Alessandra Leocata

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彼は1999年に「世紀のデザイナー」に選ばれた。ここで偉大なるジョルジェット・ジウジアーロの輝かしいキャリアを振り返ってみよう。

【画像】パンダのオリジナルスケッチなどジウジアーロが手掛けた車、そして現在(写真12点)

この伝説的デザイナーが手掛けた数多くのモデルの中で、彼が最も愛する一台は、あなたは驚くかもしれないが、実用的なフィアット・パンダだ。この話は後にしよう。「技術的制約が少なく予算も潤沢なら、車を作るのは比較的容易なことなのです。しかし資金が乏しく、多くの制約が課された中で成功を収めるとしたら…。それはまったく別の挑戦なのです」とジウジアーロは語った。

カーデザイナー

我々はトリノ郊外モンカリエーリにあるGFGアーキテットゥーラ社にジウジアーロを訪ねた(GFGはジョルジェットと息子であるファブリツィオのイニシャル)。しかし20世紀で最も称賛された車の数々を生み出した人物の本質を理解するには、まず過去を振り返る必要がある。

ジウジアーロは1938年、トリノから南へ約100kmに位置する3000人規模の村、ガレッシオに生まれた。マルチェロ・ガンディーニとレオナルド・フィオラヴァンティが誕生してから数カ月後のことだ。彼は芸術家の家系に生まれ、父はフレスコ画で室内装飾を手がける画家だった。父は彼がまだ幼い頃、すでにその非凡な才能を発見したが、父は現実的な人物だったため、彼を技術学校へと進ませた。

「父は極めて現実的な芸術家で、戦後のイタリアでは家の装飾や芸術に費やす余裕がほとんどないことを理解していました。トリノの製図学校に私を託したのです。彼の目論見は正しかったと思いますが、私の学習計画は頓挫してしまったのです。14歳の私が授業をさぼり、勉強するではなく、友人と遊び歩いているのを見つけるや、父はなんと自分がそのクラスに編入してしまったのです」

そんな中で、ある出来事が起きた。「私の教師の一人は、フィアットのダンテ・ジアコーザ技師の叔父であったのですが、卒業制作として自動車をデザインするよう提案したのです。当時、私は自動車にまったく興味がありませんでした。家族に運転できる者も車を持つ者もいなかったため、自動車は私の人生からかけ離れていたのです。しかしこの件は、初めて、私の芸術的才能と技術的素養を組み合わせるきっかけとなりました」

「当時の自動車デザイン、少なくとも量産車に関しては、ほとんどがエンジニアによって生み出されていました。実用的で直截的ですが、視覚的なメッセージを表現したり感情を喚起したりするには程遠いものでした。例外はアメリカで、自動車スタイリングではかなり進んだ挑戦が行われていました。1927年、ハリー・アールはゼネラルモーターズにアート・アンド・カラー部門を設立しました。これは自動車業界初の社内デザイン部門となり、後にスタイリング部門と改称されたのです」

ダンテ・ジアコーザとの出会い

卒業製作展示会の当日、ジアコーザ技師が『あの男は誰だ?この学校で唯一、通常の題材ではなく自動車をデザインしている奴は?』と尋ねたことをジウジアーロは今でも覚えていると語る。「彼はアメリカ式デザインスタジオの設立を計画しており、私が美術学校と工業デザイン学校の両方で学んだことを知ると、私を雇いたいと言ってくれたのです」

フィアットのエンジニアリングチームに加わったのは、彼がわずか17歳の時だった。「私は”芸術家”として、エンジニアの設計図をより魅力的に見せる役割を担いました。初期の仕事で、原寸大の設計図に彩色したのを覚えています。通常ならエンジニアが手早く済ませるところを、私は車輪やリム、クローム、細部、陰影まで絵画のように丹念に仕上げました」

「それは見事に仕上がったと思います。私の仕事は注目されたのです。ジアコーザは、車を作る最初の段階で、そのエモーショナルな魅力を明らかにすることが重要であると、その時すでに理解していましたから。私は、フィアットのその部署で働くことで、車の製造方法や仕事の組織化について多くを学びました。そして4年後、私はエンジニアでないため、そこでキャリアを築くことはできないと気づいたのです。だから、私は別の道を探し始めました」

ベルトーネとスカリオーネ

その「別の何か」とは、「21歳の時、仕事の本当の楽しみが始まった」とジウジアーロが語る、カロッツェリア・ベルトーネとの出会いであった。「少なくとも年に1台のプロトタイプと無数のプロジェクトを自由に創造できました。私はまた、そこで真の天才と言うべき、フランコ・スカリオーネに出会いました。才能に溢れ、気ままな人生を送る男でした。彼にとって、夜遊びの翌朝早く、オフィスに出勤することなど、まったく無意味なことだったのです」と彼は続けた。

