伊藤浩子さんが『徹子の部屋』に登場。93歳の今も編み物を続ける元気の秘訣を語る「ニット一筋85年。つらいことがあっても約70年続く教室に来れば作品に集中できる。ここでは全員が美しいものを作ろうとする気持ちでつながっているのだと」
2026年6月30日放送の『徹子の部屋』に、編み物作家・伊藤浩子さんが登場。4歳で編み物を始め、長年にわたり活躍してきた伊藤さんが、93歳の今も編み物を続ける元気の秘訣などについて語ります。今回は、作品2点が英国のヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵された際に思いを聞いた、2022年4月7日掲載のインタビューを再配信します。*****戦後まもなくヨーロッパの本格的な編み物を学び、現在も指導者として活動を続ける伊藤浩子さん、89歳。彼女の作品2点が2021年11月、手編み作品として初めて英国のヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵された。ニットに捧げた人生とはーー(構成=島内晴美 撮影=藤澤靖子)
【写真】伊藤さんが約70年前、第1回全国編物コンクールで最優秀賞・高松宮妃賞を受賞したフレンチスリーブのセーター
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4歳で棒針と毛糸を与えられて
初めて手編みに出会ったのは4歳の頃。私は6人きょうだいの3番目ですが、下に妹が生まれ、母もあまり手をかけられなくなったのでしょう。棒針と毛糸を与え、編み方を教えてくれたのです。母が妹の世話をしている間は寂しかったけれど、編み物は楽しくて。すぐに大好きになりました。人生最初の作品はお人形にかける毛布です。一目一目ゆっくり編みました。
思えば昔、神戸に住んでいた祖母が、大正時代に船で神戸に着いたヨーロッパ人の先生から、編み物を習ったと聞きました。その頃は誰でも編み物ができたものです。直接祖母から手ほどきは受けませんでしたが、祖母から母へ、そして私へ、自然と受け継がれたものはあるのかもしれません。
戦争中は毛糸が簡単に手に入らなくて、古いセーターをほどいて編み直したり、代用品の糸――当時は「真綿の糸」と呼んでました――で編んだり。終戦の数ヵ月前に群馬県の渋川市に疎開して、12歳で終戦を迎えました。
東京から疎開するといじめに遭ったりつらい思いをした人もいるようですが、私は幸いにもそういう経験はしなかった。むしろ疎開先での生活は楽しくて、今も渋川時代の友人たちとはとても親しくしています。
東京に戻ったのは終戦から2年後。毛糸も再びたくさん売られるようになって、とても嬉しかったです。
ちょうどその頃、ルーマニア出身の渡辺イルゼ先生の編み物雑誌が創刊されました。外国人の女性や子どもたちが異国のモダンなパターンのニットを着た写真とその編み図が紹介されている、立派な雑誌です。ヨーロッパのセンスと美、ファッション性、デザイン――何もかもが新鮮で、私はすっかり心酔してしまいました。

第1回全国編み物コンクールの受賞記念写真。左から19歳の伊藤さん(最優秀賞)、主催・講談社の野間省一社長、高松宮妃、伊藤さんの母、その他受賞者(写真提供◎伊藤さん)
憧れの先生と出会い世界が変わった
その雑誌を貪るように読んでいる私を見て、母も何か感じるものがあったのでしょう。私に内緒で出版社に電話をし、イルゼ先生に会わせてほしいとお願いしたのです。
当時、東京はまだ戦争からの復興途上。終戦の翌年にヨーロッパから日本に帰られたイルゼ先生は、ご主人の親戚を頼って、御茶ノ水の病院の一室に暮らしていました。そこで初めてお会いした日のことは、今も鮮明に覚えています。高校生の私にとっては、世界が変わる出会いでした。
私が通っていた都立駒場高校は自主自立の校風で、必要な単位さえ取ればあとは自由。午後は一目散にイルゼ先生のもとに馳せ参じ、日本語が覚束ない先生に代わって記者の取材に対応したり、スケジュール調整したり。私は高校生ながら私設秘書、スポークスマン気取りでした。
私自身の創作活動の礎はご夫婦から授かったものです。イルゼ先生からはヨーロッパの編み物の技法を学び、東京大学文学部で美学の教授だったご主人(渡辺護氏)からは色彩学の基本を教わりました。同時に、あの時代に国際結婚を貫いて、未知の国にいらした先生の生き方も学んだように思います。
先生と片時も離れたくなくて、ご自宅を構えた葉山に帰る先生とご一緒に東京駅から横須賀線に乗り込んで、品川までお供したものです。私は渋谷に帰るので、だいぶ遠回りして。その二人きりの10分か15分が至福の時でした。
高校を卒業した頃、その電車の中で先生から「全国編み物コンクールに応募してみたら」と勧められました。これが私の人生の転機。
でも、その時点で締め切りまで10日しかなかったの! 10日で何ができるか必死に考えて、黒、白、グレーの3色で、フレンチスリーブのセーターを編み上げました(下写真)。たまたま直前にモノクロームの写真展を見に行っていたので、その世界観が私の中に残っていたのかも。
まず地区予選の東京大会で最終10作品に残った時は嬉しかったですね。その後、1年かけて本選の全国大会に進み、「最優秀賞・高松宮妃賞」を最年少の19歳で受賞した時は驚きました。
本選に出品された作品は、どれも色とりどりの大作ぞろいで、それに比べると私の作品はあまりにも小さくて地味。でもむしろそれがよかったのかもしれませんが。

