「本当にすさまじくて」木村拓哉が現場で驚愕したワケは…4歳で疎開→19歳でデビューした“下町の太陽”倍賞千恵子(85)の女優人生〉から続く

 俳優・歌手の倍賞千恵子が、この6月29日に85歳の誕生日を迎えた。大ヒットシリーズ『男はつらいよ』で渥美清演じる“寅さん”の妹・さくらを演じ国民的女優の地位を確立した彼女だが、その裏ではある葛藤も抱えていた。(全3回の2回目)

【画像】倍賞千恵子が高倉健と共演した映画『駅 STATION』

◆◆◆

『男はつらいよ』は1969年8月、前年にフジテレビで放送されたテレビドラマの映画化として第1作が公開された。倍賞千恵子は28歳だったこのときから主人公の車寅次郎(渥美清)の妹・さくらの役で出演する。

『男はつらいよ』の台本をもらうと、そこに出てくる人物や光景が倍賞の育った東京の下町と重なり、近所には寅さんとさくら兄妹の叔父夫婦(おいちゃんとおばちゃん)のような人もいたし、さくらがおいちゃんたちと暮らす団子屋の裏には印刷屋があるけど、自分の実家の裏にはガラス工場があったな……などと思い出しながら読んだという。


24歳当時の倍賞千恵子(1965年撮影) ©文藝春秋

 ただ、さくらのキャラクターは倍賞自身とはまったく違うようだ。監督の山田洋次からは「アパートにミシンがあって、せっせと踏んでるミシンのそばには、いつも文庫本が置いてあるような人がさくらさんです」と説明されたが、本人からすれば《「ウフフ、すいません、私、そんなんじゃないんです」って(笑)。私はけっこう行動派っていうのかな、おっちょこちょいで、ちょっとがさつだと言われるんです》という(『週刊朝日』2009年3月20日号)。

あんなに早く結婚させなきゃよかった、と…

 さくらは第1作で裏の印刷会社に勤める諏訪博(前田吟)と結婚するが、この時点では出演者、スタッフの誰もがまさか長寿シリーズになるとは思わず、あとから山田は「こんなに続くのだったらあんなに早くさくらを結婚させなきゃよかった」とぼやいたらしい。なお、山田はシリーズ全50作のうち第3作と第4作(いずれも1970年)を除く48作で監督を務めている。

 すでに日本の映画業界がテレビに押されて斜陽を迎えていたなか、『男はつらいよ』は公開すれば必ず観客が入るとあって、年2回、正月とお盆に合わせて公開されるのが恒例となっていった。それにともない彼女もいつも意識のどこかにさくらを置いておき、撮影に入るとすぐなりきれるよう心がけた。第12作『男はつらいよ 私の寅さん』(1973年)の撮影中、取材を受けたときには《ほんとに、さくらと私とごっちゃになっていて、ほんとの私はカゲみたいな気がするの》と語っている(『週刊朝日』1974年1月13日号)。

 このころには、さくらになるためのルーティンもできていて、クランクインが近くなると右手の薬指に金色の指輪をはめた。最初は金メッキだったので1作撮り終えると真っ黒にさびて交換せねばならなかったが、『私の寅さん』を撮ったころには、小道具のスタッフが本物の金でつくってくれたものを使うようになっていた。ルーティンとしてはこのほかにも、撮影初日に前作で使った衣装を着て、「さくらになーれ、さくらになーれ、さくらになーれ」と呪文のように唱えては自分に暗示をかけていたという。

「さくら」と呼ばれることへの葛藤

『私の寅さん』公開と同時期に放送が始まったドラマ『お姉ちゃん』(TBS系、1973〜74年)でも、下町の弁当屋のお姉ちゃんというさくらの延長線上にあるような役を演じ、世間的にも倍賞はさくらと同一視されることが増えていった。やがてそれは彼女を悩ませることになる。さくらを演じ始めて10年あまりが経ったころのインタビューでは、倍賞にしては珍しくこんな愚痴めいたことを漏らしていた。

〈《さくらさんやってて、最初面白かったのね、やっぱり。道歩いてて“さくらさん”って言われると“ハイ”なんて言ってね。それがやっぱり変わっていって、道歩いている時ぐらい自分でいたいと。“さくらさん”って呼ばれるのがちょっと苦痛だったりする時もあるし。人間ってこういう風に変わるのかなって思うけど。あの、他の所でやっている時にそういう風に呼ばれると、やっぱり……。他の役、一所懸命やりたいと思っているから、あんまりね〈笑〉》(『キネマ旬報』1983年1月下旬号)〉