「私はヌッチオ・ベルトーネにスケッチを見せました。私が真剣に仕事をする人物であると理解したようで、すぐに雇いたいと言ってくれました。彼は、自分の下で働けば兵役をも、免除できると約束してくれました。実際、それは結局嘘だったのですが(笑)、徴兵令状が届いた時、彼は兵営近くのアパートを借りてくれ、そこには製図板までが置いてありました」

ベルトーネはジウジアーロに、その才能を発揮し、想像力を紙に落とし込む時間と機会を与えてくれたのだ。「ベルトーネでは、量産化されたアルファロメオ・ベルトーネ2000と2600をデザインしました。22歳の時でした。続いて、アルファロメオ・ジュリアGTの105シリーズに取り組みました。そう、ベルトーネ在籍の5年間で50台の車をデザインしましたね。その中でも、シボレー・コルヴェア・テスチュードのショーカーは、スポーツカー界に新たなデザイン文脈をもたらしたワンオフモデルであり、私はこの作品を完成させたことに大きな誇りをもっています」とジウジアーロは微笑む。

テスチュードは1963年のジュネーヴ・モーターショーで初公開された。それはジウジアーロがベルトーネを去る2年前のことであったのだが、実はこれが重要な意味を持っていた。「私が1965年にベルトーネを去った時に残したテスチュードを生み出したスケッチ作業は、マルチェロ・ガンディーニがランボルギーニ・ミウラのスタイリング開発を行う際にインスピレーションを与えたことは間違いありません。このことを私は明確にしておきたいのです。もちろんミウラをデザインしたのは私ではなく、ガンディーニです。しかし私は多くのスケッチを残しており、それらは概ね丸みを帯びたリアエンジン・スポーツカーのフォルムでした」

「ガンディーニはベルトーネで私の後任となりました。史上最高のデザイナーの一人であり、魔法のような手腕の持ち主であると私は認めますが、彼はこれらのスケッチからミウラに関して、全体のボリューム感のインスピレーションを得ています」と語る。この点において、何ら議論の余地はないと彼は続けた。

「誰もが他者からインスピレーションを得ます。私もそうでした。17歳の時、セストリエーレでスキーをしていた時、フラミニオ・ベルトーニの傑作、シトロエンID19を初めて目にして、深く感銘を受けました。宇宙船のように見え、他のあらゆるものをはるかに凌駕していた。この車が私に深い影響を与えたことは間違いありません」

「同じ環境にいることで、私たちは影響を受けます。イタリア人デザイナーは成長過程で、周囲の芸術や建築からプロポーションの感覚と美意識を吸収していきます。たとえ自覚していなくても、私たちの中に残る、内なる核のようなものなのです。イタリア人として考えれば、特に戦後は何も持たなかったゆえ、シンプルな形状を好んで生み出しました。何よりも論理に従わざるを得なかったのです。当時、成功した俳優が自らの地位を誇示したいなら、大きなクロームに飾られたキャデラックに勝るものはありませんでしたが、その形状と機能は、必要性や論理とは無関係でした。現代は違います。市場調査がある結論へと導き、過激なスタイルの探求はリスクを伴います。あまりにも多くの車が存在する中で、異なるアプローチで、なお美しいものを作り出すのは、そう簡単ではないのです」

ギアを経て独立

ベルトーネを去ったジウジアーロはカロッツェリア・ギアへと移籍した。「ベルトーネとは最後に言い争いとなりました。あれほどの努力と責任を担ったのですから、私は管理職への昇進を望んでいました。ベルトーネはそれに対して多額の小切手を提示してくれましたが、私は肩書きを求めていたのです。彼の返答は極めて明快でした。『ベルトーネの管理職は私(ヌッチオ)と父だけだ』と。それで私は辞職しました」と彼は語る。

デ・トマゾ・マングスタのスタイリング開発へ携わるに十分な長さであったギア在籍期間を経て、ジウジアーロは1968年1月、長年のパートナーであるアルド・マントヴァーニ技師と共にイタルデザインを設立した。

「私はまだ若かったけれど、豊富な経験を持っていたし、準備は整っていました。アルドは完璧なパートナーでした。私が芸術家なら、彼は技術者だったのです。最初に手掛けたプロトタイプはビッザリーニ・マンタでしたが、初の大型プロジェクトはアルファロメオのルドルフ・フルスカの依頼で取り組んだアルファスッドでした。彼はベルトーネ時代の私をよく知っており、私のビジョンを信頼してくれていました。今でもアルファスッドは私の手掛けた最高のデザインのひとつだと思っています」と語る。

