまず与謝野晶子と私の共通点といえば、ひどい貧乏の経験者ということだろう。晶子は若くして処女歌集『みだれ髪』がベストセラーになったが、22歳で結婚した5歳年上の夫・鉄幹は主宰していた文芸誌『明星』が廃刊になり、スランプに陥って作歌をしなくなってしまった。収入が途絶えたため、晶子は家族を養うために歌を作りまくった。呼ばれれば北海道から九州まで出かけていって講演をこなし、深夜まで歌を作る。そんな生活を大勢の子育てをしながらやってのけたのだ。
子どもたちには男女とも高等教育を授け、晶子は晶子で自分の仕事と家事をこなし(料理の腕もなかなかのものだったらしい)、失業中の夫も養うという肝っ玉母さんだったのである。
パートナーが稼ぎのない歌人というところも苦々しい共通点である。11年にわたるフィレンツェでの留学生活中、私が一緒に暮らし続けた相手は自称“詩人”だった。フィレンツェ大学と音楽院を掛け持ちして学びながら細々と詩を書いては、売れもしない詩集を出版していた。詩人と絵描きが一緒になれば貧乏必至だが、私は彼に詩を書くことを諦めてほしくなくて、日本の観光客のガイドや商業系の取引の通訳などなんでも引き受けて一生懸命に働いた。当時日本はバブル経済の真っ只中にあったおかげで、依頼は絶え間なかった。
こうして女性が必死に働いてしまうと、男性はますます何もしなくなる。特に詩人の場合は、詩人たる人間は貧乏で当たり前だと思っていた節があり、お金もなく名声も得られないダメな自分に酔いしれているところがあった。私が働かなかったら二人で飢え死にしていただろう。
描いたこともない漫画に挑戦してみた理由
晶子も、私が働きゃいいのよ!とバリバリやってしまったのだ。私は晶子と違い、結婚をせずに子どもを身籠り、出産の瞬間シングルマザーになることを選んだ。明治時代に男性並みに働く女性が異質だったように、私の場合も子どもを生んで相手と別れるという行動が世間的には異質だった。子どもができたら普通は結婚でしょ。口を揃えたように周りから言われまくったが、詩人に自分と子どもの生き方を制限されるのはごめんだった。
油絵で食べていけないのは身に染みるほど実感できたので、いったんはその目的を捨て、子どもを育てるために何か今までとは違う方向へ進まねばならないという切迫感に煽られた。描いたこともない漫画に挑戦してみたのは、それが理由である。
漫画だけで生計を立てるのは厳しく、スキルを活かせることであれば何でもやった
ただ、初めて描いた漫画で努力賞なる新人用の賞をもらってデビューはできたものの、漫画だけで生計を立てるのは厳しかった。とりあえず子どもを連れて、母が家を建てた北海道へ戻り、地元のイタリア協会の事務局から地方テレビ局の温泉リポーター、三つの大学の講師にイタリア旅行の添乗員、エッセイ執筆、ラジオ番組まで、自分の持てるスキルを活かせることであれば何でもやった。それから5年後、私は14歳の欧州一人旅の際に出会った老人の孫と結婚し(詳細は他のエッセイでどうぞ)、再び子どもと一緒に海外に移住した。
ちなみに晶子は講演というものが大の苦手だったそうだ。恥ずかしそうに小声でうつむいて、予め用意した原稿を読んでいたという。行動力は凄まじいのに人見知りというところも、私にも心当たりのあることだと言うと、「あり得ない」「見えすいた噓なんかつかないでくださいよ」と言われそうだが、噓ではない。夫や息子は私の人見知りの側面をよく知っている。
人見知りだからこそ、講演では私が一方的に捲し立てるように喋り倒す。ただ、私の場合は、講演でもテレビでもラジオでも原稿や台本をほとんど見ない。決められた言葉しか喋ってはならないとなると、逆に喋れなくなってしまうのである。瞬時頭に浮かんだ考えを自在に言語化するのは得意だが、そうでなければ黙っている。
晶子は進取の気性に富んだアヴァンギャルドな人だった
驚いたことに、晶子は17年間で12人の子どもを生み(そのうち1人は生後まもなく死亡)、少なくとも大正5年には無痛分娩で出産したことを明かしている。晶子は進取の気性に富んだアヴァンギャルドな人だったのだ。そもそも『みだれ髪』に収録されている歌は、妻子持ちだった鉄幹への横溢する恋心を赤裸々に詠んだ、当時の常識では考えられない型破りなものだった。自らの不倫をあからさまにするのは現代であっても十分にスキャンダラスなことだが、貞淑な良妻賢母が強く求められた時代に、晶子はバッシングの嵐とも気丈に向き合った。難しい立場や心情を自在な言葉で表現する歌は若い女性たちから強く支持され、一躍人気歌人となった。
炎上をものともしなかった晶子のバックグラウンド
それだけではない。日露戦争に出征した弟への想いを表現した『君死にたまふことなかれ』は、「なぜ天皇は戦争へ行かないのにあなたは血を流すのか」といった意味の、戦争を正当化する当時の社会に対する批判的な内容で、晶子はこのときも世間から猛烈なバッシングに遭う。今でいう炎上というやつだ。しかし晶子は毅然と「弟を心配して何がおかしい? 命を大切だと思うのは当然ではないか」と反論したことで、大勢の支持者を得ることになった。晶子がこうした炎上をものともしなかったのは、自分の味方となってくれる大人数の家族というバックグラウンドがあったからかもしれない。
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歌人として、また炎上上等のインフルエンサーとしての地位を築いた晶子は、自分の名前をブランド化し、それを活かしたマーチャンダイジングを手掛けるようになりました。その後も、次々と新しい分野に踏み込んでいき……記事全文は『週刊文春WOMAN 2026夏号』で読むことができます。
写真:本人提供、文藝春秋
(小峰 敦子/週刊文春WOMAN 2026夏号)