「図案を考えるのに夜中の2時、3時までかかることもありましたが、夫は何も言わない人でした。特にサポートしてくれることもなかったけれど、文句も言わない。」
親戚相手に編み物教室を
23歳の時に兄の学生時代の友人と結婚しました。それを機にイルゼ先生のもとを離れたのはつらかったです。これからは自分だけの編み物になると思っていました。しかし、なんと義姉(伊藤実子さん)が編み物が大好きな人で。私の高松宮妃賞受賞も知っていて、「私たちに教えてちょうだい」って。
結婚から2ヵ月も経たないうちに、義姉の家で親戚相手にお教室を開くことになりました。夫も兄弟姉妹が多かったので、総勢10人ほどになったでしょうか。
以来、教えることが楽しくなり、生徒さんの数もどんどん増えていきました。長男が6歳の頃からは義姉の強い勧めで作品展を開催するようにも。これは2015年まで50年間、2年ごとに開催してきました。結婚後も編み物から離れることなく来られたのは義姉のおかげです。
――嫁ぎ先は、室町時代から続く旧家中の旧家、松坂屋を創業した伊藤家。旧家ならではの付き合いをこなしながら会社員(後に松坂屋子会社の社長)の夫を妻として支え、子どもを育てながら編み物作家・指導者としても活動した。
息子が小さい頃はやはり子育て中心でした。当時、保育園は一般的ではなかったのです。義母も実母も最後は私たち夫婦と同居することを望みましたので、介護もやりました。
その間も編み物を続けることができました。図案を考えるのに夜中の2時、3時までかかることもありましたが、夫は何も言わない人でした。特にサポートしてくれることもなかったけれど、文句も言わない。夫の親友は、「それは妻を理解しているってことだよ。彼の愛情の証」と言ってくれました。
息子の友達もよくうちに遊びに来ていました。大学生になってからも、多い時にはリビングに10人以上も。彼らが私のことを「魔女」って呼ぶの。
近所の方も、「魔女いる?」とか言いながらやってきて。暇な時は一緒に雀卓を囲むこともあるんですが、さっきまで隣に座っていた私がいつの間にか食事の支度を終えているから、彼らはびっくりする。それで「魔女」と呼ぶのです。

今年最初のお教室の風景。作品に集中したり、伊藤さんに質問したり。4〜5時間ほどかけてじっくり取り組む
美しいものを作る。その気持ちでつながって
サロン形式でお教室をやるようになって70年近くになるのかしら。生徒さんのなかには、60年以上通っている方が何人もいますし、皆さん長いお付き合いになりました。コロナ禍で人数が減ったとはいえ、40代から90代まで今も40人ほどが通っています。
新卒で就職した頃から通う生徒さんが65歳で定年を迎えたと聞いた時は、さすがに年月の経つ早さに驚きました。コロナ禍の前は、生徒さんたちと国内外へ、編み物をめぐる旅をしに行ったりもしました。もはや親戚よりも近い関係です。
女性だけの集まりですが、トラブルが起きたことは一度もありません。みんないい人ばかりなんです。生徒さんたちは、うちのリビングのソファで手を動かしながら、嬉しいこととか、時には悲しいことも話します。
病気で体調を崩したり、家族の介護が始まったり、長く生きればみんないろいろあって当然。私の夫も10年前に、84歳で突然亡くなってしまいました。前夜まで元気で、二人でカステラを食べたりしていたのに、翌朝、目覚めなかったのです。脳溢血でした。
たとえつらいことがあっても、うちに来れば作品に集中できる。ここでは全員が美しいものを作ろうとする気持ちでつながっているのだと思います。だから私も生徒さんひとりひとりの作品に真剣に向き合うんです。デザインや色合わせなどを夜なべで考えることは今もありますよ。