その後、混乱していたフォルクスワーゲンを救う任務を担ったポルシェ家のフェルディナント・ピエヒとの出会いがあった。この出会いがきっかけとなり、ゴルフ(米国名ラビット)をはじめとする数々のデザインを生み出すパートナーシップが結ばれたのだ。

「フォルクスワーゲンとの最初の仕事はパサート(1973年デビュー)でした」と回想する。「その成功により、私たちの関係は強固なものになりました。当時、フォルクスワーゲンは老朽化したビートルに続く新しい未来を思い描きながら、自らを刷新しようとしていました。私は彼らの生産ラインを視察した後、そのしっかりとした組織と組み立てを効率化するために開発された数多くのツールに深く感銘を受けました。まさしく彼らは純粋なエンジニアリング集団でした」

「ある日、ゲルハルト・リヒャルト・グンペルト(イタリアのVW輸入会社、オートゲルマの責任者)からある打診がありました。”良家の出身であり、優秀な技術者”を当社に招き、イタルデザインの仕事を見学させ、車体製造と設計の経験を積ませたいということでした。私は彼の到着便と空港到着日時を伝えられ、空港へと迎えに行きました。すると彼はオートバイでそこに現れたのです。ドイツからそのまま走ってきたというではないですか。そして、その人物は、ポルシェのフェルディナント・ピエヒと名乗りました。挨拶の後、彼は空港で、空輸されてきた彼の荷物を受け取ったのでした。

細心の注意を払い、あらゆることをメモし図表にするのが彼のやり方でした。毎朝8時、彼は机に向かっていて、立ち上がって私を迎えてくれました。彼は素晴らしいテストドライバーでもあり、マントヴァーニの技術力を本当に高く評価していました」

さて、次に登場するのがVWゴルフ(1974年5月デビュー)だ。ジウジアーロに言わせればそれは「簡単なプロジェクトだった」そうだ。「彼らは技術図面を用意していましたが、彼らを訪問した時、分解されたフィアット128を発見しました。彼らはフィアット128がベンチマークとなるモデルだと教えてくれましたが、私はその車のあらゆる寸法を熟知していました。技術者たちと議論をする際に、これは大いに役立ったのは言うまでもありません。しかしプロジェクトは一時中断され、ベルトーネが小型2ドア車の開発を任されました。代わりに私たちはシロッコ(1974年3月デビュー)の生産化を担当することになったのです。しかしゴルフの開発は待ったなしの状態となっていたため、開発を再開することになったのです。VW内部では成功しないという見方が多かったにもかかわらず…」

パンダこそ最善

その後、イタルデザインはフィアット・グループと協力し、フィアット・パンダ、ウーノ、プント、ランチア・デルタ、プリズマ、テーマといったモデルを手がけた。「パンダは私の夏休みを奪い、生涯で最も大きな恐怖を味わうことになったのです」とジウジアーロは大笑いする。

「1976年7月、私はサルデーニャ島に家を借りていました。3週間の海とビーチ、そして休息を求めて。ところが7月26日、当時のフィアットCEOカルロ・デ・ベネデッティが訪ねてきたのです。126の2気筒エンジンをより現代的な車に搭載したいということでした。それはフランス流のシンプルな車となるはずでした。製造コストも維持費も安く、非常に実用的で、労働者や農民を含む様々なニーズに対応できるモデル。エンジン以外の指定は一切なく、その配置場所すら自由でした。休暇から戻り次第、すぐに作業に取り掛かると約束したのですが…、それは不可能でした。彼らはそれを”今すぐ”必要としていたからなのです」

「デ・ベネデッティもサルデーニャに別荘を持っており、8月15日に当地で打ち合わせを設定しました。私はたしかに懸命に働いたし、マントヴァーニも山中の別荘でエンジニアリング面に取り組みました。打ち合わせの期日が近づいたので、打ち合わせ場所の手配のためにデ・ベネデッティの別荘に電話をかけたところ、なんと彼はもうサルデーニャには居なかったのです。トリノに慌てて戻り、新聞を読んだところ、デ・ベネデッティがフィアットを解雇されたというではありませんか。私は凍りつきました!私たちの間には契約も何もなかったので、マントヴァーニと私のひと夏の努力が無駄になったと愕然としました。しかし驚くべきことに、30分も経たぬうちに、ニコラ・トゥファレッリ(当時のフィアット研究開発責任者)から電話があり、私たちの作業内容は把握しているから、心配しないでプロジェクトを続けてくれと告げられました。首の皮一枚で、私たちは助かって、パンダは誕生したのです」

ジウジアーロのパンダへの情熱は、彼の熱のこもった話し方からもとって感じることができた。「まさにシンプルなコンセプトの極致に達した車なのです。126より大きいのに重量は同じで、室内空間は格段に広い。製造・修理が容易なフラットな表面と、極めて自由度が高い内装を備えています。また、エンジンが非力だったため、徹底的な軽量化を図りました。パンダが大成功したので、フィアットが4気筒エンジンを追加する決断をしましたが、マントヴァーニは、かわいそうなことに構造計算をゼロからやり直さなければならなかったのです。元の設計では追加重量と出力を支えきれなかったからです」

「パンダは私が手掛けた車の中で、最も誇りに思う一台です。快楽主義が称賛されるこの世の中で、車こそが、それを象徴する重要な存在とみなされます。そして、誰もが”最高に美しいかたちの車を生み出すことが誇りに値すると思ってはいませんか?

