高田原ってどこ?【懐かしの風景と今はない地名・RKKフォトミュージアム#06】~RKKニュースミュージアム~ 熊本
映像は、1961年(昭和36年)に放送された、「高田原でガサ入れ」と題されたニュースの一部です。タイトルの「ガサ入れ」とは警察の家宅捜索のこと。では高田原とは・・・?
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【高田原】
高田原は「こうだばる」と読みますが、「高田原町」という町名があるわけではありません。
江戸時代の熊本城下は、大きく「京町」「寺原」「手取」「古町」「山崎」といった地域に分けられます。「高田原」はそのひとつ。現在の安政町や手取本町、中央街、下通、新市街周辺の広い地域が高田原と呼ばれ、下級武士の武家屋敷が立ち並んでいました。
名前の由来は、代継神社が現在の花畑公園付近にあった頃、その東側一帯が神社の社領(神田)であったことから「神田原(こうだばる)」と呼ばれたという説が有力のようです。
明治以降、「高田原」は町名としては用いられませんでしたが、熊本の歓楽街を指す通称として戦後まで広く使われました。しかしその名は次第に忘れられた様で、RKKのニュース原稿に高田原の名が使われたのは、この「高田原でガサ入れ」が最後でした。
【高田原の写真】
RKKには、動画だけでなく放送に使用した写真や資料写真も多数保存されています。半世紀以上前の熊本を写した懐かしいカラー写真の中から、高田原が写された写真を紹介します。古い写真なので変色・退色が進んでいますが、AIを使った退色補正と人力での調整で、当時の風景がよみがえりました(AIによる補正は必ずしも正しい色合いを再現していない場合があります。ご了承ください)。
最初の写真は1972年(昭和47年)、熊本大学附属病院から市街地方向を撮影したものです。左の橋は新代継橋。高田原の南半分にあたる地域が写っています。この一帯は熊本の繁華街・歓楽街ですが、当時は現在より民家が多かったことが見て取れます。画面奥、交通センターの左側では岩田屋伊勢丹デパートの建設が始まっているのが見えます。現在はサクラマチクマモトになっている場所です。
こちらは同じ場所から少し北方向を撮影した写真で、高田原の北半分が捉えられています。奥のほうに長崎屋と、増築工事中の鶴屋百貨店も見えています。
1970年代後半の撮影だと思われる航空写真です。高田原は画面の右上の部分です。
高田原付近を拡大した画像です。鶴屋百貨店本館は現在と大きな違いはありませんが、その左奥に見える2棟の機械式立体駐車場(水色の建物)は、懐かしく思われる方も多いのではないでしょうか。熊本初の立体駐車場として1969年(昭和44年)10月に完成しました。
更に左の銀色のドームは「キャバレー銀河」。熊本の歓楽街を代表する施設でした。現在この場所は「銀河駐車場」になっています。
【歩町、相撲町・・・城下町の地名】
高田原は武家屋敷地だったため、江戸時代には町名がありませんでしたが、1880年(明治13年)に、通り(小路)の名前を元にして新たに町名がつけられました。
上の表は、現在「中央街」になっている旧町名の一覧です。「歩町」「相撲町」「駕町」等、多くはそれぞれの通り沿いに住んでいた下級武士にちなんだ名前になっています。
○歩町(かちちょう)
徒歩で主君の護衛にあたる「歩侍(かちざむらい)」の居住地だった
○相撲町(すもうちょう・おすもうちょう)
吉田司家があったため、付近に相撲関係者が屋敷を構えていた
○昇町(のぼりちょう)
幟旗(のぼりばた)を持つ「御昇組衆」の居住地だった
○楠町(くすのきちょう)
大きな楠の木があった
○駕町(かごちょう・おかごちょう)
殿様が乗る駕籠を担ぐ「御駕籠衆」の居住地だった
○仲間町(ちゅうげんちょう)
中間衆(下級の武家奉公人)の居住地だった
○鷹匠町(たかじょうまち)
御鷹匠衆の居住地だった
1965年(昭和40年)の住居表示改正でこれらの町名は無くなってしまいましたが、そもそもの由来となった「通り」の名前のいくつかは、現在もそのまま使われています。
<参考文献>
「新熊本市史」(熊本市)
熊本市都市政策研究所「熊本都市形成史図集」(熊本市)
熊本市地域政策課「熊本市 新・旧町名対照表」(熊本市)
熊本地名研究会「くまもと城下の地名」(熊本日日新聞社)
「番地入 熊本市全図(1955年)」(塔文社)