伊藤さんが生徒さんのために書いた編み図。「細かい編み目の計算もパパッとできるので驚きます」と生徒さん。編み棒は竹製を使用している

21年12月に銀座のギャラリーで行われたチャリティバザー。たくさんの作品が並べられた
手編みのすばらしさを後世に残したい
作品展開催を50年続け、2015年に幕を下ろした時、長男の学生時代の先輩(安倍紀明さん)から、「浩子さんの作品を本にして後世に残すべきだ」と強く勧められ、作品集の自主制作を決めた。
振り返ると、私の人生には節目節目で手を差し伸べてくださる方が現れるんです。「作品集なんて作らなくていいわよ」と最初は断っていたんですけど、今となっては作ってよかった。この作品集がきっかけになって、ヴィクトリア&アルバート博物館への収蔵が決まりましたので。
ここにもまた長い物語があるのですが――作品集がロンドンに住むイルゼ先生の息子さんのもとに届き、それをご覧になった彼が博物館に推薦してくださったのです。先生との70年以上の縁がこうして繋がりました。
ここまで長く編み物を続けられたのは、何よりも「編み物が大好き」という気持ちがあるからです。それに丈夫な体にも恵まれました。
運動習慣は、ゴルフくらいでしょうか。毎晩の水割りは欠かしませんが、今までお産と4年前に腸閉塞を患ったこと以外には、病院のお世話になったことがありません。もちろん年齢なりに息切れはしますけど、健康な体に産んでくれた両親には感謝しなければなりません。
今年卒寿を迎えますが、まだしばらくは作品を作ったり、教えたりして過ごしたいです。作品展を終えた後も、毎年、私や生徒さんの作品を集めたチャリティバザーを開催しています。
手間も時間もかかるけれど、手編みにしか出せない温かな風合いがあるのです。若い方たちにバザーで気軽に作品を手にしてもらい、その良さを少しでも知ってもらいたい。それが私の願いです。
《英国・ヴィクトリア&アルバート博物館に収蔵の快挙》
伊藤浩子の麗しき作品世界
2021年11月、伊藤浩子さんの手編み作品「竹林」「もみじの舞」が英国ロンドンの博物館に収蔵されました。世界の美術工芸品を収集している同館の東洋部で、手編み分野の作品が収められたのは初めてのこと。同館に収蔵された2作品に加え、伊藤さんの作品の一部を紹介します。
以下撮影◎児玉晴希(『伊藤浩子作品集』より)
『竹林』

『竹林』竹の葉が重なるジャケットと、茎を描いたスカートのアンサンブル
「竹の葉は特注で染めた9色の毛糸と金色のラメ糸、葉脈は銀色のラメ糸で編み、光と風によってほのかに輝く竹林を表現。上へ伸びていこうとする竹の流れを生かすために、ジャケットの衿ぐりは自然に立ち上がるデザインに。直線だけで構成された竹のスカートは、取材のため訪れた竹林にたたずんでいた時から構想していました」(伊藤さん・以下同)
糸:ウール、ラメ/2009年制作
『もみじの舞』

『もみじの舞』光沢のあるレーヨンの糸の地に、ウールやシルクのもみじを全面に散らしたフードつきのマント

「軽井沢の山を訪れると、色とりどりのもみじが舞い落ち、足もとに敷き詰められていました。葉を集めて自宅の絨毯に散らし、さまざまな角度から表情を観察。もみじの舞をドラマティックに表現するため、マントに仕立てました。長い歳月をかけ染めてきた特注のオリジナル毛糸コレクションが、もみじの色を表現するカラーパレットに」
糸:レーヨン、ウール、シルク/2011年制作
『ひなげし』

『ひなげし』
京都の染色工場に特注した毛糸で花の豊かな色彩を表現(1985年制作)
『雪のストックホルム』

『雪のストックホルム』
スウェーデンの首都ストックホルムの市庁舎の雪景色を編み込んで(2003年制作)
『エーデルワイス』

『エーデルワイス』
アルプスを旅した思い出を可憐な花の図案に(2013年制作)
『パリの薔薇』

『パリの薔薇』
透かし編みをちりばめた地に金色のラメ糸でパリの名所を描いて(1997年制作)