私の手掛けた車の中で、アルファロメオ・ブレラはその好例と言えるかもしれませんが、それはあまりにも単純な考え方だと思うのです。私がこれまで手掛けた中で最高の車はパンダだと強く信じている理由は、その部品の一つ一つ、全てが機能性を常に念頭に置いて創造されたからなのです。そしてこれは、機能こそが最優先すべき指標であるという、私の純粋な自動車観に合致するのです」

「車をデザインする際、多くの問いを自らに投げかけ、正しい答えを見つけねばならなりません。誰が使うのか?なぜ他の車ではなくこの車を選んだのか?乗り降りや車内は快適か?私の作り出すものは特定のニーズに応えているか?そして今、初期のパンダがコレクターから重要なクラシックカーとして熱望されているのを見ると、私は喜びでいっぱいになります。現在のパンダに対する高い評価の一因は、生産当時の過小評価に皆が罪悪感を抱いているからだと思います。労働者階級向けの単なる働き馬と見なされていて、友人たちは私がそれをデザインしたことをからかったものです」と語る。

そして現在

数多くの成功したモデルを手掛けたジウジアーロに、自身のオリジナルデザインへ加えられたフェイスリフトなどの改良について尋ねてみた。「あまり気にしていないですね」と彼は言う。「私は過去よりも未来を見据える傾向があります。プロジェクトが完了した時点で、私にとっては終わりなのです。前に進まねばならない。とはいえ、時折、他者が私のオリジナルデザインに施す変更を見ると、彼らが下す決断の背景に何があるのか、疑問に思うこともあります」

それから彼は、私たちを取り囲む自身の手掛けた車のコレクションを指さした。「私や息子が手掛けたモデルがあるでしょう。でも、それは私の考えではありません。コレクションを築くという発想は、100%息子のファブリツィオのものなのです。彼がそれらを買い戻すために支払った金額を知って、私は文句を言ったのですが、確かにこうやって囲まれるのは美しいと思うようになりました」

しかし、ここには重要なモデルが欠けてはいないか?初代パンダも初代ゴルフもコレクションにないのだ。「その通り」と彼は微笑みながら言う。「多くはイタルデザイン社に所蔵されていて、彼らは親切にも貸してくれるから、ここに置く必要がありません。ゴルフGTIの5ドアモデルも彼らの手元にある。世界でたった2台しか作られなかったうちの1台で、もう1台は指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン用でした。そう、これにはエピソードがあるんです。初代ゴルフGTIが発売された時、VWは私に一台贈りたいと提案してくれました。問題は、息子が生まれたばかりで、先ほども言ったように、車には実用性が不可欠だということなのです。そこで要望を伝えると、5ドアモデルを提案してくれたのです。その車はロケットのように速かった。エッティンガー製エンジン載せてくれたおかげで、曲がりくねった道や信号待ちで、パワフルなマシンを駆るドライバーたちのプライドを打ち砕きながら、存分に楽しんだものです」と回想する。

2015年にファブリツィオと共同設立したGFGスタイルで今も活躍する彼にとって、自動車は野心の表現であり、自己を語る手段である。「今や、自動車は単なる実用的なものを超えた存在になっています。現代車は排ガスや安全面で、より完璧ですが、どれも似通っている。そのため人々は、車に関して、機能を備えた美しい造形という点で評価するのではなく、単なる道具として捉えざるを得ないでしょう」

では、私たちがルネサンスのような、美を創造するのに最適な時代と場所にいるとすれば、どうなのだろうか、ともジウジアーロに質問してみた。

「あの時代こそ真の芸術が生まれました。我々はただ車をデザインしているだけですが、レオナルド・ダ・ヴィンチが自動車を知っていたなら、彼は間違いなく完璧な技術者でありデザイナーとなっていたでしょう」と彼は答えた。最後に付け加えるなら、それはまさにジウジアーロ自身に他ならないのではないだろうか。

編集翻訳:越湖信一 Transcreation:Shinichi EKKO
Words:Massimo Delbo Photography:Alessandra Leocata