 年齢でいえば40歳前後のこの時期、倍賞は公私ともに転機を迎えていた。この3年ほど前、1980年に山田洋次監督の『遙かなる山の呼び声』に出演したときには、自分のなかに役がどっぷり入ってしまい、撮影が終わってから自分に戻ろうと思ってもなかなか戻れず、体のなかのものが全部、役に取られてしまい、自身の心が空っぽでカラカラ音がするような気分を味わったという。

 翌1981年には松竹専属からフリーになり、初めてほかの映画会社の作品『駅 STATION』(製作は東宝)に出演した。『遙かなる山の呼び声』に続いて主演の高倉健の相手役で、北海道の小さな町の駅前で居酒屋を営む桐子という女性を演じた。

離婚を経験、高倉健との交際も噂され…

 桐子は、高倉演じる警官と思いを寄せ合う、気立てがよくてどこか色気を漂わせた女性だった。それまで演じてきた役とは違い、彼女には家族関係などはっきりとした背景がなく、倍賞はそこに惹かれたという。先のインタビューで「他の役、一所懸命やりたいと思っている」と語っていたのには、こうしたそれまで演じたことのない役を演じるうち、俳優として欲が出てきたからでもあるのだろう。

 私生活ではこのころ離婚も経験している。『駅』出演後には、高倉健との交際の噂が何度となく浮上し、そのたびに芸能レポーターに追いかけ回されて本人もあきれるほどだった。

『男はつらいよ』は年に2回公開されるとあって、別の作品を撮り終えると、自分に戻る暇もなく再びさくらにならなくてはいけなかった。『遙かなる山の呼び声』を終えたときのように役がなかなか抜けない場合はなおさらつらく、すっかり気が重くなり、しばらく休みたい、それが許されないなら、俳優をやめてしまってもいいとまで思い悩んだ。

「役者は役名で呼ばれるうちが花だよ」

 そこで交友のあった作家の藤原審爾に相談すると、「おまえ、もう長くやりすぎている。ここまで走ってきたんだから、これからも走る以外にないよ。走り続けろ」という答えが返ってきた。渥美清にも、自分とさくらを同一視されることを重荷に感じていると話すと、「役者は役名で呼ばれるうちが花だよ」と諭されたという。

 そんな時期、1983年1月に倍賞は渥美、山田洋次とそろって都民文化栄誉章を授与される。受章決定を知らされたのは、『男はつらいよ』の新作の撮影が始まったある朝、監督からだった。そのとき《この賞をバネに開き直るしかないんだと覚悟を決めました。/むりやり倍賞さんとさくらさんを分けないで、自然のままでいようと決めたら、急に体が楽になったのです》と倍賞は著書に記している(倍賞千恵子『お兄ちゃん』廣済堂出版、1997年)。

さくらは憧れの女性で、大親友だった

 第48作目となる『男はつらいよ 寅次郎 紅の花』の公開の翌年、1996年に渥美が68歳で亡くなったため、『男はつらいよ』シリーズはいったん区切りをつけた。それから20年ほど経って振り返ってみると、倍賞はシリーズに出演を続けるなかで、普通の主婦としての生き方、人との付き合い方、接し方と、さくらから教えてもらうことがたくさんあったという。

 それゆえに、さくらは倍賞にとって言わば憧れの女性であり、長らく互いに触発し合ったり、発見し合ったり、教え合ったりしてきたという意味では大親友でもあった。《何年も会っていなくても、会った瞬間からすーっと入っていけてしまう。だから、私はさくらさんによってつくられ、さくらさんも倍賞千恵子によってつくられたのでしょう》との一文(倍賞千恵子『倍賞千恵子の現場』PHP新書、2017年)からは、ほかのどんな役よりもかけがえのない存在であったことが伝わってくる。

妹の美津子と共演、ベッドシーンも

 40代後半に入ってからも『男はつらいよ』に出演を続ける一方で、『離婚しない女』(1986年)では妹の美津子と初めて映画で共演し、またベッドシーンもあったため、ややセンセーショナルに宣伝された。本人は当時、《話題になるほど過激じゃなかったの、台本段階では。映画って、つくっていきながら、いろいろ練っていくでしょう。監督はもちろん、みんながその中にのめり込んじゃってるから、裸のシーンがなきゃいけない、それがないと映画自体が成り立たないとなると、わりと自然にできちゃうのね》と、あっけらかんと語っていた(『婦人公論』1986年11月号)。

 倍賞にとって40代は模索の時期だったともいえる。俳優とは別のことにも力を入れたいと、歌手として毎年、コンサートを開催するようになったのもこのころからだった。そこで生涯の伴侶と出会うことにもなる。(つづく)

〈51歳で8歳下夫と再婚、乳がん手術では驚きの行動に…倍賞千恵子(85)が歳を重ねて気づいた“新鮮な日々”「私の生活は普通じゃなかったから…」〉へ続く

(近藤 正高)