『徹子の部屋』で追悼・美輪明宏さん「10歳の時、長崎で原爆投下の被害に。16歳で〈銀巴里〉へ。奇跡のような出会いを得て」
歌手で俳優の美輪明宏さんが2026年6月20日、老衰のため逝去されました。享年91歳。6月29日の『徹子の部屋』では追悼・美輪明宏さんが放送となります。心よりご冥福をお祈りするとともに、美輪さんが米寿を迎え半生を振り返った『婦人公論』2024年1月号の記事を再配信します。*****『婦人公論』の連載「美輪明宏のごきげんレッスン」で、珠玉の言葉と美しい書を届けてくださっている美輪さん。昨年88歳を迎え、半生を振り返ります。(撮影=浅井佳代子 構成=篠藤ゆり)
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朝起きたら庭の草花と会話して
2023年5月に米寿を迎えましたが、とくにお祝いはしませんでした。88歳になったからといって、めでたいことはないですよ。物価高の折、「お花を贈らなければ」などと気を使わせるのも申し訳ないでしょう。
それに、世界に目を向けると戦争で苦しんでいる方もたくさんいるのに、お祝いの会などで贅沢する気持ちになりません。私たちはご飯を食べられるし、逃げまどわなくてもすんでいます。平和であることに感謝しつつ、誕生日もひっそりと過ごしました。
日々の生活は、至極平穏です。朝起きると窓もドアも開け放ち、外の空気を取り入れます。そして庭の草花、木の精霊、金神様、水神様、龍神様に話しかけるのです。
「おはようございます。悪霊、死霊、生霊、怨霊、病魔を退散させ、エネルギーをくださって、どうもありがとうございます。また今日もよろしく」と。
そうすると、ふわ〜っといい風が入ってきます。皆さんちゃんと、応えてくれるのですね。寝るときにも必ず、「今日もご苦労さまでした。今夜も守ってください」とご挨拶してから、枕元の灯りを消します。
「銀巴里」で出会った綺羅星のような天才たち
私は10歳のとき、長崎で原爆投下の被害にあいました。その影響もあって、決して身体が丈夫ではありません。それなのにこの歳までずっと表現者でいられたのは、奇跡のようなものです。
中学時代に音楽に目覚め、オペラ歌手を目指して上京し、音楽高校に入学しました。その後、実家と絶縁したため高校を中退。銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」のオーディションを受け、歌い始めたのは16歳の時です。
そのうちファンが増え、江戸川乱歩さんや川端康成さん、三島由紀夫さん、安岡章太郎さん、吉行淳之介さん、大江健三郎さん、寺山修司さんなど、綺羅星のような天才たちが聴きに来てくれるようになりました。
なかには、中原淳一さんなど画家もいました。ある日、銀座を歩いていたら東郷青児さんが5、6人のお供を連れて歩いていらして。その中の1人が、「きみ、きみ。先生が会いたいと言っている」と私を呼びに来ました。
聞けばモデルになってほしいということでしたが、私は当時、ほかの画家のモデルを務めていたので、「仁義に反します」とお断りしたのです。東郷さんはそれでもお怒りにならず、「銀巴里」に唄を聴きに来てくださいました。
人の縁とは不思議なものですね。江戸川乱歩先生の小説『黒蜥蜴』を三島由紀夫さんが戯曲にして、1962年、当時の大女優、初代・水谷八重子さんがヒロインを演じました。
観劇に行って楽屋を訪問すると、水谷さんが「私は健康的だから、こういう女の役は向いていない。あんたのほうが合うわよ」とおっしゃる。「あら、じゃあ私は不健康って言いたいの?」「だって、そうでしょう?」。そんなやりとりがありました。
それから5年後、寺山修司さんが戯曲『毛皮のマリー』を、私のために書き下ろしてくださった。公演は大盛況で、劇場があった新宿の伊勢丹近くの通りが、人で埋まって歩けなくなったほど。
すると観に来てくださった三島さんが、上演後に『黒蜥蜴』のヒロインを演じてほしいと頼んでいらしたのです。もちろん、お引き受けしました。
その後、乱歩先生とお会いした際、「『黒蜥蜴』を演ることになったので観に来てくださいね」と言うと、「いや、行かない」。理由を聞いたら、「いったん人の手に渡ったものは、自分のものじゃなくなるんだ。僕が行くと、三島くんに気を揉ませることになるから」とおっしゃったことをよく覚えています。
思い起こせば、すばらしい方々とお仕事をご一緒できたのは「銀巴里」のおかげ。70年以上前の16歳のあの日、オーディションを受けたことで、今日まで続く道が始まったのです。
2024年、80代最後の年を迎えます。今もこうして皆さまにメッセージをお伝えできることを、心から感謝しております。